上の人の声
1
水は、もう滴だった。
天井裏の金属板を叩く音が、十秒に一回になる。
音が小さくなるほど、聞こえるものが増える。
下。
カツン。
乾いた床を踏む音。
濡れた場所を避けて、同じ線をなぞる歩幅だった。
透真は点検口の縁に指を置いた。
濡れた養生シートを、落とさないように握っている。
落とせば音が出る。
音は返事になる。
下で、吸気。
……すう。
長い。
水の匂いが薄くなって、別の匂いが浮いてくる吸い方だった。
透真は動けなかった。
動けば天井が鳴る。
動かなければ匂いが溜まる。
どちらでも届く。
点検口の縁から、赤い光が細く漏れている。
その細い光の真下へ、乾いた線が寄ってきているはずだと、透真は知っていた。
隠すために濡らした。
濡らしたせいで、乾き方が地図になる。
指先が、紙の繊維を揉んだ。
音が出ないように、排煙ファンの残った振動に合わせて。
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2
六十二階のラウンジ。
星野玲奈は端末の裏メニューを開いていた。
外部には繋がらない。館内回線も死んでいる。
それでもログだけは流れている。
「SPR系統圧、完全に喪失しました。漏水した系統です」
九条玲司が端末を覗き込む。
「損傷位置と、魔族の検知位置は一致しますか」
星野は首を振った。
「一致しません。検知エリアから離れています」
九条は浅く頷いた。
「つまり、誰かが意図的に配管を外した」
沈黙。
御影隼人が言う。
「下の清掃員か」
九条は答えずに、星野へ向き直った。
「停止指示を出した後も一機が動いている。その機体に、こちらからテキストを送れますか」
星野は操作を進めた。
「……ローカル・ブロードキャストの制御チャンネルが開いたままです。停止指示を受けなかった機体なので、制御経路が生きています。同じチャンネルに乗せれば、テキストのオーバーレイは出せます」
「外部で受信されている映像にも」
「はい。受信側全員に表示されます」
九条は一拍だけ考えた。
「出してください。久住透真に、六十二階ラウンジへ移動するよう指示する内容で。短く」
城戸マサキが苛立ちを隠さず言った。
「指示って、あいつが聞くと思うのかよ」
九条は城戸を見た。穏やかな顔のまま。
「聞くかどうかは問題ではありません。こちらが“指示を出した”ことが残るのが重要です。見られている以上、何もしなかった絵は避けたい」
御影が低い声で言う。
「記録のために呼ぶのか。助けるために呼ぶのか」
九条は答えない。
答えない沈黙が三秒。
「……両方です」
柊つぐみが膝の上の救急キットを抱え直した。
「あの、鬼頭さんが……さっきから連絡室にいません」
九条の目が一瞬だけ細くなる。
星野がログを確認した。
「館内PHSの一部がローカルだけ生きています。連絡室の端末から下層へ発信したログが残っています。三分前。発信位置が……清掃用具室のあるフロアです」
「封鎖時の鬼頭さんは?」
「地下一階の管理室にいました。そこから移動した可能性が高いです」
九条は表情を変えなかった。変えないこと自体が合図だった。
「星野さん。予定通りオーバーレイを」
星野の指が動く。短い文字列。命令の形。
送信の確定音は鳴らない。
でも、この部屋の空気がわずかに硬くなった。
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3
天井裏。
胸ポケットが震えた。
ドローンの画面に、白い文字が重なった。
いつもより硬い。
「久住透真。応答せよ。62Fラウンジへ移動。指示に従え」
透真は画面を見なかった。
見なくても分かった。
言い方が違う。
現場の言葉じゃない。報告を引き出す言葉だ。
息を薄くする。
直後、もう一つ文字が重なった。短い。
「それ、俺じゃない」
「制御チャンネルに割り込み。返事するな」
どちらにも返さなかった。
返す声が、地図になる。
下で、金属音。
カラ……
ボルトが転がる音。
返事の音。
そのとき、廊下の奥から別の音が混じった。
爪じゃない。硬い靴底。
革靴。
そして声。
「久住!」
鬼頭章介の声だった。
透真の喉が硬くなる。
「久住! いるんだろ! 出てこい!」
赤い廊下に声が反響する。
反響は、方向を教える。
鬼頭は床を見て、言った。
「床が濡れてんだ! 配管の継ぎ目が外れてる!
お前以外に誰がやるんだよ! 勝手なことすんな!」
現場を見れば分かる。
濡れ方と外れ方は、壊されたんじゃない。外された。
鬼頭はそれを断定できる。
断定できる人間の声が、今この場で一番危なかった。
鬼頭の革靴が一歩。
カツン。
乾いた線の上。
濡れを避けてできた線の上。
その瞬間、廊下の反対側で、爪の音が変わった。
重い個体の歩幅。
さっきまで透真の真下で“上”を嗅いでいた気配が、声の方へ引かれる。
カツン。
カツン。
近づいている。
透真ではなく、鬼頭の声へ。
鬼頭がさらに叫ぶ。
「上の方が困ってるんだ! 九条さんがお前を――」
言葉が途中で止まった。
止まったのは、黙ったからじゃない。
気づいたからだ。
吸気が、鬼頭の足元で止まった。
そして硬い音。
カツン。
爪の音。
鬼頭が息を吸った。
吸って、吐けない音。
「……なんだよ……」
透真は天井裏で、指先を握った。
ふやけた指が手袋のゴムに吸いつく。
鬼頭の声がもう一度出た。今度は命令じゃない。
「久住! お前、ここに――」
最後まで届かなかった。
重い足が床を叩いた。
水の残った場所を避け、乾いた線を踏み越える音。
そして低い呼気。
言葉じゃない。怒鳴りでもない。
捕まえる前に出す、確認の音。
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4
白波ユウの画面には、文字が二重に重なっていた。
硬い命令。
その上にユウの短い警告。
コメント欄が荒れそうになる。
> 誰だよ割り込んだ
> 上層から?
> 声がしてる、人間だ
> 呼んだら寄ってくるだろ
ユウは声を低く落とした。
「黙れ。今の呼びかけが一番危ない。
声は道になる。あの中では声が地図だ」
画面の端に、革靴の影。
その方向へ黒い影が寄っていく。
ユウはオーバーレイを出す。短く。
「動くな」
「上にいるなら、そのまま」
そして視聴者数を見てしまう。
桁が変わっている。
外部サイトの埋め込みのアイコンが点滅している。
この映像は、もう“中”だけのものじゃない。
ユウは言った。
「……消せない。割り込みも、呼びかけも、全部残る。
出した側も、巻き込まれた側も」
コメントが一瞬だけ遅くなった。
> @ミラー職人:保存、完了。今回は三重
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5
天井裏。
鬼頭の革靴が後ろへ下がる。
カツン、カツン。
逃げる音。
逃げる音は追われる音になる。
吸気が一度だけ鳴った。短い。確信の吸い方。
透真は動けなかった。
鬼頭が“売った”わけじゃない。
ただ、声を出した。命令の形で。助けるふりの形で。
その声が、道になった。
匂いは自分で薄くできた。
音は自分で殺せた。
沈黙は自分で選べた。
水は自分で撒けた。
でも、他人の声は止められない。
止められない声が、いちばん危ない。
点検口の真下で、影が動いた。
黒い毛皮の肩。低い頭。
上を見ている。
鼻先が天井へ向く。
……すう。
透真の胃が絞られた。
嗅いでいる。上を。今を。
点検口の縁に置いた養生シートを、ゆっくり引く。
落とさない。音を出さない。
でも引けば水が少し落ちる。
水が一滴、落ちた。
小さな音。
その小さな音に、爪が一歩。
カツン。
乾いた線の上を、まっすぐ点検口の真下へ。
透真はその場で決めた。
降りる。
降りて、別の場所へ。
ここにいた証拠を、これ以上増やさない。
透真の手が点検口の縁にかかった。
パネルを落とさない角度。落とせば返事になる。
でも、落とさずに降りても返事になる。
息を薄くして、指先の感覚だけで縁を探った。
濡れたテープ。紙の繊維。金属の冷たさ。
下から、もう一度吸気。
……すう。
今度は短い。
「そこだ」の吸い方だった。
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点検口の真下で、爪が一度だけ、天井を叩いた。




