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13/14

上の人の声

1


水は、もう滴だった。


天井裏の金属板を叩く音が、十秒に一回になる。

音が小さくなるほど、聞こえるものが増える。


下。


カツン。


乾いた床を踏む音。

濡れた場所を避けて、同じ線をなぞる歩幅だった。


透真は点検口の縁に指を置いた。

濡れた養生シートを、落とさないように握っている。


落とせば音が出る。

音は返事になる。


下で、吸気。


……すう。


長い。

水の匂いが薄くなって、別の匂いが浮いてくる吸い方だった。


透真は動けなかった。

動けば天井が鳴る。

動かなければ匂いが溜まる。


どちらでも届く。


点検口の縁から、赤い光が細く漏れている。

その細い光の真下へ、乾いた線が寄ってきているはずだと、透真は知っていた。


隠すために濡らした。

濡らしたせいで、乾き方が地図になる。


指先が、紙の繊維を揉んだ。

音が出ないように、排煙ファンの残った振動に合わせて。


---


2


六十二階のラウンジ。


星野玲奈は端末の裏メニューを開いていた。

外部には繋がらない。館内回線も死んでいる。

それでもログだけは流れている。


「SPR系統圧、完全に喪失しました。漏水した系統です」


九条玲司が端末を覗き込む。


「損傷位置と、魔族の検知位置は一致しますか」


星野は首を振った。


「一致しません。検知エリアから離れています」


九条は浅く頷いた。


「つまり、誰かが意図的に配管を外した」


沈黙。


御影隼人が言う。


「下の清掃員か」


九条は答えずに、星野へ向き直った。


「停止指示を出した後も一機が動いている。その機体に、こちらからテキストを送れますか」


星野は操作を進めた。


「……ローカル・ブロードキャストの制御チャンネルが開いたままです。停止指示を受けなかった機体なので、制御経路が生きています。同じチャンネルに乗せれば、テキストのオーバーレイは出せます」


「外部で受信されている映像にも」


「はい。受信側全員に表示されます」


九条は一拍だけ考えた。


「出してください。久住透真に、六十二階ラウンジへ移動するよう指示する内容で。短く」


城戸マサキが苛立ちを隠さず言った。


「指示って、あいつが聞くと思うのかよ」


九条は城戸を見た。穏やかな顔のまま。


「聞くかどうかは問題ではありません。こちらが“指示を出した”ことが残るのが重要です。見られている以上、何もしなかった絵は避けたい」


御影が低い声で言う。


「記録のために呼ぶのか。助けるために呼ぶのか」


九条は答えない。

答えない沈黙が三秒。


「……両方です」


柊つぐみが膝の上の救急キットを抱え直した。


「あの、鬼頭さんが……さっきから連絡室にいません」


九条の目が一瞬だけ細くなる。


星野がログを確認した。


「館内PHSの一部がローカルだけ生きています。連絡室の端末から下層へ発信したログが残っています。三分前。発信位置が……清掃用具室のあるフロアです」


「封鎖時の鬼頭さんは?」


「地下一階の管理室にいました。そこから移動した可能性が高いです」


九条は表情を変えなかった。変えないこと自体が合図だった。


「星野さん。予定通りオーバーレイを」


星野の指が動く。短い文字列。命令の形。


送信の確定音は鳴らない。

でも、この部屋の空気がわずかに硬くなった。


---


3


天井裏。


胸ポケットが震えた。

ドローンの画面に、白い文字が重なった。


いつもより硬い。


「久住透真。応答せよ。62Fラウンジへ移動。指示に従え」


透真は画面を見なかった。

見なくても分かった。


言い方が違う。

現場の言葉じゃない。報告を引き出す言葉だ。


息を薄くする。


直後、もう一つ文字が重なった。短い。


「それ、俺じゃない」

「制御チャンネルに割り込み。返事するな」


どちらにも返さなかった。

返す声が、地図になる。


下で、金属音。


カラ……


ボルトが転がる音。

返事の音。


そのとき、廊下の奥から別の音が混じった。


爪じゃない。硬い靴底。

革靴。


そして声。


「久住!」


鬼頭章介の声だった。


透真の喉が硬くなる。


「久住! いるんだろ! 出てこい!」


赤い廊下に声が反響する。

反響は、方向を教える。


鬼頭は床を見て、言った。


「床が濡れてんだ! 配管の継ぎ目が外れてる!

 お前以外に誰がやるんだよ! 勝手なことすんな!」


現場を見れば分かる。

濡れ方と外れ方は、壊されたんじゃない。外された。

鬼頭はそれを断定できる。


断定できる人間の声が、今この場で一番危なかった。


鬼頭の革靴が一歩。


カツン。


乾いた線の上。

濡れを避けてできた線の上。


その瞬間、廊下の反対側で、爪の音が変わった。


重い個体の歩幅。

さっきまで透真の真下で“上”を嗅いでいた気配が、声の方へ引かれる。


カツン。

カツン。


近づいている。

透真ではなく、鬼頭の声へ。


鬼頭がさらに叫ぶ。


「上の方が困ってるんだ! 九条さんがお前を――」


言葉が途中で止まった。


止まったのは、黙ったからじゃない。

気づいたからだ。


吸気が、鬼頭の足元で止まった。

そして硬い音。


カツン。


爪の音。


鬼頭が息を吸った。

吸って、吐けない音。


「……なんだよ……」


透真は天井裏で、指先を握った。

ふやけた指が手袋のゴムに吸いつく。


鬼頭の声がもう一度出た。今度は命令じゃない。


「久住! お前、ここに――」


最後まで届かなかった。


重い足が床を叩いた。

水の残った場所を避け、乾いた線を踏み越える音。


そして低い呼気。

言葉じゃない。怒鳴りでもない。

捕まえる前に出す、確認の音。


---


4


白波ユウの画面には、文字が二重に重なっていた。


硬い命令。

その上にユウの短い警告。


コメント欄が荒れそうになる。


> 誰だよ割り込んだ

> 上層から?

> 声がしてる、人間だ

> 呼んだら寄ってくるだろ


ユウは声を低く落とした。


「黙れ。今の呼びかけが一番危ない。

 声は道になる。あの中では声が地図だ」


画面の端に、革靴の影。

その方向へ黒い影が寄っていく。


ユウはオーバーレイを出す。短く。


「動くな」

「上にいるなら、そのまま」


そして視聴者数を見てしまう。

桁が変わっている。

外部サイトの埋め込みのアイコンが点滅している。


この映像は、もう“中”だけのものじゃない。


ユウは言った。


「……消せない。割り込みも、呼びかけも、全部残る。

 出した側も、巻き込まれた側も」


コメントが一瞬だけ遅くなった。


> @ミラー職人:保存、完了。今回は三重


---


5


天井裏。


鬼頭の革靴が後ろへ下がる。


カツン、カツン。


逃げる音。

逃げる音は追われる音になる。


吸気が一度だけ鳴った。短い。確信の吸い方。


透真は動けなかった。


鬼頭が“売った”わけじゃない。

ただ、声を出した。命令の形で。助けるふりの形で。

その声が、道になった。


匂いは自分で薄くできた。

音は自分で殺せた。

沈黙は自分で選べた。

水は自分で撒けた。


でも、他人の声は止められない。

止められない声が、いちばん危ない。


点検口の真下で、影が動いた。

黒い毛皮の肩。低い頭。

上を見ている。


鼻先が天井へ向く。


……すう。


透真の胃が絞られた。

嗅いでいる。上を。今を。


点検口の縁に置いた養生シートを、ゆっくり引く。

落とさない。音を出さない。

でも引けば水が少し落ちる。


水が一滴、落ちた。


小さな音。


その小さな音に、爪が一歩。


カツン。


乾いた線の上を、まっすぐ点検口の真下へ。


透真はその場で決めた。


降りる。

降りて、別の場所へ。

ここにいた証拠を、これ以上増やさない。


透真の手が点検口の縁にかかった。

パネルを落とさない角度。落とせば返事になる。


でも、落とさずに降りても返事になる。


息を薄くして、指先の感覚だけで縁を探った。

濡れたテープ。紙の繊維。金属の冷たさ。


下から、もう一度吸気。


……すう。


今度は短い。

「そこだ」の吸い方だった。


---


点検口の真下で、爪が一度だけ、天井を叩いた。


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