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12/14

足跡が残る

1


水の落ちる場所へ、爪が近づいていた。


カツン。


水音の合間に、硬い音が混じる。

慎重な歩幅。重い個体の歩き方。


透真は天井裏で、濡れた養生シートの端を握ったまま動かなかった。

シートは水を吸って重い。重いものは落とせる。落とせば音が出る。音は返事になる。


水の盾は弱くなっている。

落ちる音の間隔が伸びている。圧が落ちている。


透真は下を見ていない。

見ていないが、分かる。


濡れた床を避けて歩けば、歩いた場所だけが乾いて残る。

ワックスをかけた後、乾く前に誰かが歩くと足跡が浮く。拭いても色が変わる。

清掃員は、その“乾き方”で動線が割れるのを知っている。


今、下の床で同じことが起きているはずだった。

水を撒いたことで隠したはずの空間に、歩いた線だけが乾いて浮き上がる。

自分が汚したものが、相手の地図になる。


透真は指先で雑巾を一枚ずらした。

濡れた布が金属板に擦れて、鳴りそうになる。鳴る前に止める。


下で、吸気。


……すう。


短い。すぐ止まる。

嗅いで、捨てた。水と洗剤の匂いがまだ濃い。


だから匂いでは追わない。別のものを使う。


下の爪が、また一歩。


カツン。


---


2


透真は点検口の縁に手を当てた。

戻していない穴。赤い光が細く漏れている。


降りない。降りたら足音が返事になる。


代わりに、天井裏の水を動かす。


透真は養生シートの端をゆっくり引いた。

落とさない。引く。引くと、水の流れが変わる。

水が別の場所へ落ちる。


バシャッ。


一つだけ、意図した大きな音。


下の爪が止まった。

聞いたからだ。


透真はその一拍で、天井裏の配管を見た。

細い金属の吊りボルト。天井材を支える棒。一本緩めれば天井がたわむ。たわめば隙間が増える。水が落ちる場所が増える。


透真は吊りボルトに手を伸ばした。

ナットに指をかけて回す。回らない。

工具がない。スキルなら外せる。


でも声が要る。声は返事になる。


排煙ファンの振動を確かめる。ここでは遠い。声が混ざらない。

透真は手を引いた。


外せない。今は外せない。


代わりに手でできることをやる。

結束バンドを折る。折る前に紙を当てる。音が出ないように潰す。


指先に紙の繊維が刺さった。

刺さった感触が、妙に現実だった。


下で、爪が動いた。


カツン。


止まった場所から、半歩ずれる。

水の落ちる場所を避けるように。


避け方が上手い。


---


3


胸ポケットが震えた。


白い文字。


「水、あと数分で止まる」

「床が乾いたら匂いも音も戻る」


透真は画面を見ない。

見ないまま、指先だけ動かす。


養生テープを千切る。振動のタイミングに合わせて。

テープを点検口の縁に貼った。パネルが落ちて鳴るのを防ぐため。


透真は水の滴に触れた。

指先が冷たい。手袋の中が濡れている。指がふやけて感覚が鈍る。


感覚が鈍るのは怖い。

清掃は指先でやる。指先が死ぬと手順が崩れる。


手袋の表面に刻印板を当てた。

触れている面だけ。自分の手袋の表面だけ。洗浄はそこにしか届かない。


排煙ファンの振動が届く位置まで、半歩だけ寄った。声が混ざる距離。


「……洗浄」


手袋の表面の水が薄くなる。

冷えた膜が一枚剥がれる感覚。指が少し戻る。


その瞬間、下で吸気が止まった。


止まったのが分かった。

分かってしまうのが怖い。沈黙が、こちらに届いている。


---


4


下の爪が、水の落ちる場所に入った。


バシャ。


水を踏んだ音。

一瞬だけ乱れた。だがすぐに、重い足は止まらない。


水は盾じゃない。遅らせるだけだ。


透真は点検口の縁から、下の赤い光を一瞬だけ見た。身体は出さない。


見えた。


床の水が薄くなっている場所。

水を避けて歩いた線。

乾いた線が、点検口の真下に寄ってきている。


自分の推測が正しかった。

正しいことが、嬉しくなかった。


養生シートをもう一度引いた。

水の落ちる場所を変える。乾いた線の上に水を落とす。


バシャッ。


足跡を消すために水を撒く。


透真の手が、一瞬だけ止まった。


これは清掃だった。

汚れを落としているのではない。痕跡を消している。

でも手順は同じだ。跡が残らないように均す。


身体が勝手に続きの手順を求める。

水を撒いたら、次は拭く。拭いたら乾拭き。乾拭きしたら仕上げ。


透真はその衝動を喉の奥で止めた。

今は拭かない。拭くには降りる必要がある。降りたら足音が返事になる。


身体が覚えている手順と、今やるべきことが噛み合わない。

噛み合わないまま、指だけ動かす。


下で、鼻を鳴らす音がした。


三度。間隔が揃っている。


---


5


白波ユウの画面で、水の映像が薄くなっていた。


滴が減っている。

さっきまでの白い霧が消え、赤い廊下が戻ってきている。


コメントが流れる。


> 設備:水圧ほぼゼロ。ポンプ停止確定

> 防災屋:SPRは圧が落ちると手動復旧が必要

> 清掃:床が乾いたら歩行痕が残る。ワックス床は特に浮く

> 空調屋:排煙ファンは回ってる。音の盾はまだある


ユウはオーバーレイを出した。


「水、終わった。匂いと音が戻る」

「床に線が残る。乾いたら相手にも見える」


送信したあと、ユウは自分の机の上のコーヒーの染みを見た。

拭いていない。

拭く手順を知っているのに、拭いていない。


画面の中の人間は、濡れた天井裏で“線”を消そうとしている。

ユウはその染みから目を逸らさず、拭かなかった。


---


6


62階のラウンジ。


星野の端末に「SPR系統圧 喪失」が出ていた。

星野は端末を裏返し、また表に戻した。見なかったことにできないと分かったからだ。


九条が言った。


「設備損傷は、復旧後に必ず責任の所在が問われます」


城戸が噛みつく。


「責任の話してる場合かよ」


九条は表情を変えない。


「現場が動けば記録が残る。記録が残れば説明が必要になる。

 我々がやるべきなのは、説明の筋を整えることです」


御影が低い声で言った。


「筋ってのは、誰が悪いって筋か」


九条は答えない。

答えない沈黙が三秒。


「……必要なのは、事実の整理です。誰が何をしたか。誰が何をしなかったか。こちら側で把握しておくことです」


星野は端末の最後の行を見つめていた。

配管を壊したのは魔族ではない。

ログの位置が一致しない。


星野はそれを言わなかった。

言えば、九条の“整理”に組み込まれると分かったからだ。


---


7


天井裏。


水の音が、ほとんど消えた。

滴が落ちる間隔が十秒を超えている。


静けさが戻ってくる。

一度騒がしくした後の静けさは、耳が小さな音を拾う。


下で、爪が一歩。


カツン。


真下だ。


透真は点検口を閉めたい衝動を抑えた。

閉める音が返事になる。

開けたままでも沈黙が返事になる。


どちらでも伝わる。


下で、吸気。


……すう。


今度は長い。

水と洗剤の匂いが薄くなっている。薄くなった分、別の匂いが浮き上がる。


透真の匂いが戻ってくる。


汗。息。手袋のゴム。シャツの繊維。

覆いが消えれば、隠したものが出る。


透真は刻印板を握った。

洗浄をかけたい。

でも声が要る。排煙ファンの振動は遠い。ここで声を出したら返事になる。


出せない。


下で、金属音。


カラ……


ボルトが転がる音。

天井の真下から少し離れた場所。


誘い。


透真は動かなかった。


下で、爪が動いた。


カツン……


誘いの音へ向かったように聞こえた。

でも、違う。


爪の音の方向が、誘いと一致しない。

誘いを出しておいて、別の方向へ動いている。


先に動いているのは向こうだ。

こちらは後から気づくだけだ。


指先に、紙の繊維が残っていた。

折った結束バンドの端材。指で揉む。揉む音が出ないように振動に合わせる。


手は、まだ動く。

動くが、使える道具が減っている。


水は止まった。匂いは戻る。

音は消せない。


残っているのは、テープと、雑巾と、洗剤の残りと、スキル三つ。

スキルには声が要る。声は返事になる。


胸ポケットが震えた。


「そろそろ限界だ。降りる準備をしろ」


透真は画面を見なかった。


見ないまま、養生シートの水を最後に一度だけ絞った。

水が一筋、点検口の縁から落ちた。


下で、小さな水音。


それに重なるように。


カツン。


爪が、水の落ちた場所へ一歩。


---


足跡の線が、水を避けるようにして、点検口の真下へ伸びていた。


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