雨で塗りつぶす
1
天井裏の金属板が、微かに震えていた。
排煙ファンの振動。
透真はその上に膝を置いたまま、動かなかった。
下で吸気が鳴る。
……すう。
短い吸気が続く。
嗅いでいる。測っている。
匂いだけじゃない。上に何かがいることを、空気の動きで確かめている。
透真は指先で紙片をちぎり、金属板の継ぎ目に落とした。
湿った雑巾の上へ。意味のないノイズ。返事にならない音。
吸気は止まらない。
下で、削る音がした。
ゴリ……
天井の下地を狙っている。
壁ではない。上へ来るための音だ。
透真は動くと決めた。
動くと音が出る。動かないと匂いが溜まる。
どちらも返事になる。
返事にならない音で、返事を埋めるしかない。
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2
胸ポケットが一度だけ震えた。
画面は見ない。白い文字だけが薄く重なる。
「沈黙が読まれてる」
「音で隠せないなら"環境音"を作れ」
透真は視線を上げた。
天井裏の配管。その中に、細い枝管がある。天井へ降りる短い管。
スプリンクラーの枝管。
下の部屋の天井に繋がっている。
配電室で見たラベルを思い出す。SPRは生きていた。
系統が生きているなら、管の中に水が来ている。
枝管の継ぎ目に手を伸ばした。
ヘッドを割るのではない。継ぎ目を外す。
ヘッドを割れば感熱素子が飛ぶ。継ぎ目を外せば、管の破損で水が出る。
どちらでも水は出る。
でも、継ぎ目の方が音が小さい。
透真は刻印板を握り直した。
声は要る。声は返事になる。
でも、返事より大きい音を先に出せば、声は埋もれる。
排煙ファンの振動が強い。今なら声が混ざる。
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3
透真は配管の継ぎ目に指を当てた。
金属の冷たさが、手袋越しに残る。
息の形。
「……解体」
継ぎ目がほどけた。
次の瞬間、圧が来た。
水が噴き出す。天井裏で、白い霧みたいに散る。
金属に水が叩きつけられる音が、振動の上に重なった。
バシャッ。
音が、空間の輪郭を変えた。
静けさが消える。沈黙が消える。
水は配管の穴から下へ落ち始めた。
天井板の隙間から、部屋の中へ。
カートの下段に畳んであった養生シートを引き出した。
丸めたまま。広げない。広げるとバタつく。
シートの端を配管のそばの金属に押し当てる。
振動の中で、息の形。
「……接着」
シートが貼りつく。
水の流れが変わる。天井裏に溜まらず、狙った方向へ落ちる。
身体を低くして、シートの陰に潜り、次の板へ移動した。
水の音が全部を覆っている。今は音が出ても埋もれる。
下で、吸気が止まった。
止まったのは、迷ったからじゃない。
水の音が大きすぎて、嗅ぐ意味が薄れたからだ。
その直後、重い衝撃。
ドン。
下で何かが跳ねた。
床を蹴った重さ。水に反応した重さ。
透真はその衝撃を背中で受けながら、金属板を滑るように移動した。
膝と肘。雑巾の上。振動の中。
手が濡れていた。
手袋の中まで水が入っている。
冷たい。
この手は、さっきまで床を磨いていた手だ。
今は配管を壊して水を撒いている。
清掃員が水を撒く。
きれいにする手順を知っている手が、汚す手順に使われている。
その違和感を振り払わなかった。
振り払うと、手が止まる。
止まると、返事になる。
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4
水の音が続く。
天井裏の空気が湿る。
汗の匂いが薄くなる。鉄と水の匂いが勝つ。
透真は点検口の位置を探した。
用具室の真上ではない。隣の備品棚の上。
小さな隙間から、下の赤い光が漏れている。
点検口を押した。すぐには開けない。
下で、衝撃。
ドン。
今度は近い。
水の落ちる場所を避けて、位置を変えている。
重い個体が動いている。
慎重に。
床の水を見ている。天井の水音を聞いている。
点検口の縁を指で押さえ、ゆっくりずらした。
板が外れた。下へ赤い光。
そこから降りない。降りたら足音が返事になる。
代わりに、点検口の隙間から匂いだけを落とす。
天井裏の水がここにも届いている。
点検口の縁から、滴が垂れている。
その滴に、洗剤をほんの一滴だけ混ぜた。
匂いを強くするためじゃない。
自分の匂いより、水と洗剤の匂いを濃くするため。
濃い匂いが薄い匂いを覆えば、追跡の精度が落ちる。
滴が落ちる。
水は匂いを運ぶ。運んで、広げる。
広げて、自分の輪郭を消す。
透真は点検口を戻した。
接着は使わない。声は返事になる。
置くだけ。
下で、吸気が鳴った。
……すう。
短い。すぐ止まる。
嗅いで、すぐ捨てた。
水と洗剤の匂いが強すぎる。
透真はその捨て方で分かった。
諦めていない。
方法を切り替えるだけだ。
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5
白波ユウの画面が、三つとも揺れていた。
ドローンの映像にノイズが走る。
水。天井裏で水が出ている。
映像が白く霞む瞬間がある。
ユウはコメント欄を見た。
> 防災屋:ヘッド作動じゃない。配管の継ぎ目を外した。漏水だ
> 空調屋:漏水だと系統の水圧が下がる。長くは持たない
> 設備:加圧ポンプが動いてれば追加加圧が来る。動いてなければ水圧低下で止まる
> 建築:位相封鎖下で電力供給が不安定なら、ポンプ停止の可能性あり
> @ミラー職人:保存、完了。ミラー、完了
ユウはオーバーレイを出した。
「水は長くない。ポンプ不明。時間稼ぎと割り切れ」
「水と洗剤で匂いを覆ってる。水が止まったら匂いが戻る」
打ち込んだ後、ユウは自分の部屋を見た。
六畳。三画面。エアコンの音。
乾いた空気。安全な椅子。
画面の中では、濡れた天井裏を這っている人間がいる。
配管を壊して水を出し、自分の匂いを消すために床を汚している。
清掃員が、自分の職場を汚している。
ユウはその映像から目を離さなかった。
離したら、自分がただ見ているだけだと認めることになる。
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6
62階のラウンジに、水の音は届かない。
届くのはログだけだ。
星野が端末を見ている。
「防火系統が動いています。排煙と、局所スプリンクラーの作動ログ。系統圧が下がっている。ヘッド作動ではなく、配管損傷の可能性があります」
城戸が壁から背を離した。
「配管が壊れたのか? 魔族がやったのか」
星野は首を振った。
「作動ログの位置が、魔族の検知位置と一致しません。別の場所です」
沈黙。
御影が地図を見た。
地図の上に、星野がログの位置を指で示した。
御影の目が、一瞬だけ細くなった。
「……意図的か」
九条が咳払いをした。
「意図的であれ偶発的であれ、設備の損傷は記録されます。復旧時に報告が必要になる」
御影が九条を見た。
「報告の話をしているのか。今」
九条は微笑んだ。笑顔の温度が低い。
「報告は、事後の話です。今の話をしましょう。配信が外部に出ている可能性があるなら、ここでの判断も記録されている可能性がある。映像の管理について、考えておく必要があります」
柊つぐみが窓際の椅子から顔を上げた。
「……映像の管理?」
九条は柊を見なかった。
「我々がどう対応したか。何を判断したか。それが外部に出た場合、どう見えるか。それを整えておくことは、全員の利益になります」
城戸が鼻を鳴らした。
「整えるって何だよ。あいつが下で死にかけてんのに、見え方の話か」
九条は城戸を見た。目が合った。
「城戸くん。"死にかけている"という表現は、確認されていません。配信の内容も確認できていません。確認できていないことを前提にした判断は、混乱を招きます」
城戸は何も言わなかった。
言わないのは、納得したからではない。
言葉が見つからなかったからだ。
御影が地図から目を離した。
「九条さん。一つだけ聞く。あなたが気にしているのは、下にいる人間の安全か。それとも、映像に映る自分たちの見え方か」
九条は答えなかった。
答えない時間が、三秒あった。
「……両方です。両方を気にすることは、矛盾しません」
御影は何も言わなかった。
言わない代わりに、ワインボトルの首を握り直した。
柊が救急キットの蓋を開けた。
中身を確認している。包帯。消毒液。テープ。
使う相手はまだいない。
でも、閉じたまま持っているより、開けて確認した方が手が落ち着く。
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7
天井裏。
水の音は、まだ続いている。
だが少しずつ弱くなる。圧が落ちている。
永遠には鳴らない。
透真はその変化を、水の叩く音の間隔で分かった。
さっきは連続していた音が、今は途切れ始めている。
下で、爪が金属を叩いた。
カツン。
床ではない。天井を叩いている。
水の音に紛れて、位置を測っている。
透真は動かなかった。
動かないのに、喉が乾いた。
水に囲まれているのに、喉が乾いている。
乾きは音になりそうで怖い。
胸ポケットが震えた。
「水で沈黙を消した。次は"出口"を作れ」
養生シートの端を握った。
濡れて重い。
重いものは落とせる。落とせば音が出る。
音は返事になる。
返事になるなら、返事をこちらの都合で出す。
排煙ファンの振動が一番強い場所へ移動した。
声を混ぜるため。
「……解体」
天井裏の別の点検口のネジがほどける。
掌に収まる。鳴らない。
点検口が外れる。
下から、赤い光と水の匂い。
重い呼吸が近い。
透真は点検口を戻さなかった。
閉じる音が返事になる。
代わりに、養生シートをその穴へ垂らした。
濡れて重いシートが、下へ落ちる。
バシャッ。
水音の中でも分かる、大きな音。
意図した返事。
下で、吸気が止まった。
カラ……
金属音。ボルトを転がす音。
返事が返ってきた。
透真は目を閉じなかった。
閉じると音が大きくなる。
開けたまま、濡れたシートの端を握り直した。
手袋の中で、指先が冷たい。
水の盾が弱くなる。
返事は返ってくる。
それでも、指は動く。
汚した床を、いつか拭く。
その手順を知っている指が、今は別のことに使われている。
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下の吸気が止まり、代わりに"水の落ちる場所"へ、ゆっくり爪が近づいた。




