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11/14

雨で塗りつぶす

1


天井裏の金属板が、微かに震えていた。


排煙ファンの振動。

透真はその上に膝を置いたまま、動かなかった。


下で吸気が鳴る。


……すう。


短い吸気が続く。

嗅いでいる。測っている。

匂いだけじゃない。上に何かがいることを、空気の動きで確かめている。


透真は指先で紙片をちぎり、金属板の継ぎ目に落とした。

湿った雑巾の上へ。意味のないノイズ。返事にならない音。


吸気は止まらない。


下で、削る音がした。


ゴリ……


天井の下地を狙っている。

壁ではない。上へ来るための音だ。


透真は動くと決めた。

動くと音が出る。動かないと匂いが溜まる。

どちらも返事になる。


返事にならない音で、返事を埋めるしかない。


---


2


胸ポケットが一度だけ震えた。


画面は見ない。白い文字だけが薄く重なる。


「沈黙が読まれてる」

「音で隠せないなら"環境音"を作れ」


透真は視線を上げた。

天井裏の配管。その中に、細い枝管がある。天井へ降りる短い管。


スプリンクラーの枝管。

下の部屋の天井に繋がっている。


配電室で見たラベルを思い出す。SPRは生きていた。

系統が生きているなら、管の中に水が来ている。


枝管の継ぎ目に手を伸ばした。

ヘッドを割るのではない。継ぎ目を外す。

ヘッドを割れば感熱素子が飛ぶ。継ぎ目を外せば、管の破損で水が出る。


どちらでも水は出る。

でも、継ぎ目の方が音が小さい。


透真は刻印板を握り直した。


声は要る。声は返事になる。

でも、返事より大きい音を先に出せば、声は埋もれる。


排煙ファンの振動が強い。今なら声が混ざる。


---


3


透真は配管の継ぎ目に指を当てた。

金属の冷たさが、手袋越しに残る。


息の形。


「……解体」


継ぎ目がほどけた。


次の瞬間、圧が来た。


水が噴き出す。天井裏で、白い霧みたいに散る。

金属に水が叩きつけられる音が、振動の上に重なった。


バシャッ。


音が、空間の輪郭を変えた。

静けさが消える。沈黙が消える。


水は配管の穴から下へ落ち始めた。

天井板の隙間から、部屋の中へ。


カートの下段に畳んであった養生シートを引き出した。

丸めたまま。広げない。広げるとバタつく。


シートの端を配管のそばの金属に押し当てる。

振動の中で、息の形。


「……接着」


シートが貼りつく。

水の流れが変わる。天井裏に溜まらず、狙った方向へ落ちる。


身体を低くして、シートの陰に潜り、次の板へ移動した。

水の音が全部を覆っている。今は音が出ても埋もれる。


下で、吸気が止まった。


止まったのは、迷ったからじゃない。

水の音が大きすぎて、嗅ぐ意味が薄れたからだ。


その直後、重い衝撃。


ドン。


下で何かが跳ねた。

床を蹴った重さ。水に反応した重さ。


透真はその衝撃を背中で受けながら、金属板を滑るように移動した。

膝と肘。雑巾の上。振動の中。


手が濡れていた。

手袋の中まで水が入っている。

冷たい。


この手は、さっきまで床を磨いていた手だ。

今は配管を壊して水を撒いている。


清掃員が水を撒く。

きれいにする手順を知っている手が、汚す手順に使われている。


その違和感を振り払わなかった。

振り払うと、手が止まる。

止まると、返事になる。


---


4


水の音が続く。


天井裏の空気が湿る。

汗の匂いが薄くなる。鉄と水の匂いが勝つ。


透真は点検口の位置を探した。

用具室の真上ではない。隣の備品棚の上。

小さな隙間から、下の赤い光が漏れている。


点検口を押した。すぐには開けない。


下で、衝撃。


ドン。


今度は近い。

水の落ちる場所を避けて、位置を変えている。


重い個体が動いている。

慎重に。

床の水を見ている。天井の水音を聞いている。


点検口の縁を指で押さえ、ゆっくりずらした。

板が外れた。下へ赤い光。


そこから降りない。降りたら足音が返事になる。


代わりに、点検口の隙間から匂いだけを落とす。


天井裏の水がここにも届いている。

点検口の縁から、滴が垂れている。


その滴に、洗剤をほんの一滴だけ混ぜた。


匂いを強くするためじゃない。

自分の匂いより、水と洗剤の匂いを濃くするため。

濃い匂いが薄い匂いを覆えば、追跡の精度が落ちる。


滴が落ちる。


水は匂いを運ぶ。運んで、広げる。

広げて、自分の輪郭を消す。


透真は点検口を戻した。

接着は使わない。声は返事になる。

置くだけ。


下で、吸気が鳴った。


……すう。


短い。すぐ止まる。

嗅いで、すぐ捨てた。

水と洗剤の匂いが強すぎる。


透真はその捨て方で分かった。


諦めていない。

方法を切り替えるだけだ。


---


5


白波ユウの画面が、三つとも揺れていた。


ドローンの映像にノイズが走る。

水。天井裏で水が出ている。

映像が白く霞む瞬間がある。


ユウはコメント欄を見た。


> 防災屋:ヘッド作動じゃない。配管の継ぎ目を外した。漏水だ

> 空調屋:漏水だと系統の水圧が下がる。長くは持たない

> 設備:加圧ポンプが動いてれば追加加圧が来る。動いてなければ水圧低下で止まる

> 建築:位相封鎖下で電力供給が不安定なら、ポンプ停止の可能性あり

> @ミラー職人:保存、完了。ミラー、完了


ユウはオーバーレイを出した。


「水は長くない。ポンプ不明。時間稼ぎと割り切れ」

「水と洗剤で匂いを覆ってる。水が止まったら匂いが戻る」


打ち込んだ後、ユウは自分の部屋を見た。


六畳。三画面。エアコンの音。

乾いた空気。安全な椅子。


画面の中では、濡れた天井裏を這っている人間がいる。

配管を壊して水を出し、自分の匂いを消すために床を汚している。


清掃員が、自分の職場を汚している。


ユウはその映像から目を離さなかった。

離したら、自分がただ見ているだけだと認めることになる。


---


6


62階のラウンジに、水の音は届かない。


届くのはログだけだ。


星野が端末を見ている。


「防火系統が動いています。排煙と、局所スプリンクラーの作動ログ。系統圧が下がっている。ヘッド作動ではなく、配管損傷の可能性があります」


城戸が壁から背を離した。


「配管が壊れたのか? 魔族がやったのか」


星野は首を振った。


「作動ログの位置が、魔族の検知位置と一致しません。別の場所です」


沈黙。


御影が地図を見た。

地図の上に、星野がログの位置を指で示した。


御影の目が、一瞬だけ細くなった。


「……意図的か」


九条が咳払いをした。


「意図的であれ偶発的であれ、設備の損傷は記録されます。復旧時に報告が必要になる」


御影が九条を見た。


「報告の話をしているのか。今」


九条は微笑んだ。笑顔の温度が低い。


「報告は、事後の話です。今の話をしましょう。配信が外部に出ている可能性があるなら、ここでの判断も記録されている可能性がある。映像の管理について、考えておく必要があります」


柊つぐみが窓際の椅子から顔を上げた。


「……映像の管理?」


九条は柊を見なかった。


「我々がどう対応したか。何を判断したか。それが外部に出た場合、どう見えるか。それを整えておくことは、全員の利益になります」


城戸が鼻を鳴らした。


「整えるって何だよ。あいつが下で死にかけてんのに、見え方の話か」


九条は城戸を見た。目が合った。


「城戸くん。"死にかけている"という表現は、確認されていません。配信の内容も確認できていません。確認できていないことを前提にした判断は、混乱を招きます」


城戸は何も言わなかった。

言わないのは、納得したからではない。

言葉が見つからなかったからだ。


御影が地図から目を離した。


「九条さん。一つだけ聞く。あなたが気にしているのは、下にいる人間の安全か。それとも、映像に映る自分たちの見え方か」


九条は答えなかった。


答えない時間が、三秒あった。


「……両方です。両方を気にすることは、矛盾しません」


御影は何も言わなかった。

言わない代わりに、ワインボトルの首を握り直した。


柊が救急キットの蓋を開けた。

中身を確認している。包帯。消毒液。テープ。

使う相手はまだいない。

でも、閉じたまま持っているより、開けて確認した方が手が落ち着く。


---


7


天井裏。


水の音は、まだ続いている。

だが少しずつ弱くなる。圧が落ちている。

永遠には鳴らない。


透真はその変化を、水の叩く音の間隔で分かった。

さっきは連続していた音が、今は途切れ始めている。


下で、爪が金属を叩いた。


カツン。


床ではない。天井を叩いている。

水の音に紛れて、位置を測っている。


透真は動かなかった。

動かないのに、喉が乾いた。

水に囲まれているのに、喉が乾いている。

乾きは音になりそうで怖い。


胸ポケットが震えた。


「水で沈黙を消した。次は"出口"を作れ」


養生シートの端を握った。

濡れて重い。

重いものは落とせる。落とせば音が出る。

音は返事になる。


返事になるなら、返事をこちらの都合で出す。


排煙ファンの振動が一番強い場所へ移動した。

声を混ぜるため。


「……解体」


天井裏の別の点検口のネジがほどける。

掌に収まる。鳴らない。


点検口が外れる。

下から、赤い光と水の匂い。

重い呼吸が近い。


透真は点検口を戻さなかった。

閉じる音が返事になる。


代わりに、養生シートをその穴へ垂らした。

濡れて重いシートが、下へ落ちる。


バシャッ。


水音の中でも分かる、大きな音。

意図した返事。


下で、吸気が止まった。


カラ……


金属音。ボルトを転がす音。


返事が返ってきた。


透真は目を閉じなかった。

閉じると音が大きくなる。


開けたまま、濡れたシートの端を握り直した。

手袋の中で、指先が冷たい。


水の盾が弱くなる。

返事は返ってくる。


それでも、指は動く。

汚した床を、いつか拭く。

その手順を知っている指が、今は別のことに使われている。


---


下の吸気が止まり、代わりに"水の落ちる場所"へ、ゆっくり爪が近づいた。


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