上書きの音
1
壁の向こうで、鼻を鳴らす音が三度。
間隔が揃っていた。
揃いすぎて、自分の心拍が遅れて聞こえる。
透真は用具室の扉に背をつけたまま、洗剤のボトルを握っていた。
握っているだけで、キャップは開けない。
開ければ匂いが出る。匂いは道になる。
扉の外。
……すう。
吸う音。長い。
次に来るのは爪だと思った。
でも来たのは――
カラ……
小さな金属音。
透真の指が、ボトルの上で止まった。
同じ音だった。
さっき自分が用具室で鳴らした、あの音。
ボルトがビニールの中で触れ合う、湿った金属の音。
拾う時間がなくて、床に残した。
残したものは、残るだけじゃない。拾われる。
扉の外で、もう一度。
カラン。
同じ高さ。同じ距離。
前脚で転がしている。転がすたびに鳴る。鳴るたびに、こちらの動きを待っている。
透真は扉の隙間の赤い線を見た。
赤い線が揺れた。外側で、身体が少しずれた。
胸ポケットが微かに震えた。
ドローンが生きている。
画面は見ない。
見たら人数が入ってくる。人数が入ると、呼吸が乱れる。
でも白い文字だけが視界の端で光った。
「音、信用するな。上書きされてる」
透真は返事をしなかった。
返事の代わりに、ボトルをカートに戻し、紙束を一つ掴んだ。
ペーパータオル。
柔らかい。潰れる。音を吸う。
透真は扉の取っ手の内側に紙を巻きつけた。
金属と金属が触れる場所を、紙で隔てる。
扉の外で、また金属音。
カラ……カラ……
少し速い。
こちらが動くのを待っている音だった。
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2
透真は用具室の中を、音の出ない順に確認した。
床。何も落ちていないか。
落ちていると踏む。踏むと鳴る。
壁際のカート。金具に紙束をもう一つ挟む。
紙は潰れてもいい。潰れた分だけ、音が消える。
扉。蝶番は六割五分で鳴る。開けない。
代わりに天井。
点検口。樹脂パネル。ネジ四本。
刻印板に親指を当てる。
声は息の形で、最小。
「……解体」
ネジが分解され、掌に収まる。落ちない。鳴らない。
点検口を押し上げる。
冷たい空気が頬を撫でた。天井裏の匂い。埃と金属。
透真は肩から天井裏に滑り込んだ。
腹這い。体重を分散させる。
肘と膝で進む。板が撓む音を出さない。
下で、扉が外から押された。
ドン。
天井材が微かに震えた。
扉は閉まっている。だが押されるたびに音が出る。
透真は点検口を戻し、手のひらで押さえた。
接着は使わない。声が要る。
今は“置いた”だけでいい。
天井裏の先に配管が走っている。
ダクトの腹。金属の板。
触ると、ひんやりしている。
そして、わずかに振動している。
排煙ファンの振動。
この振動の中なら、声が混ざる。
透真は振動が強い方へ進み、雑巾を取り出した。
少し湿っている。湿った布は金属に貼りつく。
声を出すなら、ここだ。
出しても“返事”になりにくい場所。
「……接着」
雑巾が金属板にぴたりと張りついた。
強度じゃない。滑り止め。
足裏の雑巾と同じだ。
透真はその雑巾の上に膝を置いた。
音が出ない。出ても振動に混ざる。
下で、金属を削る音がした。
ゴリ……
真下じゃない。少しずれた位置。
用具室の壁を削っている。
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3
胸ポケットが震えた。
ユウの文字が、短く重なる。
「見えた。そいつ、床を見てる」
「ボルト、転がしてる。音を餌にしてる」
透真は画面を見なかった。
見なくても分かる。
扉の外の金属音が、それを教えている。
天井材が微かに震えた。
下地に爪が触れた振動。
位置が変わった。こちらへ寄ってきている。
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4
天井裏。
透真は紙束を一枚ちぎり、板と板の継ぎ目に押し込んだ。
隙間を埋める。潰れてもいい。潰れた分だけ音を吸う。
胸ポケットが、また震えた。
「そいつ、音を真似る」
「次は、音を置くな。音を消せ」
透真は頷かなかった。
頷く代わりに、息を吐いて、吐いた息の音を振動に混ぜた。
下で、削る音。
ゴリ……
用具室の壁ではない。もっと手前。
天井の下地に向かって、下から削っている。
透真は動いた。
振動のある方へ。排煙ファンのハウジング上。
移動しながら、配線束の結束バンドに触れた。
硬いプラスチック。
声を出せる距離。
でも、今は出さない。
声は“返事”になる。相手が待っているのは、その返事だ。
透真は指先で結束バンドを捻り、折った。
音が出そうになる瞬間、紙束を押し込んだ。
鳴る前に、鳴らさない。
下で、削る音が止まった。
止まった瞬間、胃が縮む。
止まったのは、聞いているからだ。
五秒。
七秒。
沈黙が続く。
こちらが音を出すのを待つ沈黙ではない。
こちらが音を出さないことを確認している沈黙だった。
次の音。
カラ……
金属音。
真下ではない。少し離れた場所。
誘い。
動けば音が出る。動かなければ沈黙が返事になる。
透真は動かなかった。
動かないという選択が、床の上では通じた。
天井裏では違う。
動かないと、位置が固定される。
下で、吸気が鳴った。
……すう。
長い吸気。
匂いを嗅いでいるのではない。
“動かない空気”を測っている。
その直後、低い音が出た。
唸りでも笑いでもない。喉の奥で空気が擦れる短い音。
透真の指が止まった。
止まったのは恐怖じゃない。
指が止まると、相手に“届いた”のが分かる。
透真はすぐ動いた。
止まった一拍を、長くしない。
排煙ファンの振動の上を、静かに移動する。
胸ポケットが一度だけ震えた。
「沈黙も返事になる。読まれてる」
透真は画面を見なかった。
見ないまま、喉の奥で息を潰した。
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5
最上階ラウンジ。
テーブルの上の皿は乾いている。
酒は残っている。誰も飲まない。
代わりに地図が広がっている。粗い印刷の平面図。
御影はワインボトルを握ったまま、地図を見ていた。
重さを確かめるように、指を滑らせている。
城戸は落ち着きなく歩いていた。
止まったら怖さが追いつくからだ。
柊つぐみは救急キットを膝に乗せている。
開けない。開ける相手がいない。
九条が言った。
「状況を整理しましょう」
星野は端末を握り、ログを見ている。
外部接続は死んでいる。だが制御ログだけは残る。
「停止指示後も、一機だけ応答がありません。ローカルブロードキャストで動いています」
御影が口を開いた。
「外に見えてるのか」
九条は頷かない。
頷かない代わりに、淡々と言う。
「見えている可能性があります。つまり――この状況が外に出ている可能性がある」
城戸が舌打ちした。
「だったら助け呼べよ。外に出てんならよ」
星野が首を振った。
「外に出ているのが映像だけなら、場所は割れません。割れたとしても、外部の救援がすぐ来るとは限らない」
九条が言った。
「だから、我々の判断が外部から評価される可能性があります」
その言葉の後、ラウンジが静かになった。
“評価”。
それが優先される音だった。
柊が小さく言った。
「……下の人、一人で……」
誰も返事をしなかった。
返事をしない沈黙が、ここでも返事になった。
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6
天井裏。
紙、布、テープ、洗剤。
消耗するものは減っていく。
減らないのはスキルだ。だがスキルには声が要る。声は返事になる。
透真は止まらずに進んだ。
振動の上。音の布団。
そこに自分の呼吸を混ぜる。
下で、吸気が鳴る。
……すう。
今度は、長くない。短い。
短い吸気が、何度も続く。
そして、次の瞬間。
吸気が“上”を向いた。
天井を嗅いでいる。
こちらを嗅いでいる。
透真は動かなかった。
動けば音が出る。
動かなければ匂いが溜まる。
どちらでも返事になる。
透真は、指先で紙を一枚ちぎった。
ちぎる音が出ないように、振動のタイミングに合わせて千切る。
紙片を板の隙間に落とす。
落ちる音が出ないように、布の上へ落とす。
意味のない小さな音。
ノイズ。
返事にならない音。
そのノイズの間に、透真は一歩だけ移動した。
雑巾の上。振動の上。音の中。
下で、吸気が止まった。
止まった瞬間、透真の背中が冷えた。
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壁の向こうの吸気が、今度は“上”を向いて鳴った。




