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10/14

上書きの音

1


壁の向こうで、鼻を鳴らす音が三度。


間隔が揃っていた。

揃いすぎて、自分の心拍が遅れて聞こえる。


透真は用具室の扉に背をつけたまま、洗剤のボトルを握っていた。

握っているだけで、キャップは開けない。

開ければ匂いが出る。匂いは道になる。


扉の外。


……すう。


吸う音。長い。

次に来るのは爪だと思った。


でも来たのは――


カラ……


小さな金属音。


透真の指が、ボトルの上で止まった。


同じ音だった。

さっき自分が用具室で鳴らした、あの音。

ボルトがビニールの中で触れ合う、湿った金属の音。


拾う時間がなくて、床に残した。

残したものは、残るだけじゃない。拾われる。


扉の外で、もう一度。


カラン。


同じ高さ。同じ距離。

前脚で転がしている。転がすたびに鳴る。鳴るたびに、こちらの動きを待っている。


透真は扉の隙間の赤い線を見た。

赤い線が揺れた。外側で、身体が少しずれた。


胸ポケットが微かに震えた。

ドローンが生きている。


画面は見ない。

見たら人数が入ってくる。人数が入ると、呼吸が乱れる。


でも白い文字だけが視界の端で光った。


「音、信用するな。上書きされてる」


透真は返事をしなかった。

返事の代わりに、ボトルをカートに戻し、紙束を一つ掴んだ。


ペーパータオル。

柔らかい。潰れる。音を吸う。


透真は扉の取っ手の内側に紙を巻きつけた。

金属と金属が触れる場所を、紙で隔てる。


扉の外で、また金属音。


カラ……カラ……


少し速い。

こちらが動くのを待っている音だった。


---


2


透真は用具室の中を、音の出ない順に確認した。


床。何も落ちていないか。

落ちていると踏む。踏むと鳴る。


壁際のカート。金具に紙束をもう一つ挟む。

紙は潰れてもいい。潰れた分だけ、音が消える。


扉。蝶番は六割五分で鳴る。開けない。


代わりに天井。


点検口。樹脂パネル。ネジ四本。


刻印板に親指を当てる。

声は息の形で、最小。


「……解体」


ネジが分解され、掌に収まる。落ちない。鳴らない。


点検口を押し上げる。

冷たい空気が頬を撫でた。天井裏の匂い。埃と金属。


透真は肩から天井裏に滑り込んだ。

腹這い。体重を分散させる。

肘と膝で進む。板が撓む音を出さない。


下で、扉が外から押された。


ドン。


天井材が微かに震えた。

扉は閉まっている。だが押されるたびに音が出る。


透真は点検口を戻し、手のひらで押さえた。

接着は使わない。声が要る。

今は“置いた”だけでいい。


天井裏の先に配管が走っている。

ダクトの腹。金属の板。


触ると、ひんやりしている。

そして、わずかに振動している。


排煙ファンの振動。

この振動の中なら、声が混ざる。


透真は振動が強い方へ進み、雑巾を取り出した。

少し湿っている。湿った布は金属に貼りつく。


声を出すなら、ここだ。

出しても“返事”になりにくい場所。


「……接着」


雑巾が金属板にぴたりと張りついた。

強度じゃない。滑り止め。

足裏の雑巾と同じだ。


透真はその雑巾の上に膝を置いた。

音が出ない。出ても振動に混ざる。


下で、金属を削る音がした。


ゴリ……


真下じゃない。少しずれた位置。

用具室の壁を削っている。


---


3


胸ポケットが震えた。


ユウの文字が、短く重なる。


「見えた。そいつ、床を見てる」

「ボルト、転がしてる。音を餌にしてる」


透真は画面を見なかった。

見なくても分かる。

扉の外の金属音が、それを教えている。


天井材が微かに震えた。

下地に爪が触れた振動。

位置が変わった。こちらへ寄ってきている。


---


4


天井裏。


透真は紙束を一枚ちぎり、板と板の継ぎ目に押し込んだ。

隙間を埋める。潰れてもいい。潰れた分だけ音を吸う。


胸ポケットが、また震えた。


「そいつ、音を真似る」

「次は、音を置くな。音を消せ」


透真は頷かなかった。

頷く代わりに、息を吐いて、吐いた息の音を振動に混ぜた。


下で、削る音。


ゴリ……


用具室の壁ではない。もっと手前。

天井の下地に向かって、下から削っている。


透真は動いた。

振動のある方へ。排煙ファンのハウジング上。


移動しながら、配線束の結束バンドに触れた。

硬いプラスチック。


声を出せる距離。

でも、今は出さない。

声は“返事”になる。相手が待っているのは、その返事だ。


透真は指先で結束バンドを捻り、折った。

音が出そうになる瞬間、紙束を押し込んだ。

鳴る前に、鳴らさない。


下で、削る音が止まった。


止まった瞬間、胃が縮む。

止まったのは、聞いているからだ。


五秒。


七秒。


沈黙が続く。

こちらが音を出すのを待つ沈黙ではない。

こちらが音を出さないことを確認している沈黙だった。


次の音。


カラ……


金属音。

真下ではない。少し離れた場所。


誘い。

動けば音が出る。動かなければ沈黙が返事になる。


透真は動かなかった。


動かないという選択が、床の上では通じた。

天井裏では違う。

動かないと、位置が固定される。


下で、吸気が鳴った。


……すう。


長い吸気。

匂いを嗅いでいるのではない。

“動かない空気”を測っている。


その直後、低い音が出た。

唸りでも笑いでもない。喉の奥で空気が擦れる短い音。


透真の指が止まった。

止まったのは恐怖じゃない。

指が止まると、相手に“届いた”のが分かる。


透真はすぐ動いた。

止まった一拍を、長くしない。

排煙ファンの振動の上を、静かに移動する。


胸ポケットが一度だけ震えた。


「沈黙も返事になる。読まれてる」


透真は画面を見なかった。

見ないまま、喉の奥で息を潰した。


---


5


最上階ラウンジ。


テーブルの上の皿は乾いている。

酒は残っている。誰も飲まない。

代わりに地図が広がっている。粗い印刷の平面図。


御影はワインボトルを握ったまま、地図を見ていた。

重さを確かめるように、指を滑らせている。


城戸は落ち着きなく歩いていた。

止まったら怖さが追いつくからだ。


柊つぐみは救急キットを膝に乗せている。

開けない。開ける相手がいない。


九条が言った。


「状況を整理しましょう」


星野は端末を握り、ログを見ている。

外部接続は死んでいる。だが制御ログだけは残る。


「停止指示後も、一機だけ応答がありません。ローカルブロードキャストで動いています」


御影が口を開いた。


「外に見えてるのか」


九条は頷かない。

頷かない代わりに、淡々と言う。


「見えている可能性があります。つまり――この状況が外に出ている可能性がある」


城戸が舌打ちした。


「だったら助け呼べよ。外に出てんならよ」


星野が首を振った。


「外に出ているのが映像だけなら、場所は割れません。割れたとしても、外部の救援がすぐ来るとは限らない」


九条が言った。


「だから、我々の判断が外部から評価される可能性があります」


その言葉の後、ラウンジが静かになった。

“評価”。

それが優先される音だった。


柊が小さく言った。


「……下の人、一人で……」


誰も返事をしなかった。

返事をしない沈黙が、ここでも返事になった。


---


6


天井裏。


紙、布、テープ、洗剤。

消耗するものは減っていく。

減らないのはスキルだ。だがスキルには声が要る。声は返事になる。


透真は止まらずに進んだ。

振動の上。音の布団。

そこに自分の呼吸を混ぜる。


下で、吸気が鳴る。


……すう。


今度は、長くない。短い。

短い吸気が、何度も続く。


そして、次の瞬間。


吸気が“上”を向いた。


天井を嗅いでいる。

こちらを嗅いでいる。


透真は動かなかった。

動けば音が出る。

動かなければ匂いが溜まる。


どちらでも返事になる。


透真は、指先で紙を一枚ちぎった。

ちぎる音が出ないように、振動のタイミングに合わせて千切る。

紙片を板の隙間に落とす。

落ちる音が出ないように、布の上へ落とす。


意味のない小さな音。

ノイズ。

返事にならない音。


そのノイズの間に、透真は一歩だけ移動した。

雑巾の上。振動の上。音の中。


下で、吸気が止まった。


止まった瞬間、透真の背中が冷えた。


---


壁の向こうの吸気が、今度は“上”を向いて鳴った。


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