深夜清掃、最上階の祝宴
1
地下二階、清掃員用の休憩室。
六畳もない。壁はコンクリート打ちっぱなし。
パイプ椅子が二脚、スチール棚が一つ。カレンダーは三ヶ月前のまま捲られていない。
誰かが剥がした安全標語のシールが、壁に白い跡だけ残している。
換気扇が回っている。
開けるべき窓がないから、ここでは換気扇だけが空気の番人だ。
低い振動が首の後ろに触れてくる。もう三年、同じ音を聴いている。
久住透真は、スチール棚の上のタイムカード端末を見た。
23:41。
あと十九分で深夜勤務の定時だった。
十九分。千百四十秒。最近、数字を数えるのがささやかな趣味になっていた。
——のに。
透真は安全靴の踵を床に、とんとんと打ちつけた。靴の中で足が泳ぐ。サイズが合っていない。支給品を選ぶ権利はなかった。
手袋をはめる。
薄いニトリル手袋。指先にゴムがぴたりと吸いつくと、自分の手じゃないみたいになる。
でもその“自分じゃない感じ”が、仕事のスイッチでもあった。
清掃カートを確認する。
中性洗剤——残り四分の一。モップ——柄にヒビ。養生テープ——あと三巻。
そして、生活魔法用の刻印板。ギルドの末端に支給される、安物の触媒。
透真のスキルは三つ。
洗浄。解体。接着。
生活魔法。
ランク査定では“戦闘適性なし”の烙印が押される分類。
上の階の連中が飲み会のネタにするやつ。
——「え、洗浄? それスキル? 食洗機じゃん」
いつかの忘年会で、誰かがそう言って笑った。
透真は覚えていない。言った人間の顔を。
でも、周りが笑った空気の温度だけは、指先に残っている。
透真は刻印板に親指を当てた。
「……洗浄」
掌から薄い光が広がる。
モップの布が、一瞬で真っ白に戻った。
汚れが消える。匂いが消える。繊維の奥まで、何もなかったことになる。
それだけ。
誰も見ていない地下二階で、今日もモップだけが新品に戻る。
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2
「おい、久住」
声は背中に落ちてきた。
振り向かなくても分かる。足音で分かる。
あの足音は、いつも少し速い。“用事がある”速さじゃなくて、“命令を届ける”のが気持ちいい速さだ。
鬼頭章介。清掃部門の課長。
痩せた顔、薄い唇、よく笑う目——ただし目尻だけ。瞳の奥は笑ったことがない。
「今日な。最上階で式典がある。宴会後の清掃、追加」
「……聞いてません」
「今聞いた」
鬼頭は手首を返して腕時計を見せた。安物だが文字盤が妙にピカピカしている。毎日磨いているのかもしれない。上に見せるための時計だ。
「深夜二時開始。上の連中が引けた後に入れ。髪の毛一本、グラスの指紋一つ残すな。お前のFランクの仕事で十分だろ」
Fランク。
鬼頭はこの言葉を、爪を切るくらいの気安さで使う。
透真は言い返す言葉を探した。喉の手前まで来た。
でも、それより先に“計算”が走る。
——言い返す。鬼頭が不機嫌になる。シフトが増える。来月の休みが消える。
疲労が言葉より先に口を塞いだ。
鬼頭はその沈黙を見て、少しだけ顎を上げた。満足の角度だった。
「それとな」
鬼頭は声を落とした。落としたのに、偉そうな響きはそのままだった。
「今夜の客はギルドの上層だ。研究区画の件もある。
余計なことは見るな。聞くな。お前は床だけ見てればいい」
「……了解です」
「元気がねえな。まあいい。お前は“現場”なんだから」
鬼頭は踵を返した。
革靴の音が遠ざかる。
地下二階で革靴を履いているのは、この人だけだ。
現場に来るのに革靴を選ぶ人間が、現場の何を知っているんだろう。
透真はカートの取っ手を握り直した。
手袋越しでも、金属の冷たさが伝わる。
伝わるけれど、もう慣れていた。
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3
最上階。六十二階。
地下から六十四階分、上。
エレベーターで三分。
同じビルの中に、まったく違う国がある。
ガラス張りのラウンジに、夜景が広がっていた。
東京の灯りが宝石みたいに散らばっている——と言えば綺麗だが、地下から見れば、あの光の一粒一粒が「お前には関係ない場所」だった。
シャンパンのコルクが抜ける音がした。小さな破裂。
笑い声がそれを追いかけて、ガラスの天井に散った。
「いやあ、今期の数字は美味い。本当に美味い」
九条玲司がグラスを掲げる。
執行役員。五十代。銀縁の眼鏡、仕立てのいいスーツ。
背筋はまっすぐ伸びていて、言葉は常に丁寧で、笑顔の裏に値札が貼ってある種類の人間だ。
「現場の安定は数字に直結しますから。引き続き締めていきましょう」
その「現場」という言葉に、地下二階の匂いはひとかけらも混じっていない。
九条はグラスを傾け、隣に視線を送った。
「星野さん。広報は?」
星野玲奈が一歩前に出た。
三十代前半。柔らかい声、穏やかな微笑み、完璧に制御されたショートヘア。
“炎上対策”と書かれた資料を、まるでデザートのメニューみたいにさりげなく持っている。
「万一の情報流出に備え、外部監視を強化しています。
あと、館内イベント用のドローンですが——停止指示は出しました。余計な映像が外に出ないように」
「結構」
九条は満足そうに頷いた。
この人の「結構」は、「お前は正しい」ではなく「予定どおりだ」という意味だ。
カウンターの端で、御影隼人が笑った。
エリート探索者チームの隊長。二十代後半。精悍な顔立ち、鍛えられた体。広告塔としてポスターにもなっている男。
ラウンジにいる誰よりも派手なオーラを纏っていて、本人もそれを知っている。
「にしても大袈裟だって。ドローン止めるとか、監視とか。
魔族が出たって、俺が片付ければ終わる話だろ?」
御影は氷の入ったグラスを揺らした。カラン、と鳴る。
「その“出たら”が問題なんだよ、御影くん」
九条は諭すように言った。教師が生徒に言い聞かせるトーンだった。
「完璧な夜に、“もしも”は要らない。
我々は管理する側だ。現場は——動かす側が決める」
御影は、その言葉を褒められたと思って頷いた。
「まあ、そうっすね」
隣で城戸マサキが笑い声を上げた。
火力担当の探索者。大柄で、声が大きい。グラスを置く音すら荒い。
「清掃員にでもやらせときゃいいんだよ、雑用なんて。あいつらの仕事は汚れ消すだけだろ?」
その一言に、誰かが軽く笑った。
この階の空気には、「下」の人間は存在しない。
名前もなく、顔もなく、ただ「処理」する者として想定されている。
——カウンターの隅で、柊つぐみはグラスの縁を指でなぞっていた。ヒーラー。御影チームの回復役。
何か言いたそうな顔をしていた。唇がわずかに動いて、でも声にはならなかった。
ここでは、正しいことを言う空気がない。
正しいことを言っても拾われない空気がある。
つぐみはグラスに目を落とした。
シャンパンの泡が、下から上へ昇っていく。
小さな泡は、上に届く前に消えた。
九条が夜景に視線をやる。
「……では、予定どおりに」
その声は穏やかで、完璧に管理されていた。
管理されすぎていて、人間の体温がなかった。
乾杯の音が、もう一度ガラスの天井に散る。
地下二階には届かない音だった。
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4
透真は、業務用エレベーターの前で足を止めた。
客用じゃない。裏側の、鉄の箱。
照明は蛍光灯一本で、壁には台車がぶつかった傷が何層にも重なっている。
このビルはいつも“上”が偉い。
偉い人間は上にいて、下の人間は上に行くほど息がしづらくなる。
それは気圧の話じゃなく、空気の話だ。
エレベーターの扉に、指紋がべったり残っていた。
清掃カートを出し入れする人間の、手袋なしの掌の跡。
たぶん、自分の。
透真は小さくため息を吐いた。
「……洗浄」
光が走って、指紋が消える。
自分の痕跡を、自分で消す。
誰にも見られないまま、誰の記憶にも残らないまま。
扉が開いた。
箱の中に入る。「62」を押す。
表示パネルが「B2」から動き始め、数字がゆっくり上がっていく。
——B1。1。2。3……。
上に行くたび、エレベーターの振動が微かに変わる。
ワイヤーの張り、モーターの回転数、箱が通過する階のドア枠との隙間。
三年毎日乗っていると、階ごとの“癖”が身体に入っている。
12階を通過したとき、透真の首筋が粟立った。
振動が変わった。
いつもの12階じゃない。
何かが——ほんの僅かに——“重い”。
(……気のせいか。)
エレベーターは止まらず上がっていく。
37階。このあたりで空調の音が変わるのも知っている。
今日は——変わらない。
(空調、止まってる……?)
気のせいだと思いたかった。
気のせいだと思うのが正解のはずだった。
報告しても「お前は床だけ見てろ」と言われるだけだ。
62階。到着。
扉が開いた瞬間、空気が変わった。
冷たい、というのとは違う。
“止まっている”。
循環していない空気の、薄い澱みが鼻の奥に触れた。
廊下の照明が、わずかに揺れた。
蛍光灯ではない。天井に埋め込まれた間接照明が、一瞬だけ明滅した。
(接触不良? いや……)
透真は一歩踏み出した。
床の感触を、安全靴の底が拾う。
硬い。冷たい。——普通の大理石タイル。
でも三歩目で、指先ほどの違和感があった。
靴底がほんの一瞬、吸いつくように沈む。
(この床、三年で初めてだ。)
清掃員は、床の異変に一番早く気づく。
毎日触っているから。毎日歩いているから。
透真はしゃがみかけた。床を手で確認しようとした。
その瞬間——
廊下の奥で、「カツン」 と音がした。
金属が落ちた音じゃない。石を叩いた音でもない。
爪だ。
硬い、太い爪が、大理石を叩いた音。
透真は動きを止めた。呼吸を止めた。
清掃カートの影に身体を寄せる。心臓が速い。理由が分かっていないのに、身体だけが「逃げろ」と言っている。
廊下の照明が、もう一度揺れた。
今度は揺れたんじゃない——消えた。
一秒。二秒。
点いた。
赤。
非常灯が、赤に変わっていた。
カチャン。
カチャン。
カチャン、カチャン、カチャン。
ビル中のドアロックが、上から下へ、連鎖するように落ちていく音。
電子錠が一斉に閉まっている。
エレベーターの表示パネルが一瞬だけ文字化けして——沈黙した。
透真はポケットからスマホを取り出した。
画面に表示された二文字。
圏外。
背中が冷たい。
エレベーターは動かない。
廊下の先は赤い。
後ろも赤い。
このビルの設備は、透真が一番よく知っている。
非常灯が赤になるのは、通常の停電じゃない。
全館封鎖プロトコル。
(出られない。)
廊下の奥で、影が動いた。
赤い光の中を、何かがゆっくりと横切った。
人間の形をしていなかった。
透真は唇を噛んだ。
カートの取っ手を握る手が震えている。
手袋越しに、金属の冷たさ。
今度は、慣れていなかった。




