想いを載せて、光速で。
ピピピ、ピピピ———
アラームが泣く。
「……あー、もう朝か」
一人で呟く。
一人で寝るには大きすぎるダブルベッド、余ったその場所に布団から逃げ出すように足が飛び出している。
「ちょっと早く起きるな。最近は」
老化だろうか。
でもまあもう今年で52。おっさんだ。
起きるのが段々早くなっている。
まあ今日は定刻通りに起きたが、それでもやはり目が覚めるのが早い。
それに、これでもタイマーを早めた方なのだ。
古い、中学の頃から使っているデジタル時計には、【5:21】と記されている。
緑色の文字を表すその光は、薄暗い部屋を小さく照らした。
ふと外を見た。道路には人が何人もいる。
地元じゃあこんなことはなかった。
そもそもこの時間に限らずこの季節は絶えず虫が鳴いてたし、四階以上の建物は隣町ですらなかったのだ。
いつ見てもその当時の記憶によって驚かされる。
あの時は、今みたいになるだなんて思わなかったな。昔はよう生きたもんだ。あんな場所で貧乏な暮らしを……
十七階建てのマンションの窓から、朝日が割り込んでいる。
シャワーを浴びて、娘と連絡を取り、スーツへ着替える。歯を磨き朝食を摂り、コーヒーを飲む。
ベランダへ出た。少し登った朝日を眺め、室外機の上にコーヒーと本とラジオも置いた。
椅子に座り、優雅に朝を過ごす。
7:00まで暇なのだ。特に趣味もないためか、そこらの人より暇なのだ。
というか、趣味がないというより、金が足りないからできない。というのが正しいのかもしれない。実際にはキャンプとか、バイクに乗って行ったりしたいが、財布と時間がそれを許さない。
———カチッ。
タバコに火をつける。
最近は電気で吸えるようなものが普及してきているが、私には合わない。
一日一箱を吸ってしまうほど中毒であるが、生まれてこの方風邪を引いてはいない。
しかし腰と肩は痛めている。
仕事はただの会社員。ではなくて、少し離れたところの芸能事務所のスタッフ的な存在だ。
マネージャーも経験しているが、今年は取らなかった。
以前担当した人が、事務所を辞めて独立したのだ。20代後半の高身長なイケメン。羨ましい限りだよ。本当に。
『———昨夜東京都足立区で起きた火災ですが、火災発生後七時間四十分で消し止められました』
『———速報です。昨日午前10時ごろ、静岡県浜松市にある保育園に、乗用車が衝突する事故がありました。職員児童合わせ十四名が負傷し、うち二名が頭の骨を折るなどの重傷、三名の死亡が確認されました』
「事故か、火災も多いなぁ……気をつけよう」
タバコを吸いながら呟いた。
その独り言は、哀しそうに消えて行った。
もう、この言葉を拾う人はいないのだ。と、そう感じさせるように、ただただ消えていく。
妻は六年前に事故で死を迎えた。
美しい人だった。
彼女が生前私に与えたものは、今もなお、この胸の中に響き続ける。お陰で事務所に入ってきた新人アイドルにも目が眩まず済んでいる。妻は、大人しくて可愛いものが大好きで、でも怒ると超怖い人だった。
娘を産んでから、体が弱くなり、外へあまり出なくなった彼女は、いつも家で、私の買ってきた野菜や肉などを料理し、温かい味噌汁を出してくれた。お腹が空いたと言えばお菓子を作り、洗濯をしようとすればもうすでに終わらせている。そんな人だった。
私と妻は中学からの付き合いで、互いに初恋でもあった。妻は昔、『警察官になる!』と嘆いていたが、結局は大手の出版社へ就職、その後二年で合わないと言ってアニメ会社に転職した。自由な人で、それがあったからこそ幸せそうに生きていた。アニメ会社に転職後、彼女はグングンと成長しながらも出産を迎え、育休を取った。大手だったから取りやすかった。
そのお陰か、娘と沢山遊んでたし、仲も良かった。
時に、彼女の姉が家に来た。
義姉は独身で、フリー声優とか言っていた。妻ととても仲が良く、仕事終わりに帰りが遅くなる時は大抵二人でカラオケに行っている程だ。うちの兄貴と姉貴とは大違い。喧嘩なんてしたことのない、理想的な姉妹だった。
今思えば、妻も中学、高校と声劇部へ所属していたのも姉の影響かもしれない。俗にいう「シスコン」というものなのかもしれない。
それ程に姉を愛し、愛される。そんな存在だった。
彼女が生前好きだったものを、今でも良く覚えている。
彼女は自分が遅く帰っても飯を食らわなかったとき、いつも私に任せていた。
そして、毎回のように作る俺の「肉じゃが」を、笑顔で頬張り、毎回のように言った。
『口がとろけそう〜』
そして毎回のように、私は答える。
『それ、スイーツとかに使う言葉だろ』
と。
私と妻も仲が良すぎた。
寝る時はいつも抱いて寝て、映画を観るとなると、二人がいいからと地上波放送を待ち、家で二人、くっつきながらぼーっと眺めた。疲れて寝落ちし、遅刻する日もあった。今となってはいい思い出だ。
そういえば思い出した。昔誓った、あの時の言葉。渋谷のビルの屋上で、夕陽を眺めた後ディナーを食べ。そしてプロポーズしたあの日。
彼女に向けた小さな指輪と、大きな言葉。
『———必ず貴女を。お守りします』
泣きながら「はい」と答えた彼女の指にはめたあと、その場は拍手で包まれた。新手の結婚式のようだった。
夜景に溶け込む春の陽気に揺らされながら、私と彼女は正式に「夫婦」という称号を得た。
美しく、可愛いかった、かっこよかった。何もかもが完璧で、私を魅せる人だった。料理も勉強も仕事も、全てを手際良く正確にこなす彼女が、私の最愛の妻であり、憧れの人であった。
しかし、そんな彼女を、神は奪い去った。
神が何を怒ったのか、何を思ったのか。さっぱり分からず、地震で緩んだ地盤の道路が崩壊し、その土砂に呑み込まれるという残酷な死を迎えた。そのことを知った時は、心の底から、やるせない気持ちが溢れた。
それから、世界はつまらなくなった。世界が、人生が面白いなどという言葉たちが、ふざけたように思えた。
愛して、ねえ愛して。
そんな彼女の鳴き声も。もう聞こえない。聞こえることはない。
もう一度逢えるならば、私は、彼女に……
———なんと言えばいいのだろうか。
愛があるのか、もうないのか分からない。
ただ私に在るもの、それは娘と、彼女との記憶だけだ。たったそれだけが、体の中を渦巻いて、輝いている。
命よりも輝いて、その灯火は周りを染める。その感情はなんと言い表せばいいのか分からない。というか、「混沌」としか言いようがないだろう。
【6:38】
気がつけばもうこんな時間だ。
ただひたすらに妻との思い出を振り返っていたら、自然と涙が溢れた。
『お父さん!次の役決まったよ!』
一件の通知は、娘のものだった。
今彼女は、俳優を中心に活動している。7歳の時、舞台劇から始めた彼女は11歳で芸能オーディションへ合格。晴れて子役となった。その後も活動を続けて17歳にもなると、大きな映画の大きな役も勤めるようになった。それほど人気だった。
26になった娘は今も元気に活動している。
こんなおっさんの子とは思えない程に。
『そうかおめでとう! どんな役だ?』
『ありがとう。ヒロインだよ。『君の花に声が咲く』っていうアニメの。ライトノベルが原作でさ。私も好きなんだけど、まさか自分がなるとは思わなかったよ!』
『まあ、そうだろうな。時間がある時に見ておくよ。放送時間とかを教えてくれないか?』
少し時間が経った。
四分ほどして、URL付きで送られた。
『関東第一放送局の、深夜23:00から! 私が演じるのはヒロインの「夏瀬 星華」って子だよ!』
『分かった。でもどうして今? 放送時間が決まってるなら、もっと早くから知ってるはずだろ?』
娘は答えた。とっても明るく。
『いや〜、もっと早く言いたかったんだけどね、マネージャーさんに確認したらもうちょっと待っててって言われて〜。んで、その後収録とかなんやらして忙しくてできなかったの。今日から比較的楽になるんだけどね』
『なるほど。お疲れ様。体には気をつけて。って、おっさんが言う台詞じゃないか(笑)』
『そうだよ!お父さんが気をつけるべき! この前だって倒れたんでしょ!』
『そうだな。ありがとう。気をつけるよ』
『うん! あ、もう仕事! バイバイ!』
と、他愛ない会話を終えて、私も支度をした。
娘とは、頻繁にLINEをする。
これが親バカというものだろうか。娘が心配だからだ。
バッグにペンケースやメモ帳、家の鍵、財布などがあることを確認し、最後にスマホをなおして家を出た。
まだ少し早いから。少しあのスターバックスというところでも寄ってみようか。いや、近くのカフェでいいか。
駅まで2分。電車で13分。駅から1分。
事務所ももうすぐそこだ。
今日の業務は特に大変というわけでもなく、少し後輩の分のものと、次のコラボやオーディションなどについての会議だけで、意外と楽だ。
そんな夏。
静かな世界に、温かい日が差して、優しく世界を彩った。
そんな夏。
だと信じていた。
一件の電話があった。
「———はい。杉谷です」
『埼玉県草加市立第一病院です。杉谷 愛様のお父さんですか?』
「……そうですが。娘に何か?」
『緊急です。娘さんが、事故に遭いました。バス、トラック、乗用車の計12台が絡む大規模な玉突き事故———』
その言葉によって、私の中の時間が止まり、何も聴こえなくなった。
私の耳が拒絶した。
———現実を聴きたくない。と。
私は後輩に事情を伝え、慌てて向かった。
二時間半もかかる。無事でいてくれと願いながら電車に揺られる。埼玉など、母の実家のイメージ以外に何にもない。
その後警察からも連絡が入った。
この玉突き事故は高速道路でスリップしたバイクが転倒し、それを避けようとしバランスを崩したトラックが、偶然にも、娘の乗ったバスに突撃。
それも、娘の席を目掛けて。
怒りが止まらなかった。
でも。この思いは誰にもぶつけられない。
誰も悪くないのだから。仕方がないだろう。
二時間後、予定より早く着いた。
緊急病棟708号室。
部屋のドアを、息切れしながら開けた。
ガラガラガラ、という音が、あたりに響いた。
心電図の音が。一定のリズムもままならないまま、ただ時間だけを浪費した。
その音は、何回目だろうか。
右目から斜め上に包帯を巻き、手は切断され、右胸から腰の左あたりまで血の滲んだ包帯だった。妻よりかはマシだが、それでも悲惨だ。
「ああ、お父様で間違いないですか?」
「……はい」
この際、間違いであって欲しかった。
いつか消えてしまう記憶も、私より速いとは。
「……娘さんは。頑張りました。精一杯頑張りました。しかし、この出血や傷の具合を見る限り、生き延びたとしても、重い後遺症が残るでしょう」
「……そうですか。分かりました」
ピッ……ピッピッ……———
心電図は不安定だ。
息が詰まった。また彼女と同じだ。
でもどうせ死ぬのなら、早く殺して、この苦しみから……そんな綺麗事はいらない。
ただ今は、もう……貰ったところで……
涙は流れなかった。妻の時も、そうであった。
辛くないんじゃない。辛すぎるあまり、涙が出ないのだ。たったそれだけなのだ。本当は涙を流したい。この全てを、水に流したい。
———死にたい
そんな気持ちが。大きく開いた心の穴を埋めた。
繋いだ嘘。紡ぐ糸。曖昧に、抽象化する期待。
淡く輝く、力のない命。
ただ。夜を埋めた。
気がつけば日は帰り、月が臨んだ。
そして。
———ピッ……ピッ……ピーーー
「21:27。ご臨終です」
ただ。
ただ。
ただ冷たい体が。
ポケットからスマホが落ちた。
少し固まって、看護師さんが拾ってくれた。
震えた手で受け取ったスマホには、一つの文章が在った。
〈SUGIYAI から一通のメッセージがあります〉
SUGIYAIというのは娘のアカウント名だ。
恐る恐る。私はメッセージを開いた。
美しく並べられた文字が、一斉に表示される。
———お父さんへ。
———ごめんね。私。死んじゃうかも。
連なった文字は、ただの入力された数値に過ぎないのに、どこか悲しそうだ。
———愛してくれてありがと。お父さん。
……一足先に、お母さんに会いに行ってるね。待ってる。お母さんが亡くなって六年経つから、お母さん驚くかな? ……ごめんね。これが最期で。多分、もうすぐ意識も失う。というか今すぐにでも倒れそうだけど。でも大好きなお父さんのために、言葉を残さなくっちゃ。
最近会えないままでごめんね。
でも元気そうでよかった。よかったよ。
それと、昔嘘をついてごめんなさい。私立高校と専門学校で借金背負わせてごめんなさい。
私も頑張った。頑張ったよ。
働く辛さが、生きる辛さが。分かったよ。
ありがと。お父さん。そして、お母さん。
私を産んでくれて、育ててくれて、ありがと
バイバイ。次会う時はきっと、笑えるといいね。
———大好きだよ。
涙が溢れた。
この無力さが、どうしようもなく迷っている。
光速で伝わるこの言葉も、本当なのだ。




