皇女の誘惑と、地獄の茶会
「タナカ・ヒロシ。貴様を『銀河皇国・第1級重要参考人』として連行する」
翌朝、地下オフィスに出勤した田中を待っていたのは、デスクの上の書類の山ではなく、金色の鎧に身を包んだ近衛兵団だった。
「……あの、私、まだタイムカード押してないんですが」
「問答無用」
田中は両脇を抱えられ、連れ去られた。
残されたエコーは、呆然と田中の飲みかけの缶コーヒーを見つめ、そして静かに、しかし怒りに満ちた声で呟いた。
「……またあのワガママ皇女ね。……人の『飼い主』に何手を出してるのよ」
彼女はポケットから工具セットを取り出し、ダクトの入り口を睨みつけた。
場所は変わり、コロニー船の最上階「ペントハウス・エリア」。
そこは、下層の居住区とは空気が違った。
重力が完璧に制御され、床は雲のように柔らかく、壁は純白のシルクで覆われている。
音がない。匂いがない。
「完全なる快適」という名の、窒息しそうな空間。
「面を上げよ」
田中が顔を上げると、そこには天蓋付きの玉座に座るルミナ皇女がいた。
彼女は扇子で口元を隠し、上機嫌に目を細めている。
「ようこそ、わらわの『離宮』へ。……どうじゃ? 地下の掃き溜めとは比べ物にならぬであろう?」
「ええ、素晴らしいですね」
田中は正直な感想を述べた。
「静かすぎて、耳鳴りがします。それに、この椅子が柔らかすぎて腰が爆発しそうです」
「ふふ、強がりを。……単刀直入に言おう。タナカ、そなたを『買い取る』ことにした」
ルミナが指を鳴らすと、空中にホログラムの契約書が浮かび上がった。
そこには、天文学的な数字の給与額が記されている。
「条件は簡単じゃ。わらわの宮殿に来て、毎日あの『刺激的なスープ(味噌汁)』を作ること。それ以外は何もせんでよい。労働は全てロボットがやる。そなたは、ただ『そこにいて、わらわを楽しませる』だけでよい」
それは、全宇宙のサラリーマンが夢見る「不労所得生活」の提案だった。
だが、田中は眉をひそめ、契約書をじっと見つめた。そして……静かに手で払いのけた。
「お断りします」
「……は?」
ルミナが扇子を取り落とした。
「な、なぜじゃ!? 金か? 地位か? それとも、まだあの清掃員に未練があるのか!?」
「それもありますが」
田中は背筋を伸ばし、淡々と答えた。
「皇女様。私は別に、好き好んで働いているわけじゃありません。できることなら楽はしたいし、宝くじが当たれば南の島に行きたいですよ」
「ならば……!」
「でもね、『何もせずにただ飼われる』っていうのは、私の性分じゃないんですよ」
田中はため息交じりに頭をかいた。
「朝起きて、満員電車に揺られて、文句言いながら仕事して、終わったら安い酒を飲む。……私みたいな凡人には、そういう『普通の生活』がないと、自分が生きているのか死んでいるのか、分からなくなるんです」
そう。田中にとって労働とは、崇高な使命でもなければ、強制された苦役だけでもない。
それは「呼吸」と同じ、ただの日常(デフォルト設定)なのだ。
何もしない贅沢よりも、何かをして文句を言う日常の方が、彼にとっては遥かに精神衛生上「健全」だった。
「だ、だから……苦労をしたいと言うのか? 理解できぬ……」
ルミナは絶句した。
「苦痛がないことが幸福ではないのか? そなたは、自らストレスを求めるマゾヒストなのか?」
「マゾじゃありません。ただの『社会人』です」
「シャカイジン……。なんという不可解な生き物じゃ……」
ルミナの瞳の中で、困惑が興味へと変わっていく。
彼女は、すべてを与えられ、何もする必要がない世界で生きてきた。だからこそ、田中の語る「当たり前のように苦労を受け入れる姿勢」が、未知の輝きを放って見えたのだ。
「……面白い。ならば、その『シャカイジン』の精神……試してやろうではないか」
ルミナはニヤリと笑い、茶器セットを用意させた。
「聞けば、そなたの故郷には『サドー(茶道)』という、精神修養の儀式があるそうじゃな?」
「え? いや、あれは伝統文化で……」
「黙れ。わらわにその『サドー』を教えよ。もしわらわを満足させられれば、解放してやろう。だが失敗すれば……一生、わらわのペットとして首輪をつけて飼う」
逃げ場はない。
田中は覚悟を決め、ジャケットを脱いだ。
「分かりました。……日本の『おもてなし』、というかただの作法ですが、お見せしましょう」
数分後。
ペントハウスの床に、奇妙な空間が出現した。
田中とルミナが向かい合って座っている。
「まずは基本姿勢です。膝を折り、足を尻の下に敷いてください。これを『正座(SEIZA)』と言います」
ルミナはおずおずと正座をした。
「こ、こうか? ……むッ!? 足の血流が止まる! 痺れてきたぞ!?」
「動いてはいけません。背筋を伸ばしてください」
「くッ……! な、なんと地味で陰湿な姿勢じゃ……! だが……これが『普通』なのか!?」
ルミナの頬が紅潮する。彼女は「我慢」という新しい娯楽に目覚めつつあった。
田中は、懐から取り出した最後の粉末「抹茶」をお湯で溶いた。
茶筅がないので、ボールペンで高速攪拌する。
「どうぞ。結構なお点前で」
ルミナは震える手(足が痺れて全身が震えている)で茶碗を受け取った。
「こ、これが……いにしえの毒薬、マッチャ……」
彼女は意を決して、濃緑色の液体を一気に飲み干した。
「……苦ァァァァッ!!!」
ルミナが叫んだ。
「舌が収縮する! 草を煮詰めたような渋み! ……だが、その後から猛烈な甘みが鼻を抜ける!?」
「それを『侘び寂び』と言います」
「ワビサビ……! 苦痛の先にある静寂……! これがシャカイジンの『普通』か……! なんとストイックな種族じゃ!」
ルミナは恍惚の表情で床に倒れ込んだ(足が痺れて立てない)。
「気に入ったぞタナカ……! そなたはやはり、わらわのモノになれ! 毎日この刺激を……」
その時。
ペントハウスの天井のダクトが、ガゴン! と外れた。
「店長に触るなぁァァァッ!!」
ドサッ!
ダクトから埃まみれの清掃員が落ちてきた。
エコーだ。
彼女は受け身も取らずに床に激突し、「痛っ!」と声を上げたが、すぐに立ち上がり、モップを構えてルミナを睨みつけた。
「……またそなたか」
ルミナが這いつくばったまま(正座の痺れが解けない)睨み返す。
「わらわとタナカの『神聖な儀式(お茶会)』を邪魔するとは……無粋な泥棒猫め」
「儀式!? あんた、店長に何をさせたの!?」
エコーは田中の乱れた服装(ジャケットを脱いでいる)と、床に倒れているルミナを見て、とんでもない誤解をした。
「て、店長! まさか『枕営業』を!?」
「違うわ! 茶道だよ! ただお茶飲んでただけだよ!」
エコーは聞く耳を持たなかった。仮面の下で涙目が光る。
「汚い! 不潔! ……私には『普通の幸せも悪くない』とか言っておいて、権力には尻尾を振るのね!」
「待てエコー! 話を聞け!」
「うるさい! ……こうなったら、実力行使よ!」
エコーはモップのマイクスイッチを入れた。
「歌うわよ! ここで歌って、このイヤらしい部屋をメチャクチャにしてやる!」
「やめろ! ここは最上階だ! 窓が割れたら宇宙に放り出される!」
しかし、嫉妬に狂った歌姫は止まらない。
チョーカーが赤く発光し、破滅の歌声が放たれようとした瞬間――。
ピンポーン。
間の抜けたチャイム音が鳴り響いた。
部屋の入口に、一人の初老の男性が立っていた。
白衣を着て、分厚い眼鏡をかけ、手には「ストレスチェックシート」を持っている。
「あー、お楽しみ中すみませんねぇ」
その男の登場に、ルミナ皇女が顔色を変えた。
「……ゲ、ゲノム博士!?」
エコーも動きを止めた。
「……あの人、誰?」
田中が小声で答える。
「……俺も知らん。だが、あの皇女がビビってるぞ」
白衣の男は、ニコニコしながら部屋に入ってきた。
「インクルージョン省・特別監査役のゲノムです。いやー、船内のストレス値が異常に下がっているエリアがあると思ったら……ここでしたか」
彼は田中とエコー、そしてルミナを見回し、眼鏡を光らせた。
「皇女様、および指名手配犯のお二人。……あなた方の行動は、当船の『秩序』を著しく乱しています。よって、これより『更生プログラム』を受けていただきます」
「更生……?」
田中が嫌な予感を覚える。
「ええ。簡単なゲームですよ」
ゲノム博士は、背後のスクリーンに巨大なルーレットを投影した。
「名付けて、『第一回・チキチキ猛毒ポエム大会』! ……お互いの『欠点』を罵倒し合い、どちらが先に泣くかを競う、精神的デスマッチです!」
「はぁ!?」
「勝った方は無罪放免。負けた方は……『感情去勢手術』を受けて、一生ニコニコ笑うだけの人形になっていただきます」
事態は急転した。
皇女の誘惑、歌姫の嫉妬、そして突然現れたマッドサイエンティスト。
田中ヒロシの「胃袋」と「メンタル」を巡る戦いは、なぜかラップバトルのような展開へと突入しようとしていた。
「店長……私、口喧嘩なんてしたことない……」
エコーが怯える。
「大丈夫だ」
田中はネクタイを締め直した。
「俺は毎日、自分を殺してクレーム処理をしてきた男だ。罵倒なんて子守唄みたいなもんだよ」




