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プロローグ:その男、不快につき(または、時速8キロの暴走特急)

意識が戻ったとき、田中ヒロシ(35歳、独身、先月の残業時間120時間)が最初に感じたのは、「あ、これ遅刻だ」という脊髄反射的な恐怖だった。


だが、目を開けた彼を待っていたのは、見慣れたグレーの天井でも、蛍光灯が点滅するオフィスの地獄でもなかった。

そこは、目が痛くなるほど「白い」世界だった。


「……天国?」


田中はよろりと立ち上がった。足元がおかしい。アスファルトではない。まるで高級な低反発枕の上を歩いているような、ふにゃふにゃとした感触。

見渡せば、街路樹はスポンジでコーティングされ、建物の角という角はすべて丸く削られ、クッション材で覆われている。

行き交う人々は全員、全身タイツのような奇妙な極薄スーツ――公平性外骨格(Equity Skin)――を身にまとい、まるで月面歩行のようにゆっくり、ゆっくりと動いている。


「あ、あの、すみません!」


田中は近くを通りかかった通行人に声をかけた。営業スマイル、角度15度の会釈。完璧だ。

しかし、相手の反応は劇的だった。


「ヒィッ!?」


通行人の男性(ARフィルターによりのっぺりとした平均顔に見える)が、田中の声を聴いた瞬間、胸を押さえてうずくまった。


《警告。警告。ソニック・テロリズムを探知》


空から、絹を裂くような電子音が降り注ぐ。

見上げれば、真っ白な卵型のドローン――エンパシー・ボット――が数機、音もなく降下してくるのが見えた。ドローンの側面には「WE CARE (私たちは配慮します)」というロゴが、パステルピンクで優しく描かれている。


《市民ID未登録の生体反応を確認。対象は、規定デシベルを超える『大声』により、市民の精神的平穏を著しく侵害しました》


「え? いや、ただ道を……」


《再度の発声を確認。あなたは現在、周囲に対しマイクロ・アグレッション(微細な攻撃)を行っています。直ちに『沈黙の姿勢』を取りなさい》


「ちょ、ちょっと待ってください!」


田中は焦った。これはヤバい。理由は分からないが、とにかく「始末書」では済まない空気だ。

逃げよう。

田中は本能的に、駅の改札へダッシュする時のように、地面を蹴った。


タンッ!


その瞬間、世界がスローモーションになった。

いや、違う。田中だけが速すぎるのだ。


この世界の人々は、公平性外骨格によって筋力を「平均値」まで強制的に抑制されている。対して田中は、生身。しかも、深夜の終電ダッシュで鍛え上げられた、昭和・平成スタイルの「社畜足」を持っている。


彼がほんの数メートルを小走りで駆け抜けただけで、周囲の風景は暴風のように流れ去った。


「うわあああ! なんだあの速度は!?」

「速すぎる! 速さは暴力よ! 目が、目が回る!」

「誰か彼を止めて! 『特権』が暴走しているわ!」


悲鳴を上げて逃げ惑う市民たち。ドローンのセンサーが真っ赤に染まる。


《緊急事態。緊急事態。未確認の『生物兵器』が、制限速度(時速3キロ)を大幅に超過して移動中。物理法則を無視した『不公平な機動』です》


「生物兵器って俺のこと!?」


田中は叫びながら、クッション材で覆われた電柱に激突した。

ドローンが包囲網を縮める。テーザー銃のような銃口が、優しく、しかし確実に田中を狙っていた。

逃げ場はない。


(終わった……。異世界に来てまで、俺は社会不適合者なのか……)


絶体絶命のピンチ。

その時、田中の脳裏に、新入社員研修で叩き込まれた「究極の危機管理マニュアル」が蘇った。

クレーム対応の奥義。理屈もプライドも捨て去る、最後の砦。


田中は躊躇なく、その場に膝をついた。

両手を地面につき、額を、汚れた(といっても滅菌されているが)地面へと叩きつける!


「申し訳ェェェェございませんでしたァァァッ!!!」


ズバァァァン!!


土下座(DOGEZA)。


それは、21世紀初頭の極東島国に存在した、自尊心を完全に放棄する服従の儀式。

だが、この「安全イズム」の世界において、その行為は全く別の意味を持った。


一瞬の静寂。

そして、市民たちの絶叫が響き渡る。


「ヒッ……見て! 彼は自分の頭部を地面に擦り付けている!」

「なんてこと! 自らの尊厳をあそこまで破壊するなんて!」

「やめて! そんなに見下さないで! 私が『加害者』になってしまうじゃない!」

「グロテスクだ! 誰か私の視覚フィルターを最大にして!」


ドローンのAIさえもが処理落ちを起こし、空中でふらついた。

《エラー。エラー。対象の行動は『極度の自虐』であり、観測者に強烈な『罪悪感』を植え付けています。これ以上の介入は、我々の精神衛生規定に違反します……》


田中が顔を上げると、そこには奇妙な光景が広がっていた。

さっきまで彼を捕らえようとしていた人々が、全員、恐怖に青ざめ、涙を流しながら後ずさりしているのだ。


「……あれ? 通じた?」


田中ヒロシ、35歳。

彼が「最強の野蛮人」として、この美しくも狂ったディストピアに君臨する伝説が、今、幕を開けた。

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