ジーラ
ギアとオルギーを失ってから、一か月。
エーレの胸の奥の痛みはまだ消えない、消えっこない。
それでも、孤児院の生活はゆっくりと、少しずつ日常を取り戻し始めていた。
「ただいま~」
玄関の扉を開けたエーレは、少し疲れた笑顔を浮かべていた。
街から戻ったばかりで、肩には荷物の跡がくっきり残っている。
「おかえりなさい。売れ行きはどうだった?」
ジーラがぱたぱたと駆け寄ってくる。
その顔には、心配と期待が入り混じっていた。
「ただいま、ジーラ。おかげさまで完売したよ! ジーラが滝つぼで採ってくれた千年藻、相変わらず大人気で」
エーレは胸を張って笑う。
その笑顔は、どこか無理をしているようにも見えた。
「そう。役に立てたのなら嬉しいわ」
ジーラは胸に手を当て、ほっと息をつく。
「ところでエーレ、町の様子はどうだったの?」
ジーラは興味津々といった様子で身を乗り出す。
「すごい賑わいだったよ。もうすぐお祭りがあるって言うので、いろんな国の人が来てた」
エーレは楽しそうに話すが、その瞳の奥には、どこか遠い影が揺れていた。
「いいなぁ……エーレは町に行けて」
ジーラは頬をふくらませる。
その仕草が少し可愛くて、エーレは思わず笑った。
「オーフィンはともかく、ジーラなら濡れなきゃヒューマンと見た目は同じだから、行けそうなのにね」
「……ちょっと。私が“ともかく”ってどういう意味ですの? 別に町なんて行きたくありませんけど」
オーフィンはむすっとした顔で腕を組む。
その下半身――巨大な蜘蛛の脚がわずかにカサリと動いた。
エーレは苦笑しながら視線をそらす。
(……まあ、オーフィンが街に行ったら大騒ぎになるのは確かだけど)
子どもの頃から一緒に育ってきたエーレだからこそ、
彼女の繊細なプライドを刺激してしまったことに気づいて、内心で慌てていた。
「私も町に行ってみたいの。ラグの本に書いてあったわ。大きなお城には召使いが何百人もいて、ご馳走が並んで、毎日ダンスパーティーが開かれてるんでしょう? 一度でいいから、町を歩いてみたい……」
ジーラは夢見るように両手を胸の前で組む。
「でも院長先生が絶対許可しないからね」
エーレは苦笑しながら肩をすくめた。
「そうなのよ。本当にエーレが羨ましいわ」
ジーラはしょんぼりとうつむく。
そんなある日のこと。
「ゴホッ、ゴホ……」
エーレはベッドの上で丸くなっていた。
額には冷たい布が乗せられ、息は荒い。
「あら、エーレ風邪をひいたのね。ひどい熱と咳だわ」
ジーラが心配そうに額に触れる。
「雪花草の芽を煎じておいたから、熱は少し下がると思うのですけれど」
オーフィンが薬草の入った器をそっと置く。
「しばらく安静ね。家事は私とオーフィンでやるから、ベッドから出ちゃダメよ」
ジーラはエーレの肩に毛布をかけ直した。
「二人とも……ありがとう~……」
エーレは弱々しく笑う。
ジーラは台所でおかゆを作りながら、米袋を覗き込んだ。
「あら、お米がもうないわ」
「そういえば、そろそろ院長先生とエーレの仕入れの日ね」
オーフィンが棚を確認しながら言う。
「キャラバンが全部運んでくれたらいいのに」
ジーラはため息をつく。
「大きいものはいいけど、細かいものは割高になっちゃうからね」
オーフィンは肩をすくめた。
「お酢も欲しいし、タマゴも欲しいわ。エーレに精のつくもの食べさせたいし」
ジーラはおたまを握りしめ、決意を固めたように顔を上げる。
「……私、院長先生に言ってみるわ。町の市を手伝わせてくださいって!」
その瞳には、いつになく強い光が宿っていた。
「駄目だ。ジーラがもし人魚だと周囲にバレたらどうする」
ビンスフェルトはジーラの言葉を鋭く遮った。
その声には、いつもの穏やかさは微塵もない。
「大丈夫です。長いスカートの下にズボンを履けば、多少濡れたくらいでは――」
「とにかくダメだ!」
院長の声が部屋に響く。
「人魚は先の戦争で“絶滅した”ことになっておる。生き残りがいたなどと知られたら……命が危ない!」
ジーラは唇を噛みしめた。
「でも……町に行けば良いお薬があるのでしょう? エーレをこのままにしておけません!」
「しかし……ジーラ。私の言うことを聞いてくれないかね」
普段なら、この一言で引き下がっていたはずだった。
けれど――今日は違った。
エーレが倒れている。
そして、ずっと羨ましかった“町へ行く機会”が、今まさに目の前にある。
ジーラの胸の奥で、二つの気持ちが強く燃え上がった。
「お願いです、院長先生! 他のことは何でも言うことを聞きますから……町に連れていってください!」
「ジーラさん? 少ししつこすぎませんこと? 院長先生が困っておいでですわ」
オーフィンが眉をひそめる。
「ジーラは本を読むだけじゃ足りないのかい? 現物を見なきゃ満足しないなんて、ただの想像力の欠如だよ」
テンペリスも呆れたように肩をすくめた。
「何が楽しいのかしら。ヒューマンがうようよいる町なんて、疲れるだけじゃない」
それでもジーラは引かなかった。
「エーレのためにも……お願いします! 院長先生!」
「…………」
ビンスフェルトは深くため息をついた。
その表情には、諦めと心配が入り混じっていた。
「……わかった。ただし、二つだけ約束してもらう」
ジーラの瞳がぱっと輝く。
「一つ。下半身の徹底した防水対策をすること。
もう一つ。決して馬車から出ないことだ」
「……はいっ!」
ビンスフェルトは頭を押さえながら続けた。
「馬車の中なら雨も降らんし、毛布を被せておけば大丈夫だろう。中で金庫番と商品の補充をしてくれるだけでも助かる」
こうして、ジーラの初めての“町行き”が許された。
その日、ジーラは約束を守り、何事もなく帰ってきた。
次の市も、エーレがまだ本調子ではなかったため、ジーラが代わりに同行した。
この時は馬車の目の前で店番まで任され、誇らしげに胸を張っていた。
そしてその次も、その次も――
何も事件は起きなかった。
ジーラはビンスフェルトの言いつけを守り、
エーレと交代で、市の仕事をこなすようになっていった。
しかし、何度かの成功は――皆の心に、ほんの少しの油断を生んでしまった。
その日、崖で山菜を採っていたエーレが足をくじいた。
ビンスフェルトが市へ行く準備をしていると、ジーラが勢いよく前に出る。
「私に行かせてください! エーレは休ませてあげて!」
その必死さに押され、ビンスフェルトは渋々うなずいた。
王宮へ向かったビンスフェルトを見送り、ジーラは金庫に鍵をかけ、商品に布をふわりとかける。
そして――そっと馬車の外へ出た。
「ちょっとくらい……いいわよね。こんなに良いお天気だし、雨も降らなさそうだし」
胸が高鳴る。
夢にまで見た“町での自由時間”。
お目付け役はいない。
五分だけ……いや、十分だけ。
ジーラは軽い足取りで市の周辺を歩き始めた。
「わぁ……綺麗!」
目に飛び込んできたのは、宝飾店のショーウィンドウ。
光を受けてきらめくアクセサリーの数々に、ジーラの瞳は釘付けになった。
「いいなぁ……こんなにキラキラしてて、可愛くて……欲しいなぁ」
もちろん、ジーラはお金を持っていない。
ただ眺めるだけ――それでも胸が躍った。
アクセサリーを順番に見ていくうちに、ふと目が止まる。
「これ……人魚の涙?」
ガラス越しに輝く青い宝石。
“絶滅したはずの人魚の涙から作られる”とされる希少な宝石。
そのアクセサリー一つの値段は、今日の市の売り上げの何倍もあった。
「わあ……こんなの、すごく高いのね……」
ジーラはぽかんと口を開けた。
――その胸の奥で、ひやりとした感覚が走る。
だって。
客の少ない時間、退屈で何度もあくびをしたジーラの目からは、
極小粒とはいえ“人魚の涙”がポロポロとこぼれていたのだ。
面倒だからと、ポケットに詰め込んでいたそれが――
こんな価値を持つなんて、ジーラは夢にも思っていなかった。
「宝石の買取します」
店先に掲げられたその看板が、ジーラの運命を大きく狂わせた。
ギアやオルギーと違い、文字が読めてしまう――それが、彼女の背中を押してしまったのだ。
「ここにだって売ってるんだから……きっと大丈夫よね」
胸の奥で小さく鼓動が跳ねる。
ジーラは意を決して宝飾店の扉を押し開けた。
「すみません、宝石の買い取りをお願いしたいのですけど」
店主はジーラを上から下までじろりと見た。
手作りの服、擦れた靴、飾り気のない髪。
どう見ても“宝石を持っている客”には見えない。
「宝石? あんたが? 持ってるってのかい?」
疑いの色を隠そうともしない視線が突き刺さる。
「はい、これなんですけど」
ジーラはポケットから小さな青い粒を取り出した。
光が当たると、虹色にきらめく――“人魚の涙”。
「……! これをどこで……! あんたみたいな人が!」
店主の目が見開かれる。
「両親の形見なんです。生活のために……仕方なくて」
ジーラは胸の前で手をぎゅっと握った。
その仕草が、逆に“本物らしさ”を強めてしまう。
「ふむ……こんな貴重な品を。あんた、どこかの元貴族かい? ご先祖様が昔に貰ったとか……ちょっと見せてみな」
店主は宝石を受け取ると、同時にジーラの指先に目を留めた。
(……この指。水かきの跡……?)
しかし、その疑念を表情に出すことはなかった。
「確かに本物だな。……これなら銀貨150枚で買い取るよ。大粒じゃないが、質はいい」
「そんなに! ありがとうございます!」
ジーラは目を輝かせ、銀貨を受け取ると店を飛び出した。
後ろから視線がついてくることに、まったく気づかないまま。
その後のジーラは、夢のような時間を過ごした。
買い食いをして、可愛い小物を眺めて、町の空気を胸いっぱいに吸い込んで――。
「まだ戻ってないのか。言いつけ通り店番をしようっと」
馬車に戻ったジーラは、商品にかけていた布を外す。
「よっこいしょ……たくさん歩いて疲れたわ。でも、本当に楽しかった……!」
頬を緩ませながら、ジーラは店番を始めた。
「おい、お頭に報告だ」
「へい」
「お前はこの露店を見張ってろ。動いたら後をつけて知らせろ」
「了解っす、兄貴」
薄汚れた路地の影から、野盗たちの視線がジーラの露店をじっと追っていた。




