きっと、悪くない
翌日――森の奥、静かな朝。
表情はいつも通りのエーレだったが、その瞳の奥には複雑な影が差していた。
「私とオーフィン、ギアはこないだ仕掛けた罠の様子を見に行くわ。あとの皆は畑と牛の世話と、貯水槽への水汲みをお願いね」
淡々と指示を出すエーレ。だが、その声には微かに緊張が滲んでいた。
「了解!」
「わかったぜ、エーレ!」
「今日は危ないことをしたらダメよ、ギア」
「げー、水汲みかー」
勝手気ままな声が飛び交い、子どもたちはそれぞれの持ち場へと散っていく。
エーレはその背を見送り、深呼吸をひとつ――覚悟を胸に押し込めた。
森の罠の設置場所に着くと、エーレはオーフィンに指示を出す。
「それじゃ、オーフィンはこの広場で待機していて。私とギアは別々に罠の様子を見て回るから」
「わかったわ、エーレ」
「私はこっちを見てくる。ギアは街道沿いの罠を頼む」
「わかったぞ! エーレ!」
ギアは元気よく駆け出していく。
エーレはため息混じりに見送る。
「それじゃ行ってくるわね、オーフィン」
「いってらっしゃい、エーレ」
しかし、その数分後――
森の静けさを破るように、鋭い悲鳴が響いた。
「ぎゃあああああ!」
その声の主を、エーレは一瞬で理解した。
街道沿い、点々と吊るされた燻製肉――仕掛けられた毒をギアが口にしてしまったのだ。
「ギア! ギア!!!!」
エーレは駆け寄り、必死に小さな体を抱きしめる。
「エ…エーレ…お姉…ちゃん…」
「こんな…落ちてるものを勝手に食べたらダメだって言ったでしょ! どうして…!」
ギアは苦しげに呻き、身体をエビぞりにして痛みに耐える。
「ウウウ…お腹が痛い…苦しいよぉ…痛いよぉ…お姉ちゃん…」
「バカ! ギアのバカ!」
エーレは涙をこらえながら、強く抱きしめる。
小さなギアの体が震えるたび、胸が痛む。
「我慢できなかったんだ…変な匂いはするなと思っていたんだけど…ウっ!」
「もう…そんな…気を抜いたらダメだって言ったでしょ!」
痛みにのたうつギア。
「うわあああ!」
「ギア!!!!」
「ハァ…ハァ…でも…お肉からエーレの匂いがしたから…」
その言葉に、エーレは凍りつく。
小さな体の力なら、この状態でも簡単に人を傷つけられるはずだった。
「大丈夫だと思ったんだ…ごめんよ…エーレ…お姉…ちゃ…」
「ぎゃあああああ! 痛い!痛い…助けて…お姉ちゃん…!」
大粒の涙が頬を伝い、エーレは声にならない声を漏らしながら抱きしめる。
「ごめん…ごめんね、ギア!」
「ハァ…ハァ…何で…謝るの…?」
ギアの目には、痛みに耐えながらも、信頼と愛情が溢れていた。
「でも…エーレは…きっと悪くないよ…大好きだよ…お姉ちゃん…」
その笑顔は赤ん坊のように無垢で、胸を締め付ける。
「ギアァァァァ!痛い!痛い!」
数分間、エーレはただ小さな体を抱きしめ続けた。
やがて、ギアの呼吸が静かになり、力が抜けていく。
森の風が二人を包み、木々のざわめきだけが、悲しみを見守るように揺れていた。
赤子のような顔で眠るギア
――いや、もう動かぬその身体を、エーレは強く抱きしめ、涙をこぼし続けた。
ギアの小さな亡骸を、慎重に抱きかかえて孤児院へ戻るエーレ。
森の小道は静まり返り、木々の葉擦れだけが耳に届く。
その道すがら、エーレの胸は痛みでいっぱいだった。
「ごめんね…ごめんね、ギア…」
呟きながら、弱々しい体をそっと抱きしめる。
「私、…どうして助けられなかったんだろう…」
孤児院に戻ると、他の子どもたちが息を詰めて待っていた。
オーフィン、ジーラ、オルギー、そしてエーレの姉妹のような目をしたテンペリス。
全員の顔に浮かぶのは、深い悲しみと衝撃だった。
「……ギアが…」
オルギーが声を詰まらせる。
「……ううん、ギア…」
ジーラも泣き声をこらえ、うつむいた。
エーレは亡骸を慎重に安置し、深呼吸をひとつ。
そして、重い口を開いた。
「皆…ギアは…森で、毒の肉を食べてしまったの…」
言葉を噛みしめるようにして告げると、沈黙が広がった。
その後、ビンスフェルト院長が静かに説明を加える。
「ギアが口にした毒の肉は、先日の馬車で死んだ兵士の家族が設置したものだ。狼を狩るために置かれた――ギアは避けられなかったのだ」
子どもたちは、院長の説明に言葉を失った。
納得するしかない――しかし、胸にぽっかりと穴が開いたような重みは消えない。
ハーピーのオルギーは、亡骸にすがりつき、肩を震わせて大声で泣き叫ぶ。
「こんなことになるなんて…ギア! どうして…どうしてあんなのを食べちゃったのよ!」
その涙は、まるで心ごと引き裂かれるように溢れ、周囲にぽたぽたと落ちていく。
アラクネのオーフィンは、そっとその後ろに立ち、八本の脚を揺らしながらも、顔は暗く、目には涙がにじんでいた。
「ほんと…バカなんだから……」
低く、絞り出すように呟く声には、哀しみと諦めが混じる。
でもその瞳は、怒りや憎しみではなく、深い悲しみでいっぱいだった。
ジーラも顔を覆い、嗚咽を漏らす。
「うう…ギア…どうして…私、何もできなかった…」
その小さな体が震え、孤児院の広間には、子どもたちの痛みに満ちた沈黙が重くのしかかる。
エーレはそっとギアの身体を抱き上げ、頬を寄せて耳元で囁いた。
「ごめんね…でも、あなたのこと、ずっと忘れないから…大好きだよ、ギア…」
その声は、小さくも強く、そして深く心に響く――
悲劇の中で生まれる、切ない絆と、守りたかった想いの証だった。
ただ一人――ヴァンパイアの少女テンペリスだけが、冷ややかな目でエーレを見つめていた。
その翌日――
院長ビンスフェルトは、ギアの小さな亡骸を丁寧に馬車に積み込む。
王都へと向かうための旅路である、皆には王都の共同墓地にギアを葬るのだと言い含めてあった。
(……王へ、報告と慈悲を乞うのだ)
呟いたその声には悲しみと覚悟が混ざり、子どもたちの胸に重く響く。
馬車が森を抜け、道を進むその背中を見送るエーレ。
心の奥底では、まだギアのぬくもりを感じているような錯覚があった。
しかし、事はこれだけでは終わらなかった――




