薄氷
「……っ!!」
思わず息を呑み、エーレは一歩、また一歩と後ずさった。
「そ、そんな……! ギアを……殺すなんて、絶対にできません!」
震える声で叫ぶエーレに対し、ビンスフェルト院長は目を伏せ、声を低く落とす。
「……エーレ。君には、どうしても話しておかねばならないことがある」
その沈黙が、すでに答えを告げているようだった。
「ギアは――人を殺した」
「……っ!」
胸を槌で打たれたような衝撃。言葉が、頭の中でうまく形にならない。
「四日前、荷物の馬車が来ただろう。あれを襲ったのが……ギアだ」
「で、でも! あれは狼だって――!」
「御者や兵士から見れば、そう見えたろう。四つ足で走り、銀色の毛並みを持つ存在だ。無理もない」
「だからって……! 本当にギアだっていう証拠は、あるんですか!?」
食い下がるエーレの視線を受け止めながら、ビンスフェルトはゆっくりと懐に手を伸ばした。
取り出されたのは、小さな布切れ。
「……これは……!」
エーレの声が掠れる。
「ギアの、です……」
「ああ。あの子のものだ。私も見てすぐに分かった。ボウガンの矢を避けた際、落としていったらしい」
指先で布切れを握り締めるエーレ。
「あの子……そんな……」
「人を殺した者は、法律によって裁かれる」
淡々とした言葉が、冷酷な現実を突きつける。
「もし私が動かなければ、町の兵が来るだろう。そして――あの子は、町で“見世物”として処刑される」
「……っ!」
想像してしまった光景に、エーレは唇を噛みしめた。
「そんなこと……そんなこと、あっていいわけが……」
言葉は、最後まで続かなかった。
「……だから頼む、エーレ。ギアの為を思うのなら――」
ビンスフェルトはそう言って、エーレの手を強く握った。
その手が、震えている。
いつも穏やかで、揺るがないはずの院長先生の手。その微かな震えが、かえってエーレの胸をかき乱した。
「……どこかに、逃がすとか……そういう方法は……」
縋るように口にした言葉は、最後まで形にならなかった。
「それはできない」
即答だった。
「……お前も知っているだろう? ここには、異種族の子ばかりが集められているということを」
「……はい……」
エーレは、小さく頷くしかなかった。
ビンスフェルトのお供で街に出るたび、嫌というほど思い知らされてきた。
村にも、街にも、いるのはヒューマンばかり。エルフも、獣人も、翼を持つ者も、蜘蛛の脚を持つ者も――どこにもいない。
祖父や曾祖父の時代には、多くの種族が共に暮らしていたと聞く。
だが、ヒューマンとの長い争いの末、彼らは滅ぼされた。
一族ごと、根こそぎ。
かつて王国参謀長であったビンスフェルトは、引退後、当時の王の許可を得て、生き残った子供たちを密かに保護し、この孤児院を作った。
――だが、その庇護は永遠ではなかった。
王家が代替わりし、時代が変わり、許可はなかったことにされた。
今、この孤児院を守っているものは、法でも権威でもない。
ただ、薄氷の上に成り立つ「見逃し」だけだ。
(……やっぱり)
エーレは、どこかで理解していた。
この孤児院だけが――
この場所だけが、異常なのだと。
だからこそ、ビンスフェルトは決して――
ヒューマンであるエーレ以外の子供を、町や村へ連れて行こうとはしなかった。
異種族の子供たちがここにいることも、外では一切、口にしなかった。
この孤児院は、世界から切り離された「例外」だったからだ。
――そして、その均衡を壊したのが、ギアによる兵士殺害事件だった。
殺された兵士には、妻と幼い息子がいた。
二人は裁判所へ訴え出たが、事の特殊性ゆえに、通常の裁きは行われなかった。
代わりに行われたのは――
ビンスフェルトと現王との、非公開の直接対話。
そこで下された結論は、あまりにも単純で、あまりにも残酷だった。
――「自ら手を下せ」。
そうでなければ、この孤児院に住むすべての異種族の子供たちを、
例外なく「処分」する、と。
「……頼む……」
掠れた声で、ビンスフェルトは頭を下げた。
「……わかりました、院長先生」
エーレの返事は、驚くほど静かだった。
「できれば……苦しまないように……」
そう言って差し出されたのは、透明な液体が入った小瓶。
それが何であるか、説明は必要なかった。
エーレは、ただそれを見つめる。
「……でも、少し……考えさせてください」
「頼む。しかし、それほど時間は無い」
ビンスフェルトの声は冷静だったが、その目は追い詰められていた。
「明後日には、ギアの死体を積んで町へ行かねばならん。
でなければ――ここの皆全員が、王都の兵士によって連れ去られ、処刑されるだろう」
「……っ!」
「そういう条件なのだ。解ってくれ、エーレ」
それ以上、言葉はなかった。
――バタン。
扉を閉め、エーレは自分の部屋へ戻った。
声を殺して泣き、涙が枯れるまで泣き続け――
やがて、心も体も限界を迎えたように、そのまま泥のように眠りに落ちた。




