決断
ビュンッ――!
二射目のボウガンの矢が、ギアの頬をかすめた。
皮膚が裂け、熱い痛みが走る。
同時に、背筋を撫でるような“死の気配”。
ギアの身体が、本能的に強張った。
「……っ!」
御者は状況が悪化するのを悟ったのか、慌てたように馬車から身を乗り出す。そして――
ドサリ。
馬車の前方へ、大きな骨付きの燻製肉を投げ捨てた。
濃厚な脂と煙の匂いが、空気を満たす。
――その瞬間だった。
ギアの中で、理性がぷつりと切れる。
考えるよりも早く、身体が動いた。
彼は迷いなく燻製肉を咥えると、地面を蹴り――
脱兎のごとく、森の奥へと駆け出した。
枝を裂き、闇を切り裂き、ひたすらに走る。
追手の気配が消えた頃、ギアはようやく立ち止まった。
気が付けば、月明かりに照らされた一本の太い木の上。
静寂。
夜の森だけが、彼を包んでいた。
ギアは、骨ごと燻製肉にかぶりつく。
バリッ。
ボリッ。
野性的な音を立て、無我夢中で喰らう。
「……こんなに……」
口の端から脂を滴らせながら、彼は呟いた。
「こんなに美味しいお肉……初めてだ!」
そして、息を荒くしながら、続ける。
「もっと……欲しい……」
その声は、もう以前の無邪気な少年のものではなかった。
月明かりに照らされた瞳が、赤く、ぎらつく。
――獲物を求める、狼の眼。
森の奥で、何かが決定的に変わってしまった瞬間だった。
「もう! どこをほっつき歩いていたの!」
孤児院へ戻ったギアは、開口一番、オーフィンに小言を言われた。
「ごめん! なんだか道に迷っちゃってさ!」
「んもう! オルギーばかりに働かせて、薪を持ってきたのはじめの一回だけじゃないの!」
「本当にゴメン! 次はちゃんとするから!」
オーフィンとオルギーにひとしきり叱られた後、三人は孤児院へと帰った。いつもと変わらない、温かい日常がそこにはあった。
その日の夜、キャラバンからの荷受けを終えた後、エーレとオーフィンが話していた。
「何だか、荷物を届けてくれる馬車が遅いと思ったら、狼が出たんですって」
その言葉に、オーフィンは首を傾げる。
「狼? このあたりに、二頭立ての馬車を襲えるような大きな狼なんていたかしら?」
「兵士が一人亡くなったって。でも、燻製肉を投げたらそれを咥えて逃げていったらしいわよ」
「冬は狼の活動範囲も広がるからね、別に珍しいことじゃない。山の方から下りて来たんじゃないかな?」
部屋のソファを独占して本を読んでいたバンパイアの少年ラグが、静かに会話に参加した。
「そうなの? ラグ?」
エーレがラグに問いかけると、彼は分厚い本のページをめくる手を止めずに答えた。
「本を読めば解る事じゃ無いか。皆もっと本を読んだ方がいい」
その言葉に、オーフィンは呆れたように肩をすくめる。
「ラグはいつも本ばかり。もう少し気楽に生きればいいのに」
「僕はテンペリスのようなのんびり屋ではないよ。単純に、知識が増えるのが楽しいんだ」
ラグはそう言って、再び本の世界へと没頭する。
夕食には、昼間は寝ていることが多いヴァンパイアのテンペリスとラグも一緒に食卓を囲んでいた。ビンスフェルト院長は一度町に行くと大抵二~三日から一週間ほど留守にすることが多いので、その間は子供達だけで食卓を囲むのが常だった。
「燻製肉か! 食べたいぞ!」
先ほどの出来事などすっかり忘れたかのように、ギアが話に割って入る。その瞳は、純粋な食欲で輝いていた。
「お肉は高いのよ。院長先生だって節約しているんだから我慢しなさい!」
エーレがそう言って、ギアの純粋な欲求に水を差す。だが、ラグはそんなことお構いなしとばかりに、静かに口を開いた。
「そうでもないさ。何なら僕が燻製窯を作っておいても構わないよ。肉は君たちが何か捕まえてくれば良いし、チップは森で手に入るだろう?」
ラグの言葉に、ギアは目を輝かせ、オーフィンとオルギーも期待に満ちた表情になる。
「できるの! ラグ!」
興奮気味に問いかけるギアに、ラグは表情を変えずに答えた。
「それくらい本を読めば書いてあるだろう。少しは君たちも勉強をしてみたらどうだい?」
「倉庫の岩塩はまだ在庫があるから、院長先生が戻ってくるまでには間に合うわね」
エーレが手際よく段取りを組むと、テンペリスはげんなりとした顔でため息をつく。
「はぁ……面倒くさい。私を巻き込まないでよね。私はパンと野菜でいいから関わらないわよ」
そう言うのは、ラグの妹であるヴァンパイアの少女テンペリスだ。兄妹でヴァンパイアという、少し変わった組み合わせだった。
「私は別に生肉でも……」
オーフィンが小さくつぶやくと、エーレはすぐに釘を刺す。
「駄目だよオーフィン、ちゃんと熱を通さなきゃ」
その言葉に、オーフィンは少し不満そうな顔をする。だが、エーレは気に留めることなく、テキパキと皆に指示を出した。
「それじゃあ、明日は準備をしましょうか。ラグは燻製窯、テンペリスは今日また破いてきたギアの服をつくろって。明日はジーラが皆の部屋の掃除とお洗濯。残りで狩りにいくわよ!」
エーレの号令に、子どもたちは皆「おー!」と元気な返事をした。
そして、希望に満ちた夜は静かに更けていった。
翌日。
ギア、オーフィン、オルギー、エーレの4人は護身用の弓と槍を持って森に入った。
「皆はぐれないで、固まって進みましょう」
「イノシシでも取れれば良いんだけどね」
「そんなに簡単には無理だよ」
「何とかなるぞ!俺の足は獣より速い!」
とギア。
「頼りにしてるわよ、えーっとラグが絵図を書いてくれたっけ」
「・・・こういう風にしてロープを木に引っかけて仕掛けるといい。」
「罠か!」
「どれどれ、若い木を倒して引っかけて・・・」
「何してるんだ!エーレ!何か食べてるのか?」
「だめ!そこに入っちゃ!」
「ギャー!」
仕掛けたばかりのロープの罠に引っかかり木に吊るされるギア。
「なんだこれ!ほどけない!エーレ!」
「助けてきてあげて、オルギー」
「んもう!折角仕掛けたばかりなのに!」
「でもテストにはなりましたわね、さすがラグですわ」
「このあたり10か所に仕掛けておくから、明日また様子を見に来るまでこのエリアに入っちゃダメよ」
「ううう・・わかった。」
「そうそう、エーレの言う事をちゃんと聞くのよギア」
ダッ!
刹那、ギアが何かを見つけたらしく脱兎のように走り出す。
「何!ギア!」
「見つけた!」
林の中を逃げ回る何かを口に咥えてきたのは数分後だった、まるまると太ったモリウサギを誇らしそうに地面に置く。
「凄いじゃない!ギア!毛皮もお肉も取れるし!毛皮は市場で売れるのよ!」
「お手柄ですね、ギア。」
「へっへー!どうだ!」
バサバサ!
空を飛んでいたオルギーが下りて来た。雉のような鳥を足で掴んでいる。
「オルギー!凄い!」
「意外と簡単だったわ!生き物を狩るってなんだかドキドキするわね」
スルスルと糸を出し、獲物を自分の胴にくくりつけるオーフィン。
「私が運びますわ、この中で一番力持ちでしょうから」
確かに、アラクネの彼女の下半身は蜘蛛のそれだ。
8本の長い足が重さを分散し皆が持てないようなものも軽々運べるオーフィンには薪運びや荷物運びの際も皆依存している。
ピクンとギアの耳と鼻が反応した。
「この匂い・・!ブタだ!走って来る!」
「ブタぁ?何でそんなものが」
「バカ!イノシシよ!皆固まって!オルギーは空から見張って!」
「了解!」
ブヒヒヒヒ!
突然茂みから突然現れた大人のイノシシ。
ギアが跳ね飛ばされたがそこは人狼、しっかり受け身を取った。
「エーレ!危ない!」
オルギーが空から叫ぶ。
「え?え?どこ?」
「後ろぉ!」
プギー!
完全に虚を突かれたエーレの脇腹にイノシシの牙が食い込むと思われたその瞬間・・
「ガアア!」
ギアが割って入り、イノシシの喉ぶえに牙を立てて動きを封じた。
「ナイスですわ、犬!」
すかさずオーフィンが糸を出しイノシシの動きを封じると尖った前足をイノシシの頭に突き刺した。
「ふぅ、危なかったぞ!エーレ!」
「ありがとう!ギア!血が・・!」
「これくらい大したことないぞ!すりむいただけだ!」
「全くエーレさんってば。他の事はよくできるのにこういう事はからっきしなんだから」
「大丈夫―?エーレ?」
バサバサと降りて来たオルギー。
「大丈夫、ありがとうみんな」
「もう、気を付けてよ!」
この日4人は大漁の獲物を抱えて孤児院に戻った。
包丁で皮をはぎ、肉を吊るし、半分は塩付けにする。
「燻製にするのは明日かしら」
「楽しみだな!」
「こっちのは生で頂いてもいいかしら・・?」
「オーフィン?いいわよ。切ってあげるね」
その日は少々危なっかしかったが、いつものようにギアがすりむいただけで終わった。
三日後。
森の奥の一本道を、馬車が静かに進んできた。
御者台に座るビンスフェルト院長の表情は、どこか晴れない。
深い皺の刻まれた額に、疲労とも迷いともつかない影が落ちていた。
やがて、古びた洋館――森の孤児院が見えてくる。
「院長先生だ!」
真っ先に気づいた子どもたちが、ぱっと表情を輝かせ、馬車へ駆け寄った。
「院長先生、おかえりなさい!」
「あ、ああ……ただいま、みんな」
ビンスフェルトはぎこちなく微笑み、ゆっくりと馬車を降りる。
「お利口にしていたかい?」
「してたよ! ねえねえ、今日の晩ごはん、すごいんだよ!」
胸を張って答えたのはギアだった。
「イノシシ肉の燻製を作ったんだ!」
その言葉を聞いた瞬間――
ビンスフェルトの表情が、ほんの一瞬だけ強張る。
けれど、それはすぐにいつもの穏やかな顔に戻った。
「……それは楽しみだね。イノシシなんて危なかったろう?」
静かに視線を巡らせながら、問いかける。
「誰も怪我はしていないのかい?」
「大丈夫!」
ギアが元気よく答える。
「ちょっと、すりむいただけ!」
「エーレも転んだでしょ」
横からジーラが口を挟むと、
「もうっ! 言わないでって言ってたのに!」
エーレが頬を膨らませた。
そのやり取りに、ビンスフェルトは小さく苦笑する。
「駄目だよ。危ないことをしたら」
そう言いながらも、彼の声は責める調子ではない。
「……でも、ありがとう。みんな無事で何よりだ」
その言葉に、子どもたちは誇らしげに胸を張った。
――誰も気づいていない。
院長の視線が、一瞬だけ、ギアの首元や手元を確かめるように走ったことを。
森の孤児院に、また一つ、静かな夜が訪れようとしていた。
「さぁさ……冷めないうちに、ご飯にするかね」
院長ビンスフェルトの一言に、張りつめていた空気がふっと緩む。
「はい、院長先生!」
子どもたちの声が一斉に弾けた。
「僕が作った燻製箱だからさ、バッチリだよ!」
誇らしげに胸を張るギアが、得意げに言う。
「よくできてると思うんだ!」
「ふふ、そうね。いい香りだわ」
「こんなに立派な燻製、久しぶりじゃない?」
食堂には、香ばしい匂いが満ちていた。
木製のテーブルの上には、艶のあるイノシシ肉の燻製、温かなスープ、焼き立てのパン。
どれも手作りで、どれも心がこもっている。
その夜は――
いつもより少し豪華で、
“晩餐”と呼んでも差し支えないほどの食卓だった。
子どもたちは笑い、食べ、語らう。
森の外で起きた出来事など、誰一人として知らないまま。
そして院長は、そんな光景を静かに見つめながら、
杯を手に取り、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
その晩――
エーレは、ビンスフェルト院長の部屋に呼び出された。
夜の孤児院は静かだった。
昼間の賑やかさが嘘のように、廊下には自分の足音だけが響く。
(……こんな時間に、呼び出しなんて)
扉の前に立った瞬間、胸の奥がひどくざわついた。
中から漂ってくる空気が、いつもの院長室と違う。
温かさではなく、張り詰めた緊張がそこにはあった。
「……失礼します」
扉を開けると、机の前に座るビンスフェルトの姿があった。
背筋は伸びているのに、どこか疲れ切った横顔。
ランプの光が、深く刻まれた皺を強調している。
「よく来てくれたね、エーレ」
その声は穏やかだったが、微かに震えていた。
「院長先生……。何でしょうか。こんな時間に」
問いかけるエーレの声も、自然と小さくなる。
ビンスフェルトは答えず、ゆっくりと息を吐いた。
一度、二度――
何度もため息をつき、両手を組む。
まるで、言葉を選んでいるのではない。
“覚悟”を固めているようだった。
やがて、彼は顔を上げる。
「エーレ……君にしか、頼めないことがある」
「……何でしょう?」
喉がひりつく。
嫌な予感が、確信に変わっていく。
そして、次の言葉は――
あまりにも、重かった。
「ギアを――殺してくれ、エーレ」
一瞬、時間が止まった。




