前兆
「いただきます」
「「いただきまーす!」」
元気な声が重なり、朝の食堂に広がる。
焼き立てのパンをちぎり、温かなシチューをすくいながら、子どもたちの一日はこうして始まる。
何年も、変わらず繰り返されてきた穏やかな日常。
それがいつまでも続くと、誰もが疑いもせずに信じていた。
獣人、吸血鬼、アラクネ――
種族は違っても、ここではそれが当たり前だった。
森の外を知らない子どもたちにとって、この孤児院こそが世界のすべてだったのだ。
「ところで、倉庫の在庫はどうだい? エーレ」
ビンスフェルトはパンをちぎりながら、穏やかな口調で尋ねる。
「はい。薪がそろそろ足りません。それから、ジャガイモと小麦も、もうほとんど残っていないです」
「そうか……。次の荷入れでは、少し多めに頼んでおこう。
薪は――みんなで拾ってきてくれるかい?」
「わかりました! 院長先生!」
即座に返る、元気な返事。
誰かの役に立てることが、ここでは当たり前の喜びだった。
「ハッハッハ、いつもありがとう。森の外には出ないよう、気をつけるんだよ」
「「はーい!」」
食事が終わると、まるで合図でもあったかのように、孤児院の中に自然な流れが生まれる。
誰かが声を上げなくても、次にやるべきことは、もうみんな分かっていた。
「食器を洗ったら、私とジーラは洗濯ね。ギアとオーフィン、それからオルギーは薪拾いをお願い」
エーレの声ははきはきとしていて、年齢以上の頼もしさがあった。
「洗濯が終わったら、ジーラは畑と牛の世話。私はキャラバンの荷物を受け取りに行くわ。
薪拾いは――夕方までには必ず帰ってきてね!」
「はーい」
「了解!」
返事が重なり、子どもたちはそれぞれの持ち場へ散っていく。
そのとき、エーレはふと足を止め、表情を引き締めた。
「……くれぐれも言っておくけど。キャラバンの前には、絶対に姿を見せちゃダメよ!」
釘を刺すようなその言葉に、場の空気が一瞬だけ引き締まる。
声を重ねたのは、この孤児院の年長者――人魚のジーラだった。彼女の視線は、隣に立つ少女へ向けられている。
「ちゃんと分かってますわよ。ヒューマンを驚かせても、仕方ありませんもの」
そう答えたのは、八本の脚をゆらりと揺らすアラクネの少女、オーフィン。
口元には、いつものいたずらっぽい笑みが浮かんでいた。
「そうそう、エーレ」
「はい、何でしょう。院長先生?」
食後の余韻がまだ食堂に残る中、院長ビンスフェルトが穏やかな声で呼びかけた。
「私は少し街へ行ってくるよ。お昼頃に出られるよう、馬車を用意しておいてくれるかい?」
「わかりました、院長先生!」
即座に返事をするエーレの姿に、ビンスフェルトは満足そうに目を細める。
「良い子だ、みんな」
そう言って、彼は隣に座るエーレの頭をぽん、と優しく撫でた。
その手つきは、父親のように温かく、長年この孤児院を支えてきた人間のものだった。
エーレは少し照れたようにしながらも、誇らしげに背筋を伸ばす。
やがて院長は身支度を整え、馬車へと向かう。
子どもたちは門の前まで見送り、口々に声をかけた。
「いってらっしゃい、院長先生!」
「気をつけてくださいね!」
「ありがとう。留守は頼んだよ」
そう言い残し、馬車が森の小道へと消えていく。
――その背中を見送ったあと、子どもたちは自然とそれぞれの仕事へ散っていった。
森の孤児院に、いつも通りの一日が流れ始める。
この時はまだ、誰一人として知らなかった。
この“いつも通り”が、どれほど尊いものだったのかを。
水車小屋に併設された洗濯場。
回転する水車の軋む音と、川のせせらぎが重なり合い、穏やかなリズムを刻んでいる。
水面には白い泡がふわふわと浮かび、洗濯板を打つ音が心地よく響いていた。
「ねえ、エーレ」
洗濯物を揉みながら声をかけたのは、人魚の少女ジーラだった。
長い髪をまとめ、袖をまくった姿は、普段の彼女とは少し違って見える。
「あなた、町に行ったことがあるんでしょう?」
「うん。院長先生のお供で、何度かね」
エーレがそう答えると、ジーラの瞳がぱっと輝いた。
「どんな所なの? ねえ、聞かせてよ!」
「もう何度も話してるじゃない。人がたくさんいて……お店も、レストランもいっぱいあるの」
何気なく答えるエーレの横で、ジーラは身を乗り出す。
「お金さえあれば、何でも買えるんでしょう? 新しい生地も、アクセサリーだって!」
その声には、抑えきれない憧れが滲んでいた。
「でも、私たちは働いていないから無理だよ」
「……そうね」
ジーラは少しだけ唇を尖らせたが、すぐにふっと表情を緩める。
「でも、聞いてるだけで楽しいわ。いつか……本当にいつか、行ってみたいな」
川の流れは変わらず、洗濯場には穏やかな時間が流れ続けていた。
「でもね……大人になったら、町で働いて、いろんなものを買ってみたいわ!」
ジーラは洗濯の手を止め、ぱっと顔を上げた。
「院長先生が前にエーレに買ってくれたみたいな――あのブローチとか!」
その瞳は、揺れる川面よりも澄んでいて、未来への憧れを映したようにきらきらと輝いている。
「ジーラだって買ってもらったじゃない。白い花のブローチ」
「でも、エーレのは黄色い花でしょう? そっちのほうが華やかじゃない」
少し拗ねたように言うジーラに、エーレはくすりと笑った。
「私は白のほうが綺麗だと思うな。ジーラの長い髪によく似合ってるよ」
「……ふふ、ありがとう」
頬をわずかに緩めてから、ジーラはふと思い出したように続ける。
「そういえば、オルギーには赤い花の髪飾りをプレゼントしていたわよね。あれ、とっても羨ましかった」
「また来年、買ってきてくれるんじゃない? 何色がいいか、院長先生にリクエストしてみたらどう?」
一瞬きょとんとしたあと、ジーラの顔がぱっと明るくなる。
「うん! そうする!」
弾む声と一緒に、水面の泡がきらりと揺れた。
嬉しそうに声を弾ませていたジーラだったが、次の瞬間、手にしたズボンを見て「あっ」と小さく声を上げた。
「これ……またギアのズボンね。ほら、お尻のところ。完全に裂けちゃってる」
濡れた布を広げながら言うと、エーレは思わず苦笑をこぼす。
「ほんとだ……。あの子、どうして毎回こんなところを引っかけてくるんだろう。元気なのはいいけどね」
「枝とか岩とか、全力で突っ込んでいくんでしょうね」
そう言いながらも、ジーラの声には責める響きはまるでない。
「でも――」
ふっと表情を緩め、ジーラは少し照れたように続ける。
「夜、抱っこして寝ると……すごくあったかくて、可愛いのよ。ギア」
「わかる! あの子、毛並みがふっかふかだもんね。まるで弟みたいで」
「でしょ?」
二人は顔を見合わせて、くすくすと笑った。
「フフフッ」
川のせせらぎと水音に混じって、少女たちの笑い声が柔らかく弾む。
洗濯場には、何気ない日常の温もりが、静かに満ちていた。




