我儘
霞のように姿を消したラグ。
オーフィンの背にしがみつきながら退却を始めたエーレたちの前に――
およそ百名の兵士が立ちはだかった。
「うらああああああああ!」
オーフィンは叫ぶエーレを背負ったまま、壁を駆け、天井を駆け、
必死に兵士の包囲を抜けていく。
ようやく辿り着いたのは、少しだけ開けた大きなホールだった。
「アラクネだ!」
「女の子が捕まってるぞ!」
「モ、モンスターよ! 人食い蜘蛛が出たわ!」
「そんなの食べませんわよ! 失礼な!」
オーフィンの抗議は、混乱した兵士たちの耳には届かない。
街は完全にパニック状態だった。
無理もない。
アラクネ――
その名は、この国で最も恐れられる存在のひとつだ。
姿形の恐怖もある。
だが何より、過去の異種族大戦で王国を震え上がらせたのは――
アラクネの群れが行った“兵士の誘拐”だった。
巣を焼き払うために三国合同軍が編成され、
多くの犠牲を払ってようやく落としたアラクネの城。
そこには、毒で動けなくされた兵士たちが繭のように吊るされ、
果てしなく並んでいたという。
アラクネは本来、獲物を捕らえるとすぐには食べず、
毒で弱らせながら長く保存する習性がある。
――だが、オーフィンは違う。
彼女は人間の部分だけで食事を済ませることができる。
下半身の蜘蛛の分まで食べる必要があるため量は多いが、
人を襲う必要など一度もなかった。
それでも、兵士たちにはそんな事情は伝わらない。
「オーフィン、行こう! ここにいたら囲まれる!」
エーレの声に、オーフィンは鋭く頷いた。
アラクネの巣を攻め落とした兵士たちは、
あの時の“救いを求める声”を今も忘れられないという。
中には、その記憶に心を壊された者もいた。
ここに集まった兵士の中にも、
その話を聞いて育った者は多い。
だからこそ――
アラクネという存在は、彼らにとって災厄の象徴だった。
「くっ……もう少しなのに。この兵隊たち、しつこいですわね!」
オーフィンは硬質の脚で兵士たちを弾き飛ばしながら通路を駆け抜ける。
だが、どこまでも低い天井が続き、彼女の得意な立体移動は封じられていた。
「この際……えいっ!」
ドンッ!
鉄扉を蹴り破り、塔の階段を一気に駆け上がる。
「ここまで来れば……エーレ、あなたはその窓から逃げなさい」
オーフィンは小さな窓へエーレを押し出そうとする。
「嫌だよ! 一緒に帰ろうよ! どこか他に出られるところを探そう!」
「私の見た限り、入ってきた通路は兵士でいっぱいですわ。あなたを背負ったままでは突破できませんの。だから、ここであなたを逃がして――私が一人で切り抜けますわ。良い考えだと思いませんこと?」
ホッホッホと、いつものように笑うオーフィン。
「駄目だよ! ずっと一緒だって言ったじゃないか、オーフィン!」
「いつまでも駄々をこねていては駄目ですわ! 正直、足手まといなんですの!」
強い言葉とともに、オーフィンはエーレを窓の外へ押し出した。
だがエーレにはわかっていた。
その言葉が、全部自分を守るためのものだと。
「この糸を使って降りてくださらない? 裏手には兵士が回っていないようですし」
「オーフィン! オーフィン!!」
オーフィンはニヤリと笑う。
「わたくし、とってもワガママなんですの」
そう言って、窓を糸で塞いだ。
「今までお友達でいてくれてありがとう。生きて再会できたら……また二人で――」
その時。
「追い詰めたぞ、この蜘蛛女!」
「もう逃げられん! 弩兵、構え!」
「お行きなさい、エーレ! 私に恥をかかせるおつもりですの!!」
糸の向こうから、オーフィンの叫びが響く。
「狙えぇぇ! 撃て!!」
「させませんわ!」
オーフィンは糸を放ち、弩兵たちの視界を奪う。
混乱が広がり、怒号が飛び交う。
そんな中、見えないながらも発射された一本の矢がオーフィンの胸に突き刺さった。
鋭い号令が響き、空気が震えた。
次の瞬間、オーフィンの身体に衝撃が走る。
外骨格に守られていない人間の部分へ、何本もの矢が打ち込まれたのだ。
「どうやら……ここまで、みたいですわね……」
オーフィンは自分の身体に突き立った矢を、どこか他人事のように見つめた。
その耳に――
「オーフィン! オーフィン!!」
窓の外から、エーレの必死な叫びが届く。
「あなた……まだそんなところにいましたの!」
オーフィンは小さく息を吐いた。
その声は、いつもの気品ある調子のまま。
そして――
「逃げなさい!! エーレ!!!!」
塔全体が震えるほどの叫びだった。
あの小生意気なオーフィンからは想像もつかない、魂を振り絞った声。
エーレの身体がびくりと震える。
その声に背中を押されるように、エーレは塔を降り始めた。
オーフィンが渡してくれた糸は太く、長く、
混乱の中でも確実に逃げられるようにと工夫されていた。
「オーフィン……絶対に……絶対に戻ってくるから……!」
エーレは涙をこらえながら、必死に糸を伝って降りていく。
塔の上では、オーフィンがひとり――
最後までエーレの背中を見守っていた。
「ジーラ・・・オーフィン・・・」
二人から託された人魚の涙と一束の糸。
この二つを握りしめたエーレは馬に乗り、孤児院へ駆けた。
翌日。
町の噴水広場には、ひとつの“討伐された魔物”が晒されていた。
「まぁ……アラクネだなんて」
「まだ生き残りがいたのね……恐ろしいわ」
人々は距離を取りながら、怯えたように囁き合う。
そこに横たえられていたのは、
かつて愛らしく、少し生意気で、誰より仲間思いだった少女――
オーフィンの成れの果てだった。
その姿は、もう誰が見ても彼女だとはわからない。
戦いの痕跡に覆われ、
本来の表情も、面影すらも奪われていた。
最後まで抵抗するオーフィンに群がる兵士達によって切り取られた首はかつてギアやエーレを載せて走った背中にポンと乗せられていた。
王国警備隊は“討伐の証”として、しばらくの間この広場に晒しておくつもりらしい。
ただの“魔物”として。
ただの“脅威”として。
――彼女が、どれほど優しい心を持っていたかなど、
誰も知らないまま。
そして・・エーレは馬を走らせ・・孤児院に到着し・・・意識を失った。




