街の匂いと揺れる電車と - 函館・ベイエリアにて
ひとり旅の朝は、静かに始まる。
夜行列車を降り、函館の空気を吸って、メロンジュースの甘さで目を覚ましたそのあと――僕は街を歩き出した。
知らない景色、ゆっくり走る路面電車、港の風。
ただ、それだけなのに、心が少しずつ満たされていく。
これは、誰にも急かされずに過ごす旅の途中。
ゆれる電車と、赤レンガの倉庫と、潮の匂いの記憶。
北海道の時間に、身体ごと染まっていく物語です。
メロンジュースを飲み干したあとも、しばらく朝市の通りを歩き回っていた。
炭火の匂い、氷の音、カニを押す売り声――すべてが刺激的で、初めての場所なのに、どこか懐かしい気持ちにさせられる。
だけど、そろそろ“次”に行きたくなった。
旅って不思議だ。
ひとつの感動を味わったその直後に、もう次の場所を探してしまう。
足が自然と、次の物語を欲しがっている。
僕は路面電車――函館市電の乗り場を探し、緑とクリーム色の小さな電車に乗り込んだ。
「どっく前」行き。目指すは、ベイエリアだ。
ゴトン、ゴトンと小さな音を立てて、市電は街を抜けていく。
運転席のすぐ後ろに立ちながら、車窓の風景をぼんやり眺めた。
昭和がそのまま残っているような町並み、坂道、港へ向かってゆっくり流れる空気。
函館という街は、時間の流れ方が東京とまるで違う。
どこかゆるやかで、ほどよく古くて、すべてが“ちょうどいい”。
不便さがそのまま、味になっているようだった。
やがて「十字街」の電停で降りると、そこから少し歩いて、赤レンガ倉庫の並ぶベイエリアに着いた。
海の風が、冷たくて気持ちいい。朝の光に照らされた波が、ゆらゆらと反射している。
観光客の姿も少なく、まだ港は静かだった。
レンガの倉庫群の向こうに見えるのは、函館山。
その姿を見て、やっと北海道に“来た”という実感がじわじわと広がる。
「……すごいな」
思わず、ひとりごとが漏れた。
何が“すごい”のか、自分でもうまく説明できない。
でも、こうして誰にも邪魔されずに風景を眺めているだけで、胸の奥がふわっと広がるような気がした。
近くのベンチに腰を下ろし、リュックを置く。
ただ、それだけのことが、贅沢に思える。
旅とは、こういう時間のことを言うのかもしれない。
「どこへ行くか」よりも、「どんな気持ちで歩いているか」が大切だと、そんなことをふと思った。
遠くでフェリーの汽笛が鳴った。
僕はそれを合図のように、次の目的地を頭の中でぼんやり描きはじめていた。