風の港と、カメラの少女
夏の朝、潮風が吹き抜ける函館ベイエリア。
夜行列車で旅に出た高校生の「僕」は、静かな港で、ひとりの少女に出会う。
彼女はカメラを首から下げて、まるで風のように現れて、言葉少なに去っていった。
名前も知らない。もう会えないかもしれない。
でも確かに、あの瞬間、何かが心に触れた。
これは、旅先でふと交差した、青春の一瞬の物語。
静かなシャッター音とともに、記憶に焼きつく出会いの朝。
函館のベイエリアは、まだ朝の静けさをまとっていた。
潮の香りを含んだ風が、シャツのすき間をすり抜けていく。
赤レンガ倉庫の並ぶ広場のベンチに腰かけて、僕はただ、ぼんやりと海を眺めていた。
この旅で、いったい何を見つけたかったんだろう。
まだよくわからない。けれど、こうして遠くの海を見つめていると、何かが満たされていく気がする。
――カシャ。
小さなシャッター音に、僕は振り向いた。
倉庫の向こうから現れたのは、カメラを首から提げた女の子だった。
歳は、僕と同じくらいか少し上だろうか。
風に揺れる黒髪と、旅慣れたスニーカー。そして、その手にはフィルムカメラ。
「……撮っちゃった、ごめん。いい感じだったから」
彼女は、あっけらかんとした声でそう言った。
不思議と、嫌な感じはしなかった。
「あ、別に……全然、大丈夫です」
「うん、ありがと。港と朝の光と、ベンチで座ってる人って、絵になるからさ」
そう言って笑った彼女は、どこか海みたいだった。
よく見れば、リュックの脇には折りたたみの地図がはみ出している。旅人――僕と同じだ。
「一人旅?」
「うん。電車と徒歩。北海道は、空気がうまい」
僕はつい笑ってしまった。
「空気がうまい」なんて感想、今まで言ったこともなかった。でも、確かにそう思った。
「君も、旅?」
「うん。夜行で来て、函館に朝着いて……今は、風を吸ってるとこ」
「風、吸ってるって表現いいね。メロンジュースも飲んだ?」
「……飲んだ。美味かった」
ふたりでふふっと笑い合った。
会話はそれだけ。名前も聞いていないし、連絡先も交換しなかった。
彼女は、もう一度カメラを構えると、僕に背を向けて歩き出した。
ゆっくり、でも迷いのない足取り。
「じゃあね。いい旅を」
彼女は振り返らずに言った。
僕はその背中に、少しだけ声をかける勇気が出なかった。
でも、心の中でつぶやいた。
「……君も、いい旅を」
港の風がまた吹いた。
どこまでも、遠くまで。