夜の酒と話と
夏の夜、列車に揺られて北へ向かう。
まだ知らない景色と出会いたくて、少しだけ背伸びして乗り込んだ夜行列車。
誰もが眠る深夜の車内で、ふいに始まる、思いがけない酒盛り――。
これは、ひとりの高校生が“旅の中で出会った時間”を綴る、ほんの短い物語です。
静かな夜に、心が少し温かくなるような、そんな一話をどうぞ。
夜行列車は闇の中を、低く唸るような音を立てて進んでいた。
窓の外は、もう何も見えない。ただ、真っ黒な世界の中をぽつりぽつりと街灯のような光が流れていく。それが駅なのか町なのか、もう判断もつかない。
眠れそうで眠れない夜。
リクライニングを少し倒してみるけれど、身体の芯が落ち着かない。
こんな風に、夜の時間がゆっくりと過ぎていくのを感じるのは、何年ぶりだろう。
――カチャ。
隣のボックス席から、静かに缶のプルタブを開ける音がした。
ちらりと視線を向けると、初老の男性が一人、缶ビールを片手に、もう一本の缶をこちらに差し出していた。
「兄ちゃん、眠れんのかい? 一杯、いくか?」
一瞬、返事に迷った。でも、その声は思っていたよりも柔らかくて、酔っぱらい特有の強引さもなかった。
「……未成年なんで、飲めませんけど……」
そう言うと、男は「あー、そりゃそうか」と笑って、代わりにお茶のペットボトルを手渡してくれた。
「なら、茶盛りだな。夜行列車名物だ」
思わず笑ってしまった。
男は缶ビールをぐいと煽ってから、リュックから乾き物の袋をいくつか取り出した。するめ、柿の種、小さなチーズ。どれも旅慣れた雰囲気があった。
「どこまで行くんだ?」
「……函館まで。そこから、道南をまわって、札幌のほうへ」
「お、いいな。若いのに渋いルート選ぶなぁ。俺も昔、バイクでまわったよ。稚内の風がな、夏でも冷たくてな……」
そこから、男の話は止まらなかった。
昔の旅のこと、泊まったユースホステルの夕焼けの話、流氷の夜のこと、そして、もう亡くなった友人の話も。
僕は、黙って聞いていた。たぶん、話したかったんだと思う。
夜行列車の夜の時間に、こうやってぽつりぽつりと話す誰かが、たまに現れることを、男は知っていたのかもしれない。
「旅ってのはな、風景じゃなくて、時間の中にあるんだよ。夜、こうして誰かと話す、それも旅の一部さ」
その言葉が、やけに心に残った。
缶ビールの数が増えて、男のまぶたが重くなったころ、彼は「そろそろ寝るわ」と言って座席に横になった。
僕も、そっとお茶を飲み干して、座席を少し倒した。
列車はまだ、夜の闇を進んでいる。
遠くで聞こえる踏切の音と、列車の揺れ。
誰かの寝息、かすかな風の音。
僕はようやく、目を閉じる気持ちになった。
あの男の話の中に、自分の未来の一部があるような気がしていた。