ユースホステルの朝、壁一枚の距離で
薄い壁一枚を挟み、隣り合う部屋で迎えた朝。
まだ眠りの残る小さなユースホステルに、海の香りがそっと満ちていく。
距離はあるのに、心は確かに近くにあった。
言葉少なに交わした約束が、静かな旅路を温かく照らす。
――そんな、最果ての島での一夜の物語。
朝の光はまだ淡く、ユースホステルの小さな窓から差し込んでいた。
木の床に反射するやわらかな橙色の光が、部屋の隅々までゆっくりと広がっていく。
僕は自分の布団の中で目を覚ました。
窓の外にはまだ眠りの残る礼文島の小さな港町の景色。
遠くに波打つ海面が、朝の光を受けてきらきらと瞬いていた。
僕が泊まる男子相部屋は、決して広くはなかった。
壁には旅人の手書きの地図や、少し色褪せたポスターが貼られていて、共同生活の気配が感じられた。
隣の女子相部屋とは薄い木の壁一枚で仕切られているだけで、夜になると向こうの物音や話し声が小さく聞こえた。
昨日の夜、僕らはそれぞれの部屋に戻りながらも、廊下ですれ違うたびに軽く会釈を交わし、短い言葉で挨拶をした。
男女別の相部屋での距離感は、心地よい緊張感と照れくささを交えながら、少しずつ僕たちの距離を縮めていった。
壁の向こうの彼女の寝息は、僕の眠りを優しく見守っているかのようだった。
朝になると、彼女もまた布団から抜け出し、窓辺に立っているのだろう。
ゆっくりと布団から這い出て、僕は窓の外の空気を吸った。
潮の香りと草の緑の匂いが混じり合い、澄んだ空気が肺の奥まで染み渡る。
礼文島の朝は、静かで美しかった。
まだ薄暗い廊下をそっと歩き、共有スペースへ向かう。
木の床は少し冷たく、足音が響く。
灯りは柔らかく控えめで、他の宿泊客はまだ眠っているようだった。
ドアの向こう側に、彼女が立っているのを見つけた。
小さな窓から差し込む朝の光が彼女の横顔を優しく照らしていた。
彼女もこちらに気づき、ゆっくりと微笑みを返した。
「おはよう。今日は帰る日だね」
彼女の声はまだ眠気を帯びていて、それでも確かな温かさがあった。
僕は微笑み返しながら言った。
「おはよう。ゆっくりした朝だ」
僕たちはそれぞれの部屋に戻り、荷物をまとめ始める。
布団をたたみ、服を畳み、カバンにしまう。
声はほとんど交わさずとも、互いの存在を感じることができた。
身支度を終え、朝食のためにロビーで待ち合わせる。
小さなダイニングは、朝の陽射しに包まれ、まだ静けさが漂っている。
他の宿泊客のささやき声や食器の触れ合う音が優しく響いていた。
彼女は僕に笑いかけ、少しだけ話しかけた。
「またどこか行きたい場所ある?」
僕は考え込んでから答えた。
「まだ知らない自分を探しに、旅を続けたい」
彼女も笑顔で応えた。
「私も。写真を通じて、いろんな景色や人を見てみたい」
時間は静かに過ぎ、フェリーの出航時間が近づく。
僕らは外へ出て、朝の冷たい空気に触れた。
潮の匂いが一層鮮やかに鼻をくすぐる。
港へ続く細い道を二人で歩く。
歩く音だけが町の静けさに溶け込んでいた。
フェリーの甲板に立つと、揺れる波の音と潮風が心地よかった。
僕は彼女にそっと言った。
「また会おう」
彼女は優しく頷き、笑顔で答えた。
「約束だよ」
汽笛が港に響き渡り、フェリーはゆっくりと岸を離れ始めた。
離れていく島の風景が、僕たちの記憶の中にしっかりと刻まれていく。
心の中に確かに残ったあの夜の距離感が、これからの僕らの道を静かに照らし続けるだろう。