旅人は北を目指す
がらんとした駅のホームに、重たい空気と少し湿った夜風が吹いている。 深夜0時ちょうど。僕はひとり、ホームのベンチに腰掛け、リュックの中を何度も確かめた。財布、切符、スマホ、イヤホン、文庫本……全部ある。なのに心のどこかがそわそわして落ち着かない。
頭の中では、ずっと地図を広げている。まだ見ぬ北の大地。広がる原野、冷たい空気、どこまでも続くまっすぐな道。そして、そこにあるまだ知らない景色と出会い。 ――この夏、僕は北海道へ行く。一人で。
友達には驚かれた。「なんでまた、そんな遠くまで?」「誰かと行けばいいのに」と。 でも、なんとなく今回は一人で行きたかった。 今年の夏休みは、誰にも気を使わず、誰にも決められず、自分の足で、自分の目で、何かを確かめたかった。
やがて、ホームに列車の音が近づいてくる。金属が軋むような音が夜の静寂を割き、ヘッドライトがゆっくりとカーブの先から現れた。 僕の心臓が、小さく跳ねる。
青い車体の夜行列車――急行「はまなす」。
(※実際は廃止された列車だが、物語ではフィクションとして復活)
扉が開くと、車内は少し薄暗く、ほんのりと昔の匂いがした。指定された席に荷物を置き、窓側に座る。向かいの席には誰もいない。これが「自由」ってやつだ。
ゆっくりと列車が動き出す。ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン――。 街の灯が遠ざかり、夜の中へと走り出す。
窓の外には、黒い闇にぽつりぽつりと光が流れていく。 すべてが眠っているような夜の世界の中を、僕だけが静かに移動している。 この不思議な感覚が、たまらなく好きだった。
イヤホンからは、お気に入りのインスト曲。 本は開かず、ただ窓の外を見ていた。
「どんな景色が待ってるんだろうな」
そうつぶやいた自分の声が、やけに大人びて聞こえた。 もしかしたらこの旅が終わるころ、僕はほんの少しだけ違う自分になっているのかもしれない。
夜行列車は、静かに北へと走っていく。 新しい夏の物語が、音もなく始まっていた。