閑話:愛しいひととき
ベルベット・ハーナットという人間は毅然とした気質を持つ、明るく、笑った顔が輝かしく、また守る者のためであれば気高くあれる女だが、同時に誰よりも心に腐った膿を持つ女だ。
エルギスは彼女を観察する。
彼女に手ずから用意された、特段美味くもないし不味くもない、逆にどうしたらここまで絶妙な塩梅にどうとでもない味の茶を啜って、特に感想を言うことも出来ずに静かに器を机に置く。
凜とした、耳に心地よい声がエルギスの耳朶を打つ。
「いいから。はしゃぎすぎない、悪戯をしない、怪我をしないこと」
「わかった、わかったって!」
双子の逃げ遅れた方の弟、ギルバートの腕をつかんで説教しているのがベルベットだ。
「わかってたら修道士様を怪我させたりなんかしないでしょ。この間なんて、司祭様に怪我をさせかけたって聞いたんだからね」
「ないよ、ないない。そんなのなかったって、ただの誤解だよ!」
「嘘言え! ラウラにちゃんと聞いたんだから」
「げぇっあいつ漏らしたの!?」
「いま妹をあいつって言った!?」
子供達が学び舎として通う教会はベルベットにとっても古巣だと聞いたことがある。司祭は彼女にとっての恩人で、かつ年寄りだから転ばせでもしたら頭が上がらないはずで、だからこそ彼女はしつこく釘を刺しているのだろう。普段、朝の厩舎作業を終えたあとは、眠たそうにパンを囓っているのが常だから、こんな風に目をかっ開いているのは珍しい。
送迎はルーナに任せ小言ばかりの見送りを終えると、深い息を吐きながら席に着くベルベットは、そこでやっと、音もなく喉を鳴らしていた魔道士に気付く。
魔具作りでよく利用する、紫水晶を連想させる意志の強い瞳だ。
「なに?」
「姉は苦労するな」
「注意しなきゃ調子に乗るんだからしょうがないでしょうが」
「それにしてもよく繰り返す。僕がこの家にやっかいになってから、何回目だ?」
「あいつらが言うこと聞かないのが悪い」
苛立ち交じりに答えられるのは、端から見れば仲の悪さを窺わせるものであったが、どちらかといえば、エルギスの機嫌は上振れてご機嫌だ。宮廷でも滅多にお目に掛かることのできないにこやかな笑みは、若い女性が目にすれば頬を染めて凝視するか、それとも驚愕を顔に張りつけて声を失うかで九割だ。それほど珍しい現象でも日常として処理するベルベットは、不貞腐れたように肘をつき頬に手を当てる。
「ふん。お貴族様みたいな高等な教育、うちはできやしないのよ。今回は修道士様が怪我をしてるからラウラが懺悔してきたけど、黙ってる悪戯の方が多いんだから」
「意外だな、ラウラ嬢もか?」
「あの兄達に引き連れられて、なんで染まってないと思ってるわけ」
「泣くなよ」
「目にゴミが入ったの」
外では澄まし顔がデフォルトの彼女も、弟妹達が関わればたちまち百面相に早変わりだ。憎まれ口を叩くのは、ここ数日でいたずらっ子共への注意数が彼女の限界値を超えたためだ。双子も普段はもう少し大人しいので、久しぶりに子育てというものを振り返っているのだろう。
彼の想い人は、こんなときくらいは年相応だ。子育てがうまく出来ない自分を不甲斐ないやら感じるも、しかしどうしようもないまま涙目になる姿を「かわいい」と感じるエルギスは彼女を慰めることにする。
「あの年齢なら叱られたら嘘を吐いて誤魔化さないだけ、かわいいもんだ。貴族の子供なんて方便ばっかり思いついて、生意気言うのがほとんどだからな」
「なに、親は嘘つかれて何も思わないわけ?」
「子育てはまず家庭教師が引き受けるものだ。使用人はどうしようもなくなったときに報告して裁可を仰ぐが、基本は口を噤んで報告は慎むもんさ」
「は? 任されてるのになんで」
「主人に泣きつくってことは、自分が無能だから助けてくださいって言ってるもんだ。自分からクビになりに行く馬鹿はいないさ」
そして家庭教師や教育係の素行は家政婦長や執事が監督し、主人にそっと報告するのだ。相互監視が貴族の常だが、これにベルベットは微妙な反応だ。その理由は、次の質問ですぐに知れた。
「エルギスも?」
「母上のお気に入りのティーカップを割ったときだけは、どう足掻いても欺けないんで即刻報告されたよ」
「欺けたらどうしてんの」
「小遣いで買える範囲だったら同じ物を買って入れ替える」
「……やなガキ」
「ディヴィス侯爵みたいに真面目に子供に向き合う方もいるから安心しろよ。ま、親の役割分担ってやつだ」
エルギスの家が真っ当な部類でないだけだが、だからといってサンラニア貴族の基準から外れているとも言わない。身近な親ではデイヴィス侯爵や、実はスティーグの例を鑑みても国王夫妻が相当な子煩悩で、まっすぐに子供に向き合うだけ、エルギス的には珍しい存在だ。
役割分担と口にしたところで、はたと思い当たる。
「飴と鞭ってあるだろ。最近鞭ばっかだからしんどいんじゃないか」
「は? 叱りたくて叱ってると思ってる?」
「褒める以上のやらかしが多いのは事実だが、それでもあんたが叱ってばっかりだろ」
これに関してはベルベットも自覚があるようだが、彼女にも譲れない理由がある。
「わたしが怒らなきゃ誰があの子達を止めるっていうの。リノは勉強があるし、グロリアにはまだ荷が重い。ルーナに任せるのは酷。貴方だって注意は出来ても、余所の子供をとっ捕まえて怒鳴るまでは無理でしょうが」
「損ばっかりだ」
「司祭様やお友達の親御さんがいるだけまだマシ。あの人達がいなかったら、わたしはとっくにあの子達を怖がらせるほどに引っぱたいてる」
「……そんなに酷いのか?」
「あの双子がいままで何をやらかしてきたか、今度リノに聞いてみなさい」
過去に嫌な思い出があったらしく、ベルベットは上体を机に張りつかせるように倒れる。誰も見ていないのをいいことに、エルギスは彼女の髪に手を伸ばすのだが、流れるような髪を梳く手つきに、半眼で睨まれた。
「金払え」
「胃薬? 軟膏? それとも下痢止め? 熱冷まし?」
「現物支給で乗り切ろうとするな。軟膏」
「馬用だな。わかった」
人間用の薬箱はすでにエルギスの方が中身を熟知している。不足しているのは動物用だと知っていての台詞だ。
最初の頃はパサつきがちだったベルベットの髪は、洗髪剤はエルギスが、修復材や香油はグロリアが用意したおかげで更なる艶やかさを取り戻している。髪の手触りを楽しむようなエルギスに、ベルベットはもはや呆れたようだ。
「貴方、本当に趣味悪いわよね」
「ベルベットほどじゃない」
「わたしは普通」
「僕を見る目がないだけ節穴だ。ところで最近、この家に入り浸ってる僕のことを近所がなんて言ってるか知ってるか?」
「知らない。興味ないし」
一言付け加えてしまうのが彼女の甘さだろう。睫毛越しの瞳が濁ったのを知りながら、エルギスは含み笑いをこぼす。
「僕はあんたの愛人らしいぞ」
「そ」
知らないわけではないし、傷ついていないわけもない。子育てに積極的なベルベットは他の子供の親に会う機会があるだけに、陰口を叩かれる機会が多いのはリノから聞いている。
彼女はもう称賛ばかりを受けられる身ではないのだ。ただでさえ王城で妬みを浴びているだろうに、それを隠し、傷つく心を隠そうとする。
エルギスは自身の裡から溢れる、心からの微笑が隠せない。
彼女は近衛騎士入りした。
平民と言えるのは、もはや前の話だ。すでに今やときめくデイヴィス家や、宮廷魔道士たる自分の後ろ盾を得たようなものなのだから、もっと威張って『お前達とは格が違う』と見せつけても良い。もっと言ってしまえばこの一帯の主になっても構わないはずなのに、母が残した家庭の形に拘り、弟妹へ自分なりの『普通』教育を施そうとしている。
「…………いや、だから、なに?」
「なにって、なにがだ?」
「わたしを見る目が、なんか妙に慈愛に満ちて気持ち悪い」
「そうか。まあ、慣れてくれよ」
「絶対嫌」
欲望がないわけないだろうに、よくやる、と思う。
エルギスとて、しばらくこの家に住んだから、ハーナット家が周囲からどのように見られているかはすでに学んでいる。ベルベットと共に歩くときは、強い妬みを向けられていたのも学び、彼女があえて知らない振りを通そうとする目をしていたのを知っている。
エルギスへ軽口を叩くとき、ふとした拍子に貴族と平民の差を皮肉にしかけて、咄嗟に口を噤む瞬間を鮮やかなほど脳裏に焼き付けている。生まれから染みついた身分差という意識は忘れようとしても忘れられないが、彼女なりにエルギスや同僚へ対等であろうとする努力を、彼はひどくいじらしいと感じている。
繰り返すがベルベットは鋼の神経を持っていても、人並みの感性を持つ人間だ。嘲ってきた連中を見返して嘲って切り裂いてやりたい感情とてあるだろうに、どろどろに煮詰められた怨嗟は音にせず、見なかった振りで蓋をする。
それもひとえに弟妹の為なのだろうが、彼女の体裁に穴を空けたい気がして、エルギスは口を開く。
「貴族は好きか?」
「嫌いだけどなにか?」
「いや、だよな」
――その愛が枯れてしまわないように、と宮廷魔道士は想う。
彼女を支えているのは残念ながら自分ではない。ライバルであり彼女の妹である生意気な乙女を脳裏に浮かべれば、勝手にも二人きりの時間を邪魔された気がしてエルギスは足を組み直した。
「いじめて悪かった。我ながら最悪な出来心だ」
「いじめられた覚えはないから、そう言われてもね」
エルギスは掴んだ髪の一房を見て、ふと言った。
「そういえば、髪の手入れは面倒だと言ってたよな。なんでずっと伸ばしてるんだ?」
「冬は暖かいでしょ」
「夏までずっとそのままの必要はないよな」
信じないエルギスに、ベルベットは短い嘆息を吐く。
「母さんがかわいいって言ってくれたから」
「ふーん。あんたの母親の見る目は素晴らしいと思うけど……」
「……文句でも?」
「違うから睨むな。僕はどっちも似合うと思っただけさ」
出会った瞬間から一目惚れしていた相手と、距離を詰める作戦は着々と進行中だ。弟妹を抱き込み外堀を埋めようとする企みを知らないベルベットは悩ましげなため息を漏らす。
他の男達には譲れない、エルギスだけの大切な時間だった。
エルギスの一目惚れ話は1巻の書き下ろし特典でした。
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