2-44.わたしと貴女で手を取り合って
静かに息を吐きながら壁に背を預けるベルベットは、自らの胸に手を当てている。
――落ち着け、落ち着け。
繰り返しながら自分を鼓舞するのは、これからの時間に向けて心を平静に保つためだ。いつか国王から勲章を賜った日のように、この日のために練習に励んできた。
遠くから鳴り響く音楽を耳に、人気のない廊下で佇むベルベットに声をかけるのは――。
「姉さん、いつまでそうしてるつもりなの?」
「……そういっても、さぁ」
往生際の悪い姉に付き合って、両手に腰を当てながら憤慨するグロリアに、往生際の悪いままぼやく。
「だってわたし、本試合出る前に敗退したしー」
「んまぁ。あれだけ目立つことをやっておきながら、敗退なんて気にする必要ないでしょ」
呆れるグロリアは淡い青色のドレスを着こなしている。髪には桃色の花飾りを挿した彼女は、紅を纏っていた姿とはまるで違う雰囲気で、そんな乙女が励ますのが、普段より二割増しで騎士服を着こなすベルベットである。
諦めの悪い姉に、妹は言いきかせる。
「今日は御前試合を頑張った皆さんを労って陛下が開いてくださったパーティなんだから、出ちゃダメなんて理由はないのよ。むしろ出られなかった皆さんのためにも、目一杯楽しむ義務があるの」
「こんなに大規模だったら出なかったのに……」
「セノフォンテさんの言うことを真に受けるからいけないのよ。あの方、いかにも悪そうなお人なのに、姉さんったら素直に信じちゃうんだから」
「くっそ……」
ベルベットが悪態を吐くのは、まさにセノフォンテに騙されたせいだ。
御前試合が無事終わりを迎えると、王が御前試合に励んだ配下達を労うためのパーティを開いた。ベルベットは身内だけの小さな催しと聞いたから参加を決めたのに、いざ当日になればどうだ。参列者こそ国内に留まっているが、第二王子のささやかな誕生祝いと同等規模の、大ホールを使ってのお祝いだ。いまも会場では続々とサンラニアの勇士達が集まり談話している。
上官や同僚にすら情報を遮断されていたベルベットの腕をグロリアが引っ張る。
「ほら、せっかく練習したんだから行きましょう」
「……グロリアもわざと黙ってたよね」
「当たり前でしょ。せっかく姉さんと踊れるチャンスを逃してたまるものですか」
こうなっては仕方なく諦めてホールへ向かって歩き出したが、妹への愚痴は止まらない。
「貴女が熱心に色々教えてくれる時点で疑うべきだった」
「ふふふ。なんだかんだで姉さんが勉強熱心な人でよかったわ」
今日は勲章授与式のような付け焼き刃ではない。礼儀作法はしっかりと体にたたき込んでいた方が良いということでグロリアやエルギスに様々教わった。
男女のパートナーが互いを支え合うように腕を組み、並び歩く姉妹は、人の姿が増えるにつれて注目を浴びて行く。会場が近くなるとその目立ち様は顕著で、グロリアの青い衣装は人々の驚きと称賛を攫った。
見渡す限りの人、人、人――。
ベルベットは平民の自分がここに立っているのが間違いなような錯覚を覚えたが……妹の手前、現実逃避は出来ない。軍靴の踵をしっかりと大理石の床に付けた。
人々の感嘆を誘う理由はグロリアだろう。彼女が赤以外を纏うから、驚愕もひとしおなのかもしれない。
ベルベットはこっそりと問うた。
「……本当に侯爵の許可を取ってるんでしょうね」
「当たり前よ。姉さんの知名度も上がっちゃったし、ここで公にしといた方が痛手は少ないわって説得したら、涙を拭って喜びながら許可してくれたわ」
「それって脅しって言わない?」
そんな会話をする間に、二人の足は王城に併設されているホールへ侵入している。楽団が演奏する音楽は騒がしいくらいだが、社交界になれた人達は気にならないらしい。
男装の麗人を装うベルベットはすでに余所行きの貌で悠然と笑んでいるが、そんな彼女にグロリアはいたずらっぽく笑う。
「姉さんが緊張してる姿なんて初めてかも」
「グロリア。お姉ちゃんはこんなところに出るのは初めてだってこと忘れないでね」
「はぁい」
グロリアだけでも目立つというのに、そこに男装の女が組み合わさるとなれば嫌でも注目を浴びる。ベルベットは自分の顔の良さも相まって、奥に見える上官以上の注目を浴びていることを自覚せざるを得ない。
――まあ、うちの妹が可憐すぎるのがもっといけないんだけど!
内心でグロリアを称賛しながら、目の合った夫人に意図なく微笑みかける。自分よりも十以上は年上の女性が頬を赤らめ、口元を扇子で隠す姿には、この顔に産んでくれた母ミシェルに感謝するばかりだ。
会場入りしてしまった以上、気の緩んだ姿は晒せない。近衛隊という仮面を被り演じるベルベットが真っ先に向かったのは上官だ。
右腕であるコルラードを伴うギディオンへにこやかに歩み寄ると、周りに声が聞こえないくらいの距離を保っているのをいいことに、笑顔のまま低い声を出す。
「恨みますからね隊長」
「開口一番がそれか」
「それ以外になにがあると」
「文句ならセノに言え。俺は知らん」
ギディオンは貴族だけあって人前に立つことに慣れているが、様子がおかしいのはコルラードだ。
「ぐ、グロリア……殿」
「あら、そんな他人行儀な呼び方なんて結構ですよ、コルラード様」
緊張に唾を呑む少年は明らかに緊張している。ベルベットの隣を堂々と占拠しているとあってか、柔らかい微笑を浮かべるグロリアにコルラードの視線は釘付けになっている。
ばればれじゃない? と、ベルベットは思うのだが、肝心のグロリアは気付いていない。演技ではなく本当にわかっていない様子だ。
「姉がお世話になっているんですもの、どうぞ呼び捨てでお呼びになって?」
「え、あ、いや、しかし自分は……」
「試合のことでしたら気になさらないで。あれは不幸な事故ですから……そうですよね、姉さん」
「……そうだね」
そのとき、グロリアがベルベットに向けた笑顔といったら強烈で、会場中がざわめいたと感じたのは姉の贔屓目だろうか。
これまでの“玲瓏なる一輪の華”の評判を覆すほどの笑みは、コルラードのみならず周囲の男性を魅了し尽くす勢いだ。ベルベットは無邪気に振りまかれる乙女の笑みがここまで凶悪なものだったとは知らず、その威力の強大さに、妹に変な虫が付かないか心配になってくる。
姉の不安に気付かないグロリアは、にこやかにコルラードへ語りかけた。
「コルラード様のことは、いつも姉から話を伺ってるんです。だから他人の気がしなくって、勝手に親しみを覚えてしまっているんですよ」
「そ、そうでしたか。自分のことを……」
「ええ、それに年も近いし、せっかくですから仲良くしていただきたいの」
「それならば、自分のこともどうぞ名前で」
「あら、よろしいの? そんなこと言われたら、私は遠慮しませんけど」
微笑ましい少年少女の会話は、大人組は見守るだけだ。ただ、コルラードの奥手っぷりを、ギディオンは焦れている様子が見て取れる。
保護者はここにも居たらしいと奇妙な親近感を覚えていると、そのギディオンの視線がベルベットの背後に流れる。
上官の表情が一変したのに合わせ気を引き締めると、ねっとりと纏わり付くような声がかかった。
「やあやあやあ、よろしくやっているようだね」
それまで談笑していたグロリアやコルラードもスッと表情を変える。
一同……というより、ギディオンに声をかけたのは、赤紫を基調とした、金糸が縫われたローブの裙を引く中年男性だ。その格好はベルベットもよく知る魔道士と似ているが、こちらはあの青年よりも派手で、いちいち歩くのも動きにくそうである。にやけた自信満々の笑みは成功を誇示するようで華やかだが、まるで成金のような風情もあった。
その人物の名前と顔が一致しないでいると、ギディオンが答えをくれた。
「フィリオン殿、お元気そうでなによりだ」
「やあギディオン、お前様と会うのも久しぶりな気がするけど、宴は楽しめているかい」
グラス入りの酒をゆっくりと振る男の正体は、以前、エルギスが名を挙げた宮廷魔道士だった。
エピローグ突入です。




