ペントバルビタール
私の友人が基礎を作り、私が補完した作品になります。拙い作品ではございますが、ぜひ御一読ください。
妬み、嫉み、僻み、悲しみ、怒り。
凡そこれらの感情をヒトは負の感情と呼んだ。負とは文字通りマイナスという意味であり……。
「──!──っ!」
雑音。壊れたスピーカーか、それとも砂嵐か。深夜帯、テレビを何の気なしにつけた時の放送終了の合図だったと思ったが、最近は余計耳に障るあまりに機械的な電子音が一つ。テレビのリモコンに目を凝らせば、アナログのボタンを見つける。それに触れると随分と耳に馴染んだあの砂嵐が。
──ザーザー、ザーザー。
それは私の心に巣食っていたものをいとも容易く埋めて、私の心は漣の寄せる真夏の波打ち際の如くもうそれはそれは、いつか見た澄んだ美しい空色に塗り潰されていた。
「──、…………すみ……」
安堵した吐息、ほんの僅かに聞こえた声。
それが誰のものであったかなど、仄暗い脳には考えられる余裕さえなかったのだ。
「おはようございます。ああ、朝ご飯なら其処にありますよ?今日は私が腕を振るってみたんです!是非、あなたに食べて欲しいと思いまして」
意識が浮上する、暗闇から白い空間へ。
嗚呼、そうだった。ここはとてもじゃないが常人には住めたもんじゃない。気味の悪いくらい豪華な純白の内装。
さっぱりというものの真逆、凡そ大多数の人間には有り余るような白い部屋。その無駄さ加減は、無駄のバーゲンセールかと錯覚するほどだ。
その中のベッドの上、ご丁寧に用意された白い天蓋を視界の中心で捉えた。それが今日の私の、無駄にまみれた目覚めであった。
「要らない。……要らないと言っているだろ?」
さらに彼女は、私に資源を無駄に浪費しろとのたまう。まったく、要らないと何度言えば諦めるのだろうか。
「食べてください。食事は生物を生物たらしめる、生きる為の行為ですよ?」
「だからこそ要らないんだ。生きる必要のないものにとっての食事は資源の無駄遣いでしかない」
そういうと、彼女は肩を落としてこう返してきた。
「はぁ……。また、自分のことを軽々しく"生きる必要のないもの"などと抜かして。……何度も言っているでしょう?あなたは其処に居るだけでいい、と」
「動く気のない"もの"には必要ないだろ?そもそも、数日程前までは首筋を蜘蛛が這いずっていた私だ。鼠やゴキブリと共に荒屋で過ごす方が性に合っている」
そもそも、私がここにいることが間違いだ。私の代わりに誰かがここにいた方が、世界の幸福度はいささかマシになるだろう。少なくとも、私の幸福度が大きく上がる気配は今のところ、無い。
「もしそうだとしても、ですよ!それでも私が困るんですから。私の幸福度のために、そこにいてくれると助かります」
彼女がなんと言おうと、それが真実なのかどうかは分からない。そして、それもどうでもいい。私は彼女を受け入れる勇気もなければ、ここから動く気力もないのだから。
「……部屋の冷蔵庫に、ペットボトルの水と適当なジュースを入れておきました。確かあれはあなたの好きな物だったと思います。もし、気が向いた時にでも飲んでくださると、それらが無駄じゃなくなるので助かりますね」
「……ありがとう」
「ふふっ。礼を言えるのだから、マシになったと思っておくべきですかね?」
何かを決める勇気も気力もない私には、ただ流されることしか出来ない。
「……今日の昼にはデパスが無くなる。どうか、補充しておいて欲しい」
「……承知しました。飲み過ぎは如何なる薬であれ毒になります。ゆめゆめ忘れないようにお願いしますよ」
そして、そうである以上、私は彼女に頼るほか無い。それがどんなに無駄なことであろうと、私は楽な道を選ばずにはいられない卑しい人間なのだから。
「……ああ」
足音は遠ざかる。
重たい体を動かすこともせず重力に従うままの私は、シミひとつない天井をじっと眺めていた。そうして目を閉じる。
──如何して、如何して。何故何故何故何故何故。何故お前は、お前だけが、救われるのか。お前だけが如何して許される。否、否いなイナ否。おまえだけはゆるさない。
……そうだ、許されていいはずがない。
昏いなにかが私を焦がし蝕み、白く染まった。目を開けるだけでその暗闇は容易く露散する。アレはこのことを見越してこの部屋を白一色で統一したのだろうか。額にじっとりとした汗が伝った。
怠惰そのものといえる生活、何もしないでも唯生きていれば許される。衣食住何でも与えられ望めばほとんどのものが手に入る。貴族の家に生まれた我儘な子供にでもなった気分だった。
だのに、いや、だからこそ。暗闇は私のかつて在った場所の様に、私を其処へ連れ戻さんと、躍起になって襲いかかってくる。
彼処で私は朽ち果てていれば良かったのに。
朝も昼も夜もなく、高く積み上がったゴミ山で窓からの明かりは遮られ、光熱費なんて払えたものでは無いから人工的な明かりもなく。蝿も集らないゴミ貯めの中心、私は缶やら何やらと共寝していた。それで良かった。
私には、これだけの幸せを享受する資格など、ある筈もなかったのだから。
ある日は他人を妬み、ある日は他人を羨んだ。幼い頃の私には何らかの憧れがあって、多分、夢があった。小説家になりたいなどと声高に、されど夢を持って幸せそうにしていたあの私は輝かしかったと言える。それは今でも変わらぬことだ。
ヒトは存外簡単に挫折する。ポッキリと折れる脆い存在だ。私は文章を書いたし、その時既に夢が叶っていたといえばそうだった。極僅かな一時だけれど、ソレで生計を立てられたこともあったのだ。
それから幾年が経って、多分私は世間から忘れられた。あれだけ持て囃した人はすぐさま別のものに興味津々。私など視界にはなかったように回れ右して走っていく。それに私は置いて行かれ、裏切られた。
否、裏切ったのは私が先か。彼らの期待に私は応えられなかった。彼らを裏切った。だから、私はあの様になったのだと。
分かっているつもりだ、小説も漫画も何もかも所詮は娯楽。それらは消費されていくもので、いつかは忘れ去られ色褪せていくものだと。
それでも、その儚いものに夢を託し人生のある程度を捧げたコドモは、社会という絶対的なものにこき下ろされて、見るも無惨なボロ雑巾へと成り下がったのだ。
新聞も小説も。文字を読むのが好きだった筈の私は、いつしか魔物に取り憑かれてしまった様だった。好きだった活字は黒いだけの有象無象、例えばゴキブリの大軍にさえ見えてしまう様になったらしかった。
その時に確か、文字を見て初めて吐き気を催した。頭の中がぐわんぐわんと嫌な音を立てて反響し、耳の中の音が遠くなって、吐いて倒れた。漫画家や雑誌のライターの様に連載を持っている訳でもなく、助けになるものなど、何一つとしてなかった。
当然、直ぐに金は底をついた。この道を選んだ私を良く思わなかった家族とは実質的な絶縁状態。恋人なんてものは当然居らず。
スランプ時に友人の頼みで書きあげたつまらないオーダーメイドみたいな物よりもつまらない作品のなり損ないたち。私は、書けない書けないの無限ループに陥っていた。確かにオーダーメイドにしては内容がお粗末だと思ったが、昔から文才なんてと言っている様な奴だった。そうなると、お互い心の何処かでは思っていた。それでもその時は確かに楽しかったのだ。
私が求めていたものはなんだったのだろうか。でもあの時は、きっとくだらなくても、話し合い、積み重ね、作り上げていくことが楽しかったのだと思う。
私という作家が壊れたのは、まぁよくある話だった。求められていたものがつかみきれず、書ききれない。そういうのが重なって、気がついたらダメになっていた。話し合って、作っていくことを楽しめない。
「アナタらしくない作風で、でも、悪くはないかなって思うんだけど……。次は王道モノとか、書いてみない?」
──文句があるならちゃんと言ったらどうなんだ、私達の求めていたあなたのソレとは違うものに価値なんてないのだと。スランプなんてどうせそんなものなのだから。
「今度のは随分と王道なものを書かれたんだ。うん、これならば世間から評判もきっと良いしもっと頑張ってね。次は是非とも君らしい作品なんて、どうかな」
──なんだよそれ、私にはその「王道」とやらなど求めていないと言いたいのか。それなら王道を書いたらと言っていたあれは何だったんだよ。
スランプ、解釈違い、理解のないクライアント。そういう違和感の積み重ねと被害妄想で、ストレスは溜まっていた。その自覚はあったが、その日は私からしたら唐突に訪れた。
その日、目が覚めたら、病院にいた。パソコンの前に座ったまま気絶していたところを、偶然訪れた編集者に助けられ、救急搬送されたらしい。それでも、指と頭があれば小説は書ける、とばかりに、仕事は無くならなかった。いや、体調を崩して遅れた分、それはさらに密度を持ってぶつかってくる。だが、私の体は拒否反応を示していた。
そこからの展開はあっという間だ。
「……病状が悪化してしまって、もうパソコンの前にも座れないんです」
──次の作品もうちで出したいって言ってたけどその調子じゃ無理そうだ。出版もできない。
「すみません」
──出版後にはちょっとしたイベントを予定して進めてたんだけれどねぇ、イベントができないなら、うち的にはちょーっと厳しいかなー。
「ごめんなさい、文字を見るだけで吐き気がしてしまって……」
──非常に残念だ、久しぶりに売れる作家が出て私達も嬉しかったんだけれどね。
「申し訳ございません」
──ウチのお抱えの作家さんが売れるとウチ自体評判が良くなったから、もうちょっとぐらいは頑張って欲しかったんだけどなぁ。
「……もう、無理です」
よくお世話になっていた出版社に約束していた原稿を渡せないと伝えるために、体を引きずっていった。その帰りのコンビニで缶の酒を適当に買った。
慣れないバイトをして、体を壊してまで稼いだ生活費のほとんどを酒に費やした。朝日が昇る頃には数本の缶が空になったまま放置されていて、なんなら部屋にはゴミばかりが転がっていた。
栄養失調にアルコール依存症、それ以外に色々何もかんも。あっという間の転落人生だった。睡眠障害な中、辛うじて有り金叩いて手にした睡眠薬を噛み砕いて、死んだように眠る日々。
いっそ過剰服薬すれば、もうこんなことをする必要も無いとも思った。それでも、その勇気さえ私は持っていなかった。
そうして私は、小説を書けなくなった。
ふと視界に、最近見ない日の無い顔が入ってきた。
「……考え事ですか?」
「ふっ、……そうだったらよかったんだがな」
最悪な過去だ。私がこれまで歩んできた現実を、また突き付けられる。何度も何度も。何度も何度も何度も何度も何度も。睡眠薬で無理やり深く眠っても、どうしてもそれは私の前に現れる。
「また、悪い夢を見たんですね。起きてくれてよかった」
「夢なわけがあるか」
あれは現実だ。私という人間の現実。私という愚か者の象徴。
「夢ですよ夢、夢ですとも!あなたが今生きているこの現実こそがたった一つの事実ですよ?この私が保証します」
そうニッコリ笑う彼女は、なんの対価も求めず私に与え続けている。
「ただ与えてくるだけの存在に保証されても怖いだけだ!」
怖い。怖い。分からない。前からそう。最初からそうだった。なぜ一方的に与えてくる。臓器をよこせと言われた方がまだ安心できるくらいだ。
「私のどこが怖いんですか?私があなたに生きていて欲しいと願おうと、それは私の勝手です。つまり、あなたを生かすためだけに、私の全財産を注ぎ込んだって、私の勝手でしょう!」
「そういうところだ!そういうところが怖い!私は以前からそう言っている筈だが!?」
「あ、そういえば。そろそろ昼ご飯の時間ですが、食べませんか?」
露骨に話題をそらされた。いつもそうだ。彼女は絶対にワケを話さない。だから怖い。
それでも、寝て、起きて、眠気も引いて。そんな体は、長らくとっていなかったエネルギーを確かに求めていた。
「……確かに、腹が減っている気がする」
いつものように要らない、というつもりだったのに、口からこぼれたのはこんな言葉だった。
「それは、僥倖ですね。腹が減るということは正常な生体反応が戻ってきているということですから。だって、あの生活をしてた時のあなた、お腹なんて空かなかったんでしょう?あなたの体が元通りになりつつあるということですね♪」
「……私は。まぁ、元からダメ人間だったけれど。このままでは更にダメ人間になってしまう気がする。やはり私を放っておく、という選択肢はないのか?」
彼女は、私を甘やかす。石ころになろうとしていた私を、無理やり人に戻して、人様に迷惑をかけるダメ人間に変えてしまう。……それが、たまらなく怖い。
「それは無理です。出来ません。だって私は……」
さっきはこちらの追求をはぐらかしていたのに。何故か、彼女が理由を話そうとしている、とわかった。それと同時に、とてつもなく嫌な予感がする。ずっと気になっていたはずなのに、いざ話されるとなると怖くなった。そもそも唐突すぎる。心の準備くらいさせてくれ。やめろ、やめてくれ。それ以上聞きたくない。わたしはそれを聞いてはいけない。
それでも私は、自分の耳を塞ぐことも、彼女の口を閉ざさせることも出来なかった。
「ふふっ。そう、私はあなたの作品が好きなんです。私自身さえ届かなかった所をあなたの作品だけが掻いて、爪痕を残してくれた。そう、あなただけですよ。他の誰かではダメだったんです。そんな他でもないあなたが死んでしまいそうだなんて、私にはとても耐え難いことなんですって」
ダメですか?と。そう拗ねたような声で告げたかと思うと、私は不意に抱きしめられていた。
彼女があまりにも幸せそうだったのが、私には分からなくて。幸せそうにそいつは泣いていた。
「分からない、分からない分からない分からないっ!私には分からない、なんで私なんだ!?私でなくても他にもっと……!」
「言ったでしょう?あなたの作品は私の痒い所だけを、手の届かないところを、知る由もない其処を引っ掻いて、掴んで離さないんだから。ねぇ、書けとは言いません。生きていて……、それで幸せになってくれませんか?」
わからない。如何して。どうして。
彼女は困惑する私を、名残惜しそうに引き離してから、いつもの調子でこう告げた。
「さて!昼ご飯の用意もそろそろ終わってるでしょう。行きましょうか。」
何だか頭が働かなくなって視線が揺蕩っていたところ、急激に相手の顔が近づいた。
「あ、そうそう。寝巻きぐらい、ちゃんと着たらどうですか?」
「うっ……」
その瞬間に鼓動が跳ね上がり、身体中に鳥肌が立って、思わず後退りしてしまった。
「……ぁ、あ、うっ、い……や」
「……もしかして、ボディータッチとかダメ、とかでしたか?」
そう問われて先程の抱擁を思い出し、また寒気と、全身に鳥肌がたつのを感じた。
「ボディータッチも過干渉も全部ダメ!っていうか私の顔にお前の顔を近付けるな!!」
「あらら、いつにも増して警戒心強めで……。大丈夫、"先生"への思いはそんな安っぽい愛なんて物ではありません。取って食うつもりもありませんから」
彼女はそう言いながら、クッソ爽やかな笑みを浮かべる。
信用ならない。信じてはいけない。
信じるものは、騙される。この世はそういう物だと思って生きていかないから、損をする。
私はもう、惨めな思いをしたくない。
「じゃあ、なんだって言うんだ?」
「ええっと、なんと言いますか……。愛、と言うより信仰でしょうかね。私にはないものを持っている存在、とでも言いましょうか。文章の模倣なんて特徴を捉えてしまえば簡単なのに、あなたは。そう、あなたの世界は、私では再現出来なかった」
なるほど信仰……ってちょっと待て。その後。今、彼女はなんと言ったか。
「……再現?」
「ええ。漫画でも小説でもなんでもいい、言葉遣いやキャラクターの作り方等々、その人自身の考え方も含めて、作品にはその人そのものが現れるでしょう?」
「あ、あぁ」
だからこそ、作品には人を動かす何かがある。
「それを完璧に吸収してしまうことが出来たなら、他人の作品の再現など簡単であると言っていい。そうは思いませんか?漫画では絵柄の模倣なども必要ですけど、小説なら文体だけでいいですし」
「は?いや、そんなこと出来るわけ……」
脳の処理速度がただでさえ下がっているというのに、平生でも理解し得ない様なことをのたまって尚、私の心境には目もくれず"ソレ"は話を続けた。
「ええ、勿論その人の文章を研究する必要はあるでしょう。それにはある主独特な技術が求められますが、その才能は幸い持っていたようですし。言ってしまえば私は如何なる人の文章であれ再現が出来ると自負しているんです。言い換えれば私は書けないジャンルなどないと思っている、ということですね。まぁ、まだ無いジャンルなどは難しいですけど。それに、あなたの作品だけは、いつまでも書けないまま。初めて読んだ時は驚きました」
そう告げながら、"ソレ"は少し悔しそうに目を伏せていた。
今言っていたことを理解出来ないのはきっと私だけなどではなかった筈だし、それでも私は、この不本意な同居生活で、彼女をある程度は理解した……つもりだった。
理解など、毛頭出来る筈もなかった。何故ならばコレは、目の前のこのヒトの姿をした何らかは、あまりにも理解が及ばない。きっとヒトを誑かす妖の類だ。そうでなければ私は、いや、作家と呼ばれる、そしてそれを目指す全ての人々は……。
あぁ、なるほど。彼女はそう、あれだ。天才というやつだ。
「……それは、偶然だ。私のものなど一般にありふれた普通のに過ぎないんだから」
思考がようやくまとまってきて、話を少なくとも表面上は把握して。そうして至った結論は、やはりただの偶然というものだった。
「いいえ、自覚してください。あなたこそが、天才なんですよ。私など足元にさえ及ばない、それがあなたなんだ」
私には分からなかった。心の内には確かに燻る感情があった筈なのに。彼女が許せない程の激情に駆られたことがあった筈なのに。何故。
妬み、嫉み、僻み、悲しみ、怒り。ソレが何かすら私にはもう分からない。
「ははっ、冗談はやめてくれ。足元にさえ及ばないってそんな訳がないだろ?あなたの本が何冊売れどのぐらいの人に買われたのかを数え直すのをおすすめしよう。あなたは天才だ。世界でもトップクラスの作家。そのことをもっと自覚したらどうだ?」
表情筋が引き攣るのが嫌という程にわかる。自分でも不思議なぐらい言葉がつらつらと口をついて出た。こんな口が利ける程度には健康体になりつつあるのだろうか。
少なくとも確かなことはひとつ。彼女の口から私を褒める言葉が出てくると、私は正常な判断が出来なくなる、ということだけ。だから、私は否定しなければならない。
「その百分の一どころか、千分の一にすら満たない作家が天才な筈がない。だから……」
「だから、なんです?これは、ただ私がしたいからしてるだけのことなんです。私があなたの作品をひとつも模倣できなかったのは事実。だから私はあなたを信仰している。それも紛れもない事実です。それとも私は、あなたにペントバルビタールでも買ってやればよろしいと?」
「っ、随分と酷なことを言うな」
死にたい死にたいとは言っているが、いざその選択肢を突きつけられたら私は困ること間違いなしだろう。それは割と困る。いや困るんだから困るのは当たり前なんだがダメだ思考が馬鹿になってる。
「絶っ対に買いませんそんなもの。睡眠薬全般駄目です。自然に寝られるということが一番、睡眠薬の服用は禁止、まして過剰服薬で死のうだなんて以ての外です」
「いや、睡眠薬禁止は困る。私は不眠症だ」
そんな私のツッコミ……ツッコミ?をスルーして、彼女はさらに捲し立てた。
「あの時、憔悴しきったあなたを見て思ったんです、間に合ってよかったと。そうしてこうも思いました、死なせてなるものか、と。神様がいるとすれば、神様は才能のある人間を手元に置いておきたくて、早く空へ連れて行くなんて言うでしょう?でも、あなたの作ったものを、神様はどうせ楽しんでくれません。いやまあ、会ったことないんで知りませんけど。あなたの作ったものを楽しんでくれるのは、この地上に生きている人間なんです。だから、天国なんて所にはまだ、絶対に連れて行かせません」
まるで反論を許さないと言う様に、早口で思いの丈を語られた。彼女がここまで感情を見せたのは初めてか否か。おそらく初めてなのだろうが、今の私の頭はそんなことを考える余裕などはなかった。
彼女はふぅ、と一息を着くと、また元の調子で笑いながら冗談交じりにこう告げた、
「なんて、カッコつけが過ぎましたね。本音を言ってしまうと、生きている人間っていうか私が楽しみたいんです。その可能性を消すなんて絶ッ対嫌ですからね!」
そう子供っぽく笑う彼女は、完璧超人のようないつもの姿と比較して、無駄に愛嬌があった。
「……、嘘だろ?」
「丸ごと全部事実ですよ」
胸を張って答えるな。
「じゃあ、大分誇張したりとか……」
「保証は出来ませんが本人の感覚では等身大の思いなので、誇張はしてない筈です!」
ドヤ顔をするな。
「……はぁ、反論の余地も残す気も無いわけか?」
「だって、反論をさせると時間もかかるのに、そのくせ口が減らないのだから、黙らせる手段なんてそれぐらいしかないんじゃないです?」
確かにそう言われてしまっては、口を噤むしかない。
これまでの会話を思い返して、ふと頬が緩みかけた、その時。
私はとてつもない悪寒と、吐き気と、目眩に襲われた。
「……どうかしましたか?大丈夫で……」
「……っ、やめ……ろ、っ来るな!」
幻覚でも見ているのだろうか。目の前の"ソレ"が、ヒトに擬態している強大な化け物の形を取る。ニヤリと口元が歪むのが見えた。そうして私は、その怪物を前にして震えるだけの哀れな子羊の様に、指一本ですら動かせず怯えていた。
「……クスリとなやっちゃったんじゃないでしょうね。……いや、流石にそれだったらもっと早くから出てるし、私が気づかないはずがない。疲労とかでしょうかね。うーん。大丈夫ですか?私が分かりますか?」
目の前の怪物から声がする。とても優しい声で私を包み込む様な……。
「っ!……ぁ、ああ、私……また」
意識が覚醒して、怪物に見えていたものは元の人間の姿を取り戻した。それでも、体の震えは収まらず、彼女の顔をしっかりと見ることが出来なかった。
「あぁ、良かった。戻ってきてくれて嬉しいです。あのまま怯えられてたら、ちょっと面倒でしたから……。よくあるんですか?余程強い、心因性のストレスによるものだとは思うんですけど」
「……私は、追われているんだ。劣等感か、それとも別の何かか。私の中の何かが、人の形をして、付き纏ってくる。だから言っているんだ。私はもうただ生きているだけで疲れてしまって」
「ダメですよ?耐え難いぐらいなんだろうってことがわかったとして、それで死なれちゃ困るからあらゆる手を尽くしているんです。言ったでしょう、これは私の自己満足みたいなもの。あなたが死ななければいいんです」
「……あなたは、本当に酷いことを言う。分からないからそう言っていられるんだ。好きだったものを目に入れるだけで吐き気を催して、当然仕事だって出来ない、尚更世間の期待に応えることが出来ないまま、見捨てられ忘れられて、野垂れ死ぬ一歩手前の生活だ。そんな経験あなたにはないだろ?あぁ、そうだとも。勝ち組には分からないでしょうよ。私には何もないのだと突き付けられる気持ちも、死にたい程の苦しい生活も、何もかも分からない癖に!」
死にたいという願望を抱えながらも、結局の所我が身可愛さに自殺という手段を選べないこの半端者の気持ちが!行き場の無い衝動を抱えて懊悩することしか出来ないこの心情が!幸福な日々を送っている最中の彼女に、理解出来て良い筈がない!だというのに、なぜこんなに……。
「確かに、分かりませんけど」
彼女はキョトン、となんでもないような顔をして、それから話を続けた。
「簡単に死ねる様じゃ、今頃この世界は死体の山なんですよ。ヒトには未練があって、だから彼らは死ねないし、あなたは未練を無くそうと努力した。でも、私はその努力を潰しました。あなたに生きていて欲しいから。あ、別に私は人類みんな幸せであれとかそんなことが言いたい訳ではないんですよ?あなただから、生きていて欲しいんです。作品は作者そのものを表している。私が模倣できないほどのナニカを持っている。そんなあなただから、生きていて欲しいと願うんです」
彼女と目が合って、心の内を全て暴かれる様な、見透かした様な目から私は視線を逸らせない。
「生きているのが嫌だと言うのなら、どうか……せめて死なないでいてください、ね?」
ああ、その通り。私は結局のところ「あなたが生きているだけでいい」だとか、「あなた以外ではダメなんだ」とか、私自身を認めて欲しいだけだったのだろう。
作品が認められたとして私自身の評価とは少し違う。それに、求められている作品であれば、代わりに書ける人などは星の数ほど。作者が誰であれ構わないのだから、私の代わりは幾らでもいた。
だが、彼女は。この怪物は、私だからいいとのたまう。私が書く作品だから良いのだ、私という人間そのものにに価値があるのだから、と。
「……私だって、死ぬのは怖い。生きたい理由も、無い訳でもない。私も含めて、人間は未練を抱える生き物だから」
「であれば、生きていたいだけ生きていましょう!死にたくなるまで、惰性でいいから死なずに置けばいいじゃないですか。好きだったものを、もう一度好きになりましょう?」
私の人生の悩みと言っても過言ではなかった物を彼女は数十分のうちに解決して見せた。いや、ここに連れてこられてからの時間すべてが、はたまた、彼女と出会ってからの出来事があったからこそ、なのかもしれないが。
こうして、私は彼女の手により、少しづつ人間らしさ、というものを取り戻して言った。とはいえ、私の抱く死への衝動が無くなるわけでもなく、ふとした瞬間にはあらゆる方法で死ぬことを考えてしまう。深夜に飛び起きて何か叫んだり咽び泣くことがない訳では無い。
「うーん、やっぱり睡眠薬無しではまだ眠れませんか。ああ、あとお水も。まぁこれはいい習慣ですけど」
睡眠障害は治らない、悪夢を見なくなることもなかった。それでも……。
「おやすみなさい、良い夢を」
私は自分の存在を無駄だ、なんて思わなくなった。少なくとも1人、私を必要としてくれる人物がいてくれるのだから。
そうして、私は確かに、生きることへの希望を見出し始めた。夢を追い求めた、コドモだったあの日々の様に。
私が寝るのを見届けた彼女は、瓶に入った薬品を、そっと何処か手の届かない所へとしまい込んだ。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!
良ければ画面下の評価欄から、評価お願いします!
感想等いただけると私と私の友人が死ぬほど喜びます()