そして、たくさんのものをあたえられました
「レイナ、きいてくれているかい?」
そっと手を重ねられ、驚いてしまいました。
ピアノのレッスンもともすれば集中力がかけがちでしたが、とりあえずはおえることができました。
しかし、それ以外のこととなると、どうしても意識してしまいます。
「も、申し訳ございません」
「どうしたんだい?どこか体の調子が悪いんじゃ……」
「いえ、大丈夫です」
お茶を飲んでいても、ついついヘリオス様のことをかんがえ、意識してしまいます。
「なにかあったら、すぐにいってほしい」
「はい、ヘリオス様」
「どうだい、お昼のレッスンをおえたら、馬車で湖のほうにいってみないかい?」
「ええ。すばらしいですわ」
そんなふうに、ヘリオス様はつねに真新しいことを提案してくださいます。
ピクニックやお買い物と、馬車でいろいろと連れていってくださいます。
景色にしろ物にしろ、わたしはみることはできません。しかし、感じることはできます。
それらは、わたしにいい刺激をあたえてくれます。
気分転換をして、またいい気分でレッスンに励むことができます。
ヘリオス様は、つねに側にいてくださいます。つねに親身になって助けてくださいます。
そして、わたしはいつしかそれに甘えるようになっています。頼ってしまっています。
ヘリオス様の心を感じるだけでなく、わたしも心のなかをさらけだしています。
いつしかヘリオス様のことがピアノ同様、いえ、それ以上にわたしの心を占めていました。
そして、怖れるようになりました。
いつかヘリオス様がわたしが嫌になり、このしあわせな日々がおわるのではないか……。
だから決意しました。
それまでの間だけでも、この日々を大切にしよう、と。
ヘリオス様と出会って一年がすぎようとしています。
そんなある日、お茶のときにヘリオス様がおっしゃいました。
「きみのピアノ演奏をわたしだけ独り占めにするのはもったいない。どうだろう。お客を招いてちょっとした演奏会をひらいてみては」
そのように提案され、わたしは即座にお断りしてしまいました。
当然です。
「心配しないで。それから、自信をもって。きみのピアノはすばらしい。招くのはごく身近な人々だし、人数もおおくはない。きみの後見人である叔父夫婦も招きたいんだけど、いいかな?もちろん、いやならやめておくけど」
しばらくかんがえました。
ヘリオス様のご好意でいただいた環境とチャンスです。
ご恩返しもかね、演奏会に挑んでみるのもいいかもしれません。
「ヘリオス様のご期待にそえますよう、せいいっぱいがんばります」
そして、あっという間に演奏会の日がやってまいりました。
昨夜は緊張でよく眠れず、今朝は小鳥のこえがきこえるよりもはやく寝台から起きだしてしまいました。
ピアノを弾けば、すこしでも気持ちが落ち着くかもしれません。
ですが、この時間帯です。ヘリオス様やアリさん、ミラさんはまだ夢のなかでしょう。
窓をあけてみました。冷気がすっと入ってきて、ほてった頬をくすぶります。
小鳥たちが挨拶をしあっています。
ほんのすこしだけ、気持ちが落ち着いたようです。
そんなわたしのことを気遣い、ミラさんがはやめにきてくださいました。
演奏会は、お昼過ぎです。
本来なら夕刻にはじめ、夕食をいただきながら演奏の批評や雑談をされるそうです。
ですが、ヘリオス様はわたしのことを気遣ってくださいました。
日中におこない、おわってからお茶をいただいて解散するということです。
朝食後に演奏する予定の曲をおさらいしてから、ミラさんにドレスを着せていただきました。
「きれいだよ。きらきらしすぎていて、まぶしいくらいだ」
ヘリオス様が様子をみにきてくださいました。
「ヘリオス様、お褒めの言葉よりももっと大切なことがございますでしょう?」
ミラさんが小声でおっしゃいました。
「え?あ、ああ。そうだ。よくわからなくて、直感で選んだのだけど、このドレスにしてよかった」
「ヘリオス様が選んでくださったのですか?」
シルクで肌触りがよく、とくに袖がひろくなくってピアノが弾きやすいデザインになっています。
素敵なドレスだということが、みえなくっても感じられます。
このドレスをヘリオス様が選んでくださいました。
それだけでうれしく、しあわせになれます。
「ヘリオス様、そこもちがいます。もうっ、じれったいたらありません」
ミラさんは、なにか怒っていらっしゃいます。
「あ、ああ、ああ。その、あの、レイナ……。きみに話が……。ああ、そうだ。演奏会がおわったら、きみに話があるんだ」
「ヘリオス様、そのときではおそすぎます」
「ミラ、勘弁してくれよ。演奏会のまえだと、彼女に影響をあたえてしまうかもしれないし」
「まったくもう。これですから、殿方は……」
ミラさんは、さらに怒っていらっしゃいます。
話ってなんでしょうか。
気になりますが、いまは演奏会でへまをしないということだけに意識を向けるべきです。
そして、無事に演奏をおえることができました。
いらっしゃってくださいましたのは、ヘリオス様のお父様とご親族のご夫婦、ご友人のご夫妻、それからわたしの後見人である叔父夫婦です。
みなさま、あたたかい拍手を送ってくださいました。
それから、わたしを紹介いただけることに……。
「レイナ嬢、感動いたしました」
「ぜひまたきかせてください」
「いやー、まさか堅物のヘリオスがねぇ」
「とうとうってやつかな?」
こんなわたしのつたない演奏ですのに、社交辞令ででも褒めてくださいます。
ご親族の方々もご友人の方々も、みなさま人柄の良い方ばかりです。
ヘリオス様のお人柄がよくあらわれています。
それから、ヘリオス様の書斎でお父様とお会いしました。
「あー、レイナ。父の、父のガイアだよ。ガイア・ニカトル。父上、こちらがレイナ・ランバードです」
「はじめまして、レイナ」
太くてやわらかい声です。
それよりも、ニカトルという名に驚きました。
王族とおなじ名であるからです。
そういえば、ヘリオス様はヘリオスという名しかきいていないことを、いまさらながら気がつきました。
「ヘリオス、このバカ息子が。ミラの申すとおりだな。まことに彼女のことを想うのなら、最初に告げるべきであった」
「も、申し訳ございません。ですが……」
「まったく。小心なところまでわたしに似ずともよい。レイナ、お座りなさい」
すぐにヘリオス様が助けて下さり、長椅子に腰をかけました。
「さあ、レイナに申すのだ。じれったいやつだ。まるで昔のわたしをみているようだ。もういい。おまえが申せぬのならわたしが申す」
「わ、わかりました。ここはわたしが申さねばならぬところです」
ヘリオス様がわたしの横に腰かけられたようです。それから、両手でわたしの両手を握ってくださいました。
「レイナ、すまない。隠すつもりやだますつもりは毛頭なかったのだが、どうしてもいいだせなかった。きみが、わたしのことを避けるのが怖かったからだ。わたしの名は、ヘリオス・ニカトル。ここにいるガイア・ニカトルは国王で、わたしは第一王子なんだ」
すぐには理解できませんでした。
ヘリオス様がおっしゃった言葉を頭のなかで繰り返してみて、そこでようやく気がついたのです。
「国王様に第一王子様っ」
驚きすぎて声がかすれてしまいました。
ど、どうしましょう。無礼を働いてしまった、なんてどころの騒ぎではありません。
思わず、体ごとヘリオス様、いえ、第一王子様からはなれてしまいそうになりました。ですが、手をしっかり握られています。
「レイナ、きいてほしい」
第一王子様の手に力がこもっています。痛いほどですが、それだけ必死であることが感じられます。
「わたしは、王宮での生活につかれてしまっていた。なにもかもがいやになったんだ。だから、ここに逃げ込んだ。そしてある日、隣のサナトリオからピアノの音がきこえてくることに気がついた。その音は、つかれきっていたわたしの心に光をあたえてくれた。いつしか、それがきこえてくるのを楽しみにするようになっていた。どんな奏者が奏でているのか?みてみたい、間近できいてみたい、できればこの屋敷のピアノを弾いてもらいたいと強く望んだ。そして、ついに足を運んでしまった。そこで、きみをみかけた。一目惚れだった。ピアノの音もそうだが、一心にピアノを弾くきみの姿に心をうたれてしまった。ピアノがきこえはじめるたびに、隣に足を運んだよ。でも、どうしても声をかけることができない。きみに断わられるのが怖かったからだ。それはそうだよね。突然、「うちにピアノを弾きにきてくれ」って誘われれば、だれだって不審に思ったり怖くなったりするだろう。それでも、きみのことが頭からも心からもはなれない。ミラとアルに相談したら、強引にでもお誘いなさいと背中をおされ、それできみに……。そのあとのことは、きみもしってのとおりだ。きみがここにきてくれて、わたしはよりいっそうきみが好きに、いや、愛するようになった。だからこそ、自分の身分を明かせなくなった。きみは人一倍謙虚だ。下手をすれば、こっそりここから去ってしまうかとかんがえてしまった。きみを失いたくない。だから、きみがぼくのことをしり、理解してくれるまでまとう。それから、真実を話そうと」
第一王子様の話は、頭のなかに入ってはきます。ですが、混乱した頭では、ちゃんと理解することができそうにありません。
「レイナ、一方的だし突然のことできみも混乱していると思う。それを承知できみにお願いしたいことがある」
第一王子様の手に、さらに力がこもりました。
「わたしと結婚してほしい。きみがこれまで失ったもの以上のものを、二人でいっしょに得たいんだ。たしかにわたしの身分上、きみに負担や苦労をかけることもあるかもしれない。でも、できるだけそうならないようわたしは努力する」
「け、結婚?」
突然の予期せぬ言葉に、一瞬その意味がわかりませんでした。
「わが息子ながら、不器用すぎるな。しかし、おまえにしては上出来だ。レイナ嬢にお茶を差し上げなさい」
「は、はい」
第一王子様の手がはなれ、かわりにティーカップをさわらせてもらいました。それを両手で包み込むと、わずかに震えています。
気持ちを落ち着けるのと整理をするため、一口すすりました。
ラベンダーの香りが鼻をくすぐります。不思議と気分が落ち着いてきました。
「ヘリオスからきいてくれたかな?わたしの正妃もピアノ奏者だったんだ。隣国から流れてきた、なんの身分もない旅の楽士団の一員だった。当時、わたしもいまの息子のように王宮での暮らしにつかれきっていて、ここに保養にきていた。旅の楽士団が隣のサナトリオにきたことをしり、その楽団を気まぐれで屋敷に招いたのだ。そこで正妃のピアノに、いや、正妃自身に心を奪われてしまった。正妃にするのにどれだけの時間と根まわしが必要であったか。それにくらべれば、レイナ嬢、きみはランバート子爵家の令嬢だ。息子は、わたしよりずっと恵まれている。それと、目のことだが……。精神的なものとか?ならば、ちゃんとした医師にみてもらったほうがいい。精神的なものであれば、光をとりもどせるかもしれぬ。たとえそれが無理だとしても、息子がきみの目になってくれる。親バカかもしれないが、息子は第一王子としての責務はちゃんと果たしているし、わたしよりずっと真面目で優秀だ。もちろん、きみの意志を尊重するつもりだ。もしもすこしでも息子に興味をもっていてくれているのなら、息子にチャンスをあたえてくれないだろうか。いいや、わたしたち親子に、だな。わたしには娘がおらぬ。だから、娘がほしいのだよ」
国王様のゆったりとしたバリトンの声は、わたしの耳にというよりかは心に直接響いています。
そして、国王様はわたしがこのありがたすぎるお話を断る理由を察し、払拭されてしまわれました。
身分と目。もちろん、それだけではありません。わたし自身、いたらぬところばかりです。
ですが、わたしも第一王子様とはなれたくありません。許されるのであれば、このさきもお側にいさせていただきたい。ピアノを弾き、お話をし、笑い合いたい。
「レイナ。きみ、涙が……」
すぐ隣から第一王子様のつぶやきがきこえました。同時に、指先でわたしの目尻を拭われました。
わたしの目から涙がでていたようです。
その涙は、わたしの気持ちを代弁してくれたのです。
そのあと、書斎に叔父夫婦が呼ばれました。
そこで、第一王子様がわたしとの婚約を告げられました。時期をみて、王都で発表するとも。
叔父夫婦はずいぶんと驚いたようです。
そして、すぐにでもわたしを連れてかえり、準備をいたしますとおっしゃいました。
第一王子様はおっしゃいました。
「その必要はない。三年前に起こったランバート邸の火災については、わたしの名において調査をしなおす。なにかしっていることがあれば、はやめにしらせたほうがいい。放火は重罪だ。ランバート子爵は亡くなり、レイナは光を奪われ心身ともに疲弊した。場合によっては、断罪されて死罪だ。正直なところ、おまえたちの顔もみたくない。さっさと王都に戻り、身のまわりの整理をしておけ」
その第一王子様の激しい言葉に、叔父夫婦は悲鳴にも似た謝罪を連ねました。ですが、国王様の護衛兵たちに部屋から連れだされてしまったのです。
第一王子様の怒りもまた、わたしには感じられます。
そのあと、説明をしてくださいました。
調査の結果、不審火は叔父夫婦の雇った者の仕業だということです。そして、わたしをサナトリオに送り、ランバート家の財産を食いつぶしていたというのです。
そんなこととはまったくしらず、わたしはのん気にピアノを弾いていました。
もしも第一王子様と出会わなければ、こういうこともわからずじまいだったのかもしれません。
お父様が気の毒でなりません。
同時に、あらためてお父様に感謝しました。
お父様がくださった命のおかげで、わたしはあらたな一歩を、将来をみることができます。
叔父夫婦と会ってからしばらく後、国王様をはじめ、演奏会にきてくださった方々がお屋敷を去ってしまわれました。
つぎは王都で会いましょう。
皆様、そうおっしゃってくださいました。
第一王子様とは呼ばないでほしい。これまでどおりヘリオスと呼んでくれればいい。
そうおっしゃられましたので、ヘリオス様とお呼びすることにします。
外にいると、夕刻であることが風の冷たさでわかります。
温室でお花の手入を手伝いながら、あらためてしあわせを感じてしまいます。
失ったものははかりしれません。大切なものばかりを失いました。光をのぞいて、それらはもう二度ともどってはきません。
わたしには、それらを忘れ去ることはできません。しかし、だからといってさきに目を向けないわけではありません。
失くしたものは、わたしの心のなかにいつまでも残っています。残しておきます。
わたしがあたらしく出会った、あるいは得たものもまた、はかりしれません。
これからは、それらのために生きていきたいと強く願っています。
そして、できれば愛する人のために尽くし生きていきたい。
「レイナ。きみはこの薔薇のようにうつくしい。わたしたちを結び付けてくれたピアノに感謝しなければならないね」
ヘリオス様は、いつものように棘を落とした薔薇を手に握らせてくださいました。
「愛しているよ」
それから、わたしの唇にご自身のそれを重ねられました。
お父様、お母様、国王様、アルさん、ミラさん、ピアノ、それからヘリオス様……。
心から感謝を申し上げます。
(了)