すべて失いはしたものの……
ある冬の寒い日の夜、わたしは五つの大切なものを失いました。
一つめはお父様。二つめはお屋敷。三つめはお母様の形見のピアノ。四つめは婚約者。
そして、五つめは光……。
深夜、屋敷のどこかに不審火が起こり、それは瞬く間に屋敷を包んでしまいました。
使用人のほとんどが通いであったため、住み込みの使用人は逃げることができました。だけど、屋敷の奥の部屋で就寝中だったお父様とわたしは逃げ遅れ、燃え盛る火のなかに取り残されました。
お父様はご自身の身を神にささげるかわりに、わたしを助けてくださいました。
屋敷は、全焼してしまいました。
あまりの火の勢いに、お父様の亡骸はわからずじまいです。
居間に置いてあったお母様の形見のピアノは、原形もとどめず灰になってしまいました。
そして、わたしは光を失ったのです。
両目が見えなくなりました。
このことをしった婚約者のストラは、灰となった屋敷から病院に運ばれようとするわたしに婚約破棄をすると宣言しました。
『使い道がなくなった』
その呟きのあと、ストラの気配を感じなくなりました。
たった一夜です。
わたしの失ったものは、どれも大切なものばかりです。
どれも失いたくなかったものばかりです。
泣きたくっても、光をうしなった目から涙は流れることはありません。
失ったものはもどってきません。
それでも、わたしは生きなければなりません。
お父様がご自身の命にかえて守ってくださった命を、これからはわたし自身が守らなければなりません。
この寒い日の夜、わたしがうしなったものは、あまりにもおおきくおおすぎました。
三年後
後見人である叔父夫婦は、静かなところで暮らすほうがいいとおっしゃり、王都からずっとはなれたサナトリオに入れてくれました。
サナトリオは、国営の療養所のことです。
お屋敷が全焼してしまった後の数日間は、叔父夫婦のお屋敷ですごしました。
ですが、まったく勝手がわかりません。
なにかを倒したりぶつけたりしてしまいました。
わたし自身、転んだりぶつかったりということが一度や二度ではありません。
『お荷物だ。国営の安いサナトリオにいれてやるから、一生そこで暮らすといい。どうせなにもみえやしないんだ。サナトリオにこもっておけば、生き恥をさらすこともあるまい』
叔父様は、そうおっしゃいました。
たしかに、叔父様のお言葉どおりなのかもしれません。
そして、サナトリオに連れていっていただきました。
サナトリオの生活は、最初は戸惑うことばかりでしたが、生活にもじょじょに慣れてきました。
一日に二回、パンと冷めたスープをいただき、たいていは部屋のなかでじっとしています。
ときどき、サナトリオの職員の方が部屋から連れだして下さり、そこにあるピアノを弾かせてくれます。
調律もなにもされていないピアノです。音がおかしいですが、それでもわたしにとってはピアノを弾くことじたい元気になれます。
生きていてよかった、と明るくなれます。
見えなくっても、指は覚えています。
楽譜もほとんどを覚えていますので、以前とおなじように弾くことができます。
そんなある寒い日、ピアノを弾かせていただいた後、自分の部屋にもどろうとしていました。
壁に手を添え、ゆっくりと進んでいきます。
そのとき、気配を感じました。
前にだれかがいらっしゃるようです。
「エリーテさん?」
彼女はここの職員の方で、ピアノを弾いていいと連れにきてくださいます。
「いえ、ちがいます」
その声は、若い男性のもののようです。
「突然、申し訳ありません。わたしはヘリオス。このサナトリオの隣に住んでいる者です。じつは、ときおりピアノの演奏がきこえてくるもので、ここの職員に尋ねたらあなたが演奏なさっていると」
「まぁ、それは申し訳ございません。下手な演奏でご不快な思いをされたことでしょう」
しらずしらずのうちに、お隣の方にご迷惑をおかけしていたようです。
「いえ、ちがいます。ちがうのです……。あの、失礼ですが、目が……」
「はい。数年前に火事で。お医者様は、精神的なものだとおっしゃるのですが……。失礼いたしました。わたしは、レイナ・ランバートと申します」
「ランバート?ランバート子爵家の……。思いだしました。三年前でしたよね。そう、あなたが……」
ヘリオス様は、お父様のお悔やみをおっしゃってくださいました。
「レイナ、わたしがあなたに会いにきたのは、あなたをわたしの屋敷に招待したかったからなんです」
「わたしを?」
「じつは、わたしの屋敷にはピアノがありましてね。昔は、弾いてくれる方がいて、ときどき弾いてもらっていたんですが、いまはいません。ぜひともあなたに弾いてもらいたくって、こうしてやってきたわけです」
「ですが、わたしはそのような腕は……」
「わたしは、ここでしばらくのんびりしているのですが、あなたのピアノの音にどれだけ癒され、元気づけられたかわかりません。あなたさえ嫌でなければ、すぐ側できかせてもらいたいのです。ははっ!突然、こんなことをいいだす男なんて、怪しいですよね」
かれの笑い声が、すっかり冷たくなった風にのって運ばれてきます。
その笑い声は、わたしに勇気をあたえてくれました。
かれの姿はみえませんが、かれの心はよくみえます。
まっすぐで正直で明るいけれども、さみしさもみえます。
「わたしの方からお願いしたいくらいです。ぜひ、弾かせてください」
ピアノに惹かれてしまいました。いえ、ピアノだけではありません。
かれにも惹かれてしまっているのかもしれません。
こんなに素敵なピアノははじめてだわ。
わたしの心も指も踊っています。
こんなに愉しいのは久しぶりです。こんなにしあわせな気持ちになれたのは、いつぶりでしょうか。
わたしは、その素敵なピアノをときが経つのも忘れて弾きつづけてしまいました。
ついつい、招待してくださったヘリオス様のことを失念してしまうほど、ピアノに夢中になりました。
そのピアノは、ずいぶんとつかいこまれています。ですが、もともとのつくりがいいのとちゃんと調律がされています。
ピアノのなかのピアノといってもいいかもしれません。
このピアノでしたら、下手くそなわたしでもすこしはマシにきこえるかもしれません。
弾きたい曲を弾きたいだけ弾きました。その間、ヘリオス様はどうされていたでしょうか。
気配が感じられたのは、弾きはじめるまででした。いざ、鍵盤に指をのせた瞬間、気配がわからなくなってしまったのです。
まるでなにかに憑かれたかのようにさんざん弾いた後、わたしはやっとわれにかえりました。
「レイナ……。なんといったらいいか。素晴らしすぎて、どんな言葉も陳腐になるだろう」
「まぁ……」
ヘリオス様の気配がちかづいてきて、わたしの手を握ってくださいました。
「きみのピアノは心を揺さぶり、元気を与えてくれる。もちろん感動もだけど、感動だけならほかのピアノ奏者だってあたえてくれる。きみのは、それ以上に元気や気力、生きていることに心から感謝したくなる素直な心をくれる。これほどの演奏ははじめてだ」
「さあさあヘリオス様。お嬢様はおつかれでしょうから、テーブルでお茶でも飲みながらお話しください」
ヘリオス様の執事のアルさんがテーブルまで導いてくださいました。
いい香りのする紅茶と、なめらかな舌触りのケーキをいただきながら、ヘリオス様とお話をしました。
「レイナ、きみさえよければ、毎日弾いてもらえないだろうか」
「ですが、わたしなど……」
わたしの腕では、このピアノがかわいそうすぎます。
これほど素晴らしいピアノなら、もっとふさわしい弾き手がいらっしゃいます。
せっかくのお申しでですが、わたしは辞退させていただきました。
腕もですが、盲目の弾き手など、これ以上の曲を弾けないからということもあります。
楽譜をみることができないのですから。
どちらにしても、これだけのピアノを弾きこなすにはいまのわたしでは無理です。もっともっと練習と勉強が必要になります。
ですが、ヘリオス様はわたしの辞退をお認めにはなりません。
「どうだろうか。ここで勉強や練習をするというのは?楽譜は準備するし、わたしもすこしは楽譜がよめる。きみの力になれるはずだ」
ヘリオス様の情熱がわたしに伝わってきます。
わたしもできればそうしたい。でもやはり、わたしごときが触れていいピアノではありません。
「じつは、このピアノを最後に弾いたのが母でね。母は隣国のピアノ奏者だったんだ。この国にきて、ここでピアノを弾いたときに父に見染められて結婚した」
「まぁ、そうだったのですか。素敵なお話ですね。わたしの母もなんですよ。それで、お母さまはどうされていらっしゃるんですか?」
「死んだよ」
「なんてこと。そうとはしらず、大変不躾なことを申してしまいました」
「いや、いいんだ。レイナ、きみこそお母様は……」
「はい。では、お互い様ですね。ヘリオス様も、やはりお母様のピアノの演奏をおききになって?」
「もちろん。ずっときいていた。だから、楽譜がわかるんだ。わたしも、といいたいところだけど、わたしにはそういう才能がないという以前に、音楽は自分がするよりきくほうが性にあっているらしい」
「そうでしたか」
ヘリオス様のおっしゃり方がすごくおどけた調子でしたので、思わず笑ってしまいました。
しばらくかんがえさせてほしいと申しましたが、ヘリオス様はそれでもぜひにとおっしゃいます。
執事のアルさんまで、ヘリオス様のためにと熱心におっしゃいます。
ついに根負けしてしまいました。
ですが、じつはわたしもうれしいのです。
こんなに素晴らしいピアノが弾けるということはもちろんですが、なによりわたしのことを気にかけてくださる人がいらっしゃるということにしあわせを感じます。
ヘリオス様とアルさんに手伝っていただき、いままで住んでいたサナトリオからヘリオス様のお屋敷に移りました。
それからしばらくの間、ピアノの練習のかたわら、ヘリオス様が手をひっぱってくださり、お屋敷内を何度も何度も案内してくださいました。
わたしにと準備してくださいましたお部屋は、昔のわたしのお部屋よりひろいお部屋です。
「本来ならもっと調度品や装飾品があったほうがいいかもしれないが、部屋のなかに物がおおくあっても移動に困るだろう。だから、必要最低限にしている。不便なようならすぐにしらせてほしい。すぐに準備するから」
ヘリオス様は、目のみえないわたしのためにそんな細やかな配慮までしてくださいます。
いろんなものを失ってから、わたしの行動範囲はすごくかぎられていましたしせまかったのです。
ですが、ヘリオス様と出会ってから、その範囲が戸惑ってしまうほどひろくなりました。それはじょじょにひろがっていっていますし、際限なくひろがるのではないでしょうか。
毎日毎日、ヘリオス様が屋敷内にあるすべてのものを手に触れつつ教えてくださったおかげで、数週間の後にはお屋敷での暮らしも慣れてしまいました。ほとんどのことに不便も感じられません。
そして、ヘリオス様はわたしに素晴らしい友人をあたえてもくださいました。
わたしの身のまわりのお手伝いをしてくださるミラさんです。
彼女は、長年お屋敷でメイドをされていらっしゃるベテランです。
朝起きてから就寝するまで、あれこれと気をつかってくださいます。
できるだけ自分のことは、自分でするようにしなければなりません。なぜなら、この心が休まるしあわせな
生活もいつかはおわりがきてしまいます。そのときになって、自分のことすらできなければすぐに困ってしまうことになります。
ミラさんはそこのところはよく承知してくださっていて、わたしにできることはさせてくださり、さりげなく助けてくださったり教えてくださいます。
なにより、お話の相手になってくださいます。
わたしにとって、なにより刺激になります。
この三年間、ずっと一人でした。お話してくださる方はいらっしゃいませんでした。
サナトリオの職員の方も入所されている方々も、とくに交友がありませんでした。唯一、ピアノを弾けるときに呼びにきてくださる職員のエリーテさんと、今日は晴れているとか寒いとかそんな会話を交わすくらいでした。
だから、すごくうれしいことです。
「さあ、レイナお嬢様。髪を結いおわりましたよ。ほんっとにお嬢様の髪はお美しい。ほら、わたしの髪をさわってご覧なさい」
彼女は、わたしの手をとりました。
やわらかくってなめらかな毛が、指先にあたります。
「癖っ毛なんです。毎朝、落ち着かせるだけでずいぶんと時間がかかります」
「でも、すごくやわらかくてなめらかですよ」
「お嬢様の髪質のほうがずっといいです。うらやましい」
彼女は、こうしてわたしの髪を結ってくださいます。
「ミラさん、ヘリオス様はどうして盲目のわたしに声をかけてくださったのでしょう」
それは、ヘリオス様にお世話になってからずっと疑問に思っていることです。
ピアノ演奏だけのことでしたら、隣のサナトリオにいるのです。ときどき通えばすむことです。
お屋敷に住まわせてくれているだけではなく、生活のすべてを面倒みてくださっています。
盲目のわたしを憐れんでのことでしたら、それはそれで申しわけがありません。
「さあ、お嬢様。こちらへ」
ミラさんは、わたしの手をひっぱって寝台に連れていってくれました。
「お嬢様のご質問にお答えするまえに、わたしからお嬢様にお尋ねしてもよろしいですか?」
「え、ええ。もちろんです」
「お嬢様は、ヘリオス様のことをどう思われますか?」
「ヘリオス様のこと?」
予期しない問いに、思わず頓狂な声をあげてしまいました。
「まず、ヘリオス様はすごくかっこいいことをお伝えいたします。それから、すごくおやさしいです。さらには、すごく気配り上手です」
思わず笑ってしまいました。
そのすべてを、わたしはよくわかっています。だからこそ、わたしはここにいることができるのです。
すごくかっこいいというところはわかりません。
しかし、みえないわたしにとっては、いえ、たとえみえていたとしても外見は関係ありません。
わたし自身、ほかのご令嬢の方々よりずっと見てくれが悪いのですから。
「ヘリオス様のことは心から尊敬しています」
「尊敬っ?尊敬なのですか?」
ミラさんが力いっぱい叫びました。
「それだけ、ですか?」
「え?いいえ、慈悲深くて謙虚な方とも……」
「お嬢様、お嬢様。わたしが尋ねているのは、そういうことではありません」
「ええっ?」
混乱してしまいました。
ミラさんは、いったいなにを尋ねていらっしゃるのかしら?
「お嬢様」
ミラさんが、寝台に腰をかけているわたしのまえに跪いたようです。わたしの両手が握りしめられました。
「お嬢様、ずばりおうかがいします。ヘリオス様をお好きですか?」
「ええ?は、はい。とてもいい方でいらっしゃいますし、もちろん……」
「お嬢様、そういう好きではございません。一人の男性として、という意味でございます。じつは、ヘリオス様はお嬢様のピアノの音に興味をもたれ、隣のサナトリオに様子をみにいかれました」
「はい。それはうかがっています」
「演奏をされているお嬢様をご覧になり、ヘリオス様の心臓はあなたに射抜かれたわけでございます」
「はい?」
即座に意味がわかりませんでした。
「ヘリオス様は、一人の男性として一人の女性、つまりお嬢様のことを愛してらっしゃるのです」
「ええええええええっ!」
こんな大きな声をだしたことって、わたしの人生のなかであったでしょうか?
いいえ。おそらくはありません。
ミラさんのさきほどの言葉が、頭のなかでぐるぐるまわっています。
「ですから、お嬢様もヘリオス様のことを一人の男性としてみていただけませんか?ヘリオス様は、一途で真剣でございます。それはもうみていてじれったいほどでございます」
握られている両手に力がこもっている。
そ、そんな……。
あまりの展開に、ついていけていません。
わたしはいったい、どうしたらいいのでしょうか?
その夜、まったく眠れませんでした。
胸がうずき、ドキドキがとまらなかったからです。