タクシーと娘
肝心な時に限ってタクシーが捕まらない。
タクシーどころか車も全く走っていない。
大変なことになった、緊急事態だ。
風邪をひいたわけでもないのに息も体も熱い。
国道まで出るなら駅に行って電車で行こうか。
焦燥感に駆られる中、とにかく歩く。
ああ、どこかの海外映画みたいに改造したタクシーで目的地まて突っ走ってくれないだろうか…。
周りに人影は無い、この状況でも赤信号で止まる自分はなんて律儀なんだ。
並行して横に車が止まっている。
「…タクシーだ!!」
エンジン音など聞こえただろうか、全く気づかなかった。
運転手が後部座席のドアを開けてくれた。
盗塁する勢いで乗りたいが、スライド式でゆっくりとドアが開く。
車体に『比留間タクシー』
比留間!!俺と同じ苗字だ。
ここで同じ苗字に出会うとは、運命的な出会いを感じた。
いやいや、呑気に興奮してる場合ではない。
「宮下病院までお願いします!!」
「は〜い、宮下病院ね」
現在地から少し離れた場所だが、運転手は得意げに応えてくれた。
道も空いてそうだし、かっ飛ばして下さい。
などという言葉を喉仏あたりで止め、呼吸を整える。
「お客さん、急いでるようだけど救急車じゃないから信号はちゃんと守っていくよ〜」
「はい…」
俺は弱々しい返事をした。
「どこかの国の映画みたいに、ターボついてるタクシーじゃないからねぇ、ハハハッ」
「そうですね…」
きっと鼻を触られたときのサメの気分は、今の俺と同じなのだろう。
後部座席の真ん中の位置から、運転手の後ろに移動しようとした。
ふと、カーナビの下に飾られてる写真に目がいった。
4、5歳くらいの女の子だ。
盛大に笑ってる顔のドアップ写真。
無邪気で可愛い。右の目の下に大きいホクロがある。
チャームポイントも思春期にはコンプレックスになってしまうのだろうか、余計なお世話が頭を通過した。
「これねぇ、娘が5歳のときの写真でね。今はもう立派な大人で、この写真を職場に飾ってるなんて知ったら怒られるだろうな〜」
この定年を過ぎたくらいの運転手にも妻がいるのだ。
今の俺のような気持ちでタクシーに揺られた経験が、この人にもあったのだろうか。
あったとしても今では笑い話になっているのだろうか。
運転手は、いや、比留間さんは娘の話を続けているが正直耳に入ってこない。
いまの俺には上の空だ。
赤信号で初めて停止したとき俺はシートベルトを締めた。
「名前は"かのん"っていうんですよ。本人も気に入ってくれててね〜、自慢じゃないですけど音楽の先生をしているんですよ」
相変わらずのんびりと娘の話が続く。
写真に少しでも視線が向けば、乗車する人全員に語っているのだろうか。
俺はとりあえず、「素敵な名前ですね」と早口調で答えてしまった。
比留間さんは少し間を空けてから「ありがとうございますぅ」と呟いた。義理堅いお方だ。
白い建物が見えてきた。宮下病院だ。
何回か来ているのに初めてきた気分だ。
タクシーは急なハンドル操作で車寄せに入り、正面玄関の前で停止した。
俺がお金を渡すと比留間さんは真っ直ぐ前を見たまま受けとった。
「ありがとうございます、助かりました!」
「はぁい、ども〜」
病院の二重になっている自動ドアを抜け、なんとなくタクシーの方を振り返ってみる。
しかし、もう比留間タクシーの姿は無かった。なんだか不思議なタクシーだった。
受付で名簿に苗字と妻のいる病棟番号を殴り書き、面会者用のバッジを受け取る。
エレベーターに乗った瞬間何かが拍動する音を聞いた。それが自分の心臓だとわかったのは目的の3階に到着した時だった。
顔なじみの看護師さんを見つけ俺は駆けつけた。
「妻は、どこですか…どうなりました」
看護師さんは笑みを浮かべて頷きかけた。
「元気ですよ。今は回復室で寝ています。こちらへどうぞ」
「じゃあ、生まれたんですね!!」
つい声が大きくなってしまい看護師さんは一瞬たじろいだ。
「周りにいた人たちがすぐに救急車を呼んでくれたみたいで」
俺はその場にへたり込みそうになるのを我慢して看護師さんの後を追った。
「あ、きたきたー」
妻は陽気な声でベッドから身を起こす。
「いいって、寝てな。ほんとお疲れさん」
「大丈夫だよー。スーパーで買いそびれたアイスが食べたいくらいだから」
産褥衣姿の妻はそう言って笑ってくれた。
「ほら、いるよそこに」
ついに、妻が指差した方に向かい対面だ。
「女の子だよー」
俺は慎重に両手で抱え顔を覗いた。
しわくちゃでまだ母親似なのか父親似なのか分からない。
「あっ」
思わず控えめに叫んだ。
「それでー、名前は決まったの?」
妻の質問に少し間を空けて俺は答えた。
「ああ、"かのん"だ」
右の目の下にホクロがある小さな命が嬉しそうに笑った。