輪廻のノスタルジー 後編
中学二年が魂込めて書いた力作。『輪廻のノスタルジー』の後編です。最後まで読んでくださると嬉しいです。
*
「毛布変えたけど、これで良い?」
「ありがとう。あったかい」
「真夏なのに体温が欲しくなるって、もはや怪奇だよね」
「取って食わないでよ」
「食わないよ。少し、懐かしいなぁと思って。昔の僕も、きっと誰かの心灯が欲しかったんだろうね。分けてやりたいくらい」
「寂しいのは今も同じでしょう?」
「え?」
「貴方、はじめて会った時から私より寂しそうな目をしていたじゃない」
「そうかな」
「えぇ。できることなら、私の鋭気を分けてあげたい。繕ってるつもりかもしれないけど、私も同じだから解るの」
「寂しいなんて。僕は、ずっと」
「近づけば近づくほど、余計に遠く寂しくなる」
「……」
「なぁに? くすぐったい」
「……そうだね」
「ねぇ、貴方は、誰———」
刹那、窓に映る冥暗が重なって見えていたような、気がする。
或る夏の宵だ。
夏と呼ぶにも厚かましい、年柄の一季節だった。
酔眼した目を開けると、小綺麗な、知らない家の天井が広がっていた。
朦朧としたまま起き上がると猛烈な吐気に襲われ、口元を両手で押さえる。そこでようやく、自分の上にブランケットが掛けられていたということに気がついた。芳香剤のような、知らない家の薫り———まさか、と羞恥して身体中を触ってみても、なにも荒らされたような形跡は無かった。人として当然のことながら、心配と一抹の期待が入り混じってしまうのは人間の性根だろうか。
私の右手には、無造作に見慣れたロゴの入ったビール瓶が握られていて、質朴にも数時間前の自分の失態が追憶する。
脳裏に流れたのは、尚陽の家に入ったことと、炊飯器で米を炊いたこと。肝心な『その後』はよく憶えていない。
尚陽。呼んでみても返事はない。もう出かけてしまったのだろうか。そりゃあ、よく知りもしない女が部屋で酔い潰れているのだから、居られなくなってしまうのは当然だ。
額から滴る汗を袖で拭うと、はぁっと息を吐いた。
軋み鳴らす扇風機は、扇羽の根本の部分が黒々と錆びてしまっている。きっと彼のことだから、余計な気遣いで物置の奥からでも無理やり引っ張り出してきたのだろう。生温い部屋の温度と錆の薫りが合わさって、耽溺した夏の色が部屋中に充満していた。
ふらふらと冷たい硝子窓に指を這わせると、遠くにラーメンの屋台が遠ざかるような音が聞こえる。やがて音が消え空いてしまうと、心臓に穴が空いたように、淋しくなった。
やはり、誰もいない家は、虚しい。
話す相手があらわれてから、よけいにそう感じるようになった。
足元を見つめると、薄い影が一つ、暗やみに立ち消えた。今は何時なのだろう。今日に限って腕時計を家に置き忘れてきてしまったから、時間感覚が分からない。
不意に鏡を覗くと、自分の顔とは思えないほどに、皮膚が変形し始めていた。
「……嘘でしょ」
まだ月も出ていないというのに。
頬に手をやると、指先が血汐に染まってゆく。
——化物。
ふと、男の声が頭をよぎった。
手元を見ると、皮膚が張っていたはずの指先はどろどろに溶け、中から金属兵のようなものが頭角を表すように刺さっていた。
右腕には魚の背骨のようなものが吹き出し、左肩には美しい羽が翼を広げる。脚は泥沼化し、鳥の毛皮のようなものが聢と生える。
背中からぞわぞわとした身震いが伝わり、思わず悲鳴を上げそうになってしまう。
一番酷いのは容貌だった。
爛れた赤い口は裂け、瞳の黒い部分と白い部分が逆さまになってしまっている。助けを呼ぼうとしても、喉は圧迫され、ひゅう、という声が掠れ出てしまう。
最早私は、こんなにも気味が悪い——。
虫唾が走り洗面器のまえに立ってみても、今晩はなにも喰っていないから、吐こうにもはくものが残っていない。鏡越しに時計を見つめると、短針が七時を指していた。
八時まで、もう時間が無い。
状況的に、まずい。
こんなところを尚陽に見られてしまえば、それこそ築いた関係が根から崩れてしまうのは目に見えている。今まで出会った人間がみんなそうだったように。
そうだとすれば、早く逃げなければいけない。弦月が昇りきらないうちに、一刻でも早く。
私は裸足のまま部屋を出ると、アパートの階段へと走る。今更だが、靴を履いてこなかったことに後悔が募る。脚が軋んで、うまく走れない。これもアルコールの副作用なのだろうか。
脚の痛みがだんだんと全身に伝わって、過大な吐気に襲われる。当たり前だ、お酒を飲んだあとに化物と化したことも、走ったこともないのだ。
想像するんだ。
もう私は——
「……大丈、夫?」
優しく、鈴の転がるような透き通る、声。
「尚——」
卒爾に尚陽が目の前に現れて、スーパーのロゴが入ったビニール袋が、どさりと音をたてて地面に落ちる。彼の手の力が抜けたように。
「……」
いつから私を見下していたのか、彼は、素朴に戦慄した目で私を見つめる。
彼の瞳に気がついたその瞬間、私の中の焦りが絶望へと変わった。唯一助けを求める、彼へと伸ばした右手をもどし、目を伏せる。
ほらね、やっぱり。
人間なんて、みんな、同じ様。
尚陽は、固まった唇を思い出したように動かすと、僅かな声で、良いんだ、と発した。
何が良いのかも、分からない様に。
転んだ私に、彼は手を差し伸べようとせず、ただ呆けたように、私を見つめる。
いや、手が出ないのか。
「どう、して」
どうして。
自分の手が固まって動かないことに対する、どうして。それとも、私が醜い姿であることに対する、どうして。
尚陽の言葉には、きっとどちらも含むのだろう。
——哀しい。
心臓が止まったような、詰まったような違和感に、手で胸を強くつかむ。
……化物に、感情なんて、要らないのに。
私は耐えられなくなり、そのまま彼の横をすり抜けると、階段から飛び降りた。何故だか今度はしかと脚が機能し、痛みが両脚から腰に分散する。
後ろを振り返ると尚陽は、呼び止めもせずただ、私を遠い目で見つめていた。
少し困ったように眉を寄せて、
ただ、にっこりと。
Ⅱ
今日は、いつもの場所には行かなかった。
いつもとはいっても、まだ数えるほどしか通っていないのだから、そうは呼ばないのかもしれない。
私は夜明け前の薄暗い学校の壁を指でなぞって、ひたすら歩いた。
暗晦な空中に、所々滲んだように青や橙色が混ざりあっていて、まるで水彩画に染まったような、彩の鮮やかな世界にいるような気分になる。
ふと、背後に誰かが私の名前を呼んだ。
「醇乎」
何、と声のした方を振り返ると、パーカーを羽織った男と目があった。サイズが合っていない使い捨てマスクは、年中無休だ。風邪でも無いのなら外せばいいのに、と顔を顰めても、彼の心の内はいつも理解できない事ばかりである。
パーカーが地味に膨らんでいるから、きっと下には制服を着ているのだろう。パーカー自体が校則違反であるというのに、天邪鬼の律儀さだ。
「ねぇ、その名前で呼ばないでって言っているでしょ」
「紝巴には良いのにか?」
「……関係無いじゃない」
彼は、最後の子音に合わせて首を捻る。そのふわついたような足取りで腰を下ろし、華奢な手を腹のポケットに突っ込んで背を丸めた。
歪んだ笑みの不器用さは相変わらずだ。そこに悪気を感じないのは、彼自身に気の咎めがあるからだろう。本当を言えば自身を隠さずに生きたいものを、不器用な自分に悔いて覆い隠してしまっている。今時、それを貫くことが信念だとでも思っているのだろうか。
「何してんの?」
低音が掠れたような活気に、思わず嘆息を漏らす。
朝早くとはいえ、彼の口は普段と変わらず妙に緩いようだった。
「……見ればわかるでしょ、空見てんの」
「違うよ。今は何して生活してるの、って意味。貯金ももう寿命でしょ? あんたもそろそろ切られるんじゃない」
「余計な世話妬かないでよ。どうせ私は魑魅みたいなものだから」
「あぁ、そう」
彼はしばらく黙り込むと、顔を腕の中に潜り込ませる。
いつ見ても、女の子のように柔らかい髪を雑に切り刻んだショートヘアーは、違和感がある。手を触れると意外にも柔らかく、短い毛と長い毛が乱雑と言えるほど不規則に切り刻まれる。もっとも、彼に似合う似合わないは関係が皆無であることなのだろう。
「何かあったでしょ?」と彼は、横目で私の顔を覗く。その妙に落ち着いた音吐が絡み合った糸を優しく解して、心の一番辛かった部分に直接語りかける。すぐにでも打ち明けて楽になりたいものを、探るような彼の視線に焦燥が蓋をした。不自然ながらも渾身の自然な笑顔を浮かべ、「別に」としらけた答えを返してみる。自然な自分を創り出している時点でそれを自然とは呼ばないのかもしれないのだが、勘の良い彼を探るには丁度いい決まり文句だった。
彼に悩みを打ち明けたところで、同士は同士だ。私事の問題解決に導くところか、所詮は彼まで巻き込んで苦しませるだけだろう。
彼は私を小さく指差すと、手の甲を顎下に乗せる。
「いやぁ、おれは勘がいいからねー。絶対に、何かあったって顔してる」
彼は空中で頬杖をつくと、分かった、と呟き、すぐ前にあった柵に脚を絡ませる。今は誰もいない時間だからいいものの、普通であれば、あまりに無謀すぎる。
「醇乎にも遂に恋人かぁ、何をいまさらって感じだけどね。長年付き合っている身としては、これが結構嬉しかったりして」
「……勝手に勘違いしないでよ。それに、アンタは私の親戚か何かなの?」
「そうです。僕が親戚の叔父さんです」
「ふざけんな」
私が呆れたように両肩を上げると、彼は爛漫に笑った。彼のことだ、きっと深い意味なく言っていることなのだろう。いや、そんなものは無いと願いたい。彼の言葉には真意を求める必要がないから、相手にしていても楽だ。
「恋人、なんてとてもそう言える関係じゃないけど……でも酔った私が世話になってしまったことは事実で」
「知り合いって、男?」
「いや、まぁ、そうだけど…」
「ほら当たってたじゃんっ」
彼は片方の口角を上げ、悪戯っ子のように笑う。その顔が許されるのは一桁の子供までだということを知らないのだろうか。
笑ってやりたいのに、舌が絡まってうまく口を開けない。仕方なく私は俯いた。
昨日のことを思い出すだけで、胸が抉られるように物狂おしい。どうして、なんて問えば頭が答えを出してしまいそうで、私は唇を噛む。こんな思いをするのは何回目だろう。こんなに醜いから、私はまともな人生も送ってこられなかったのだ。
息を吸って、吐いてみると、懐かしいく心細くさせるような夏の薫りが鼻を刺した。
「今更酔い潰れたって、醇乎はよくあることじゃない。人一倍酒に弱いくせにたくさん呑むんだから」
「夜の間に全部吐き散らしたいからだよ」
「おれたちまだ二十代だって。酒に溺れるのもまだまだ現役だよ」
へらへらと笑うと、片手を左頬にあてて微笑んでみせる。
それだけでも彼の心根が優しいことが伝わってきて、罪悪感に視線を外した。暗闇から長いあいだ太陽を見ていては、瞳が火傷してしまう。
「アズ」
「うん」
「私、ずっと紝ちゃんのためにと思ってやってきたの」
「知ってる」
「ちゃんと就職してお金貯めて、血腥くない、安全でもう何も失わなくても生きていけるようにって……私、どこで間違っちゃったんだろう」
眩しそうに目を細めながら、彼は暁光を見つめていた。
煌めいた双眸に露出の少ない綺麗な肌が相合って、神々しく光る。
少なくとも、と小さく前置きする声は掠れていて、向こう側の景色を見ているかのように壁を見つめる。
ゆっくりと息を吐いてみると、いつもより時間が遅く感じた。
「よく、やったと思うよ」
息を吐くように流暢に、そう言った。
瞼を開けると、もう日が完全に昇っていて、さらに蒸し暑さが増したような気さえする。胸元を煽いでも、あまり涼しさは感じない。
「——夏が終わったら、おれも仕事探さなきゃだな」
ほどよく焼けた健康色の肌が、透き通るように太陽の光を浴びている。健康色とはいっても露出している部分だけの話で、マスクの下は実際どうなのかはわからない。もしかしたら、覆っている部分は切り取られたように色白なのかもしれない。マスク焼け、なんて聞いたことがないけれど。
「好きなんでしょう、日本史学。ならそのまま大学にでも……」
「家が厳しくてさぁ。高校出たら就職しようかなぁって思ってるんだ。親からしたらおれって、唯一の出来損ないでしょ? だから、これからは親が苦労した分、償っていこうと思って。いっそ教諭でも良いかと思ってたんだけど、教員免許なんてすぐに取れるもんじゃないしなぁ」
「……そう、なんだ」
嫌なことを訊いてしまったかな、と彼を覗くと、意外にも楽しそうに笑っていた。楽観性のある人は、付き合っていて楽たわいが無い。
「アズの家って、たしか車検場じゃなかったっけ?」
「車検場というか…ただの個人事業。それに、従業員だって父さんと母さんと、あと手伝いに来てくれる鈴木さんっていうおじさん一人だけだから」
「継ぐ気はないの?」
「んなのねーよ。おれが継がなくたって、兄貴がどうせ継いでくれるんだから」
それに父さんだってまだ元気だし、という声がぽつりと乾いたアスファルトに零れる。
アズのお兄さんとは、何度か会っていて面識がある。というのも、学校外で彼を見かけるとき、大抵彼らは行動を共にしているからだ。
大学生と言ったか、今は工業の専門学校へと通っているらしい。馬鹿だよな、と呟く彼の目には光が漲っていて、口には出さないが、彼はきっとお兄さんのことが好きなのだろう。
雰囲気は違うが、彼はお兄さんといるときが一番幸せそうに笑っている気がする。
工業の専門学校にまで行っているくらいなのだから、きっと家を継ぐというのは本気だ。家のためにそこまでできるというのだから、両親からして出来た息子なのだろう。
「やっぱり、公務員試験受けようかなって」
「公務員? 良いんじゃない。国家資格とるの大変そうだけど」
「ちがうちがう、地方」
「公務員に地方も国家もあるの?」
「あるよ。全然違う」
両手を大きく広げ、分かってないなぁ、とでも言うかのように首を横に振る。本当はもっと鬱陶しいような表情をしていたのかもしれないが、顔を覆うマスクのせいで細部までは見えなかった。
「紝巴は?」
「え?」
「これから、どうするつもりなの?」
これから。
彼の言葉が、やけに大きく響いた。
これから、私はどうやって生きていけばいいのだろう。ずっと一人で、アルバイトして、夜は一晩中歩き続けるような生活を一生強いられるのか。
色々と頭の中で考え込むと、どうしても途中で尚陽の姿が脳裏に浮かんでくる。そんなことを考えている場合じゃないのに、と強く髪の毛を引っ張り、彼の方へと身体を向けた。
私が言葉を発しようとした瞬間、彼のポケットが小刻みに震えた。時計をみると、いつの間にか七時を回っていて、すっかり空は青さを取り戻している。はぁ、と私は溜息をついた。
「じゃあ、もう行かなくちゃ」
「もう行くの?」
「まぁね。朝のうちに全部片付けたいから」
「朝のうち、か。私とは正反対だね」
爛漫に笑い、大袈裟に手を振ってみせると「おう」と敬礼をするような手ぶりを返す。
私は見送りもせず、ただ柵のそばでずっと立ち尽くしていた。扉の閉まる音がいつもよろ大きく感じる。
私は柵に身を預けると、指先で入道雲の形を知らずのうちにかたどっていた。雲の形は単純。もしかしたら、絵心が無い私にも描けるかもしれない。
人は皆、夏に拘りすぎだ。夏が終わってしまったって、冬がまだ残っている。八月の終わりが一年の終わりではないはずだ。
夏は、嫌い。暑さで理性まで蝕まれてしまうよう。暑くてたまらないのに、無性に誰かの体温が欲しくなる。
『青春』と呼んでいたこの夏だって、いつかは朱夏に移り変わって、年老いていつしか白秋に変わってゆく。そして最後には、独りで玄冬に向かってゆくんだ。
ほらね。夏は唯の一季節でしかない。
ポケットに手を突っ込むと、前に尚陽から貰った絆創膏がまだ入っていた。もうこの絆創膏を、全身に貼ってしまいたい。そしたら、少しでも痛みは引くだろうか。
こんなに倦怠感を感じたのは何年ぶりだ。夏風邪にでもやられてしまったのかと疑っても、熱のある感じはしない。ただ、鈍い頭痛が心臓の鼓動に合わせて波打っている。私のまわりだけ空気が薄まっているかのように。
蝉の鳴き声が、痛いくらい鼓膜にはりついている。
遠く聞こえる踏切の鳴る音に耳をふさぎ、柵に身体を埋める。瞳の裏で、田圃の水が空のいろに青く澄み、駅に描かれた白線が窓硝子に反射して煌めいていた。胸を締め付ける美しさに目を瞑り、喉の奥で小さく叫ぶ。
どうも、酷く死にたくなるような季節だった。
Ⅲ
家に着く頃には、もう空が明るくなっていた。
朝日が昇ると、身体の細工は灰色の微粒にのみこまれるようにして消えてしまう。そのくらい、この身体は脆弱なのだ。
私は鏡の前に立つと、いつもよりきつめに胸元を縛り上げた。別に自虐趣味があるわけではないのだが、今はそうしていないと気が収まらなかったのだ。
鏡の自分に笑いかけでもしたら歪んだ笑顔を返されてしまうような気がして、怖くて、私は転がるように家を出た。
億劫なほどに、外は蒸しあがっている。
木陰に入ってみても、それなりのむさ苦しさを感じる。こんな日に森になんか行くものではないのだろう。行く途中で意識が参って倒れてしまうかもしれない。
家に戻ろうか——と考えこんでいるうちに、どういう思考か脚は自然と尚陽のアパートへと向かってしまっていた。不確かな足取りに連れられているうちに、顎から生暖かい汗が次々と流れ落ちる。服が濡れる気持ちの悪い感触に、残った気力でぱたぱたとシャツを仰いだ。
やっぱり暑さはどうにも駄目だ。思考が落ちてしまう。
唯扇風機の効いた部屋を欲しているだけであって、変に下心があるわけではない。そんな平常心を言い聞かせる気魄は現に残っておらず、ただへなへなとした拳で金属製の扉を叩いた。
暑さのせいだけではない、自分自身への失望だ。水に流されて生きてきた浮遊感とは違う、自分で起こした荒波への後悔。
重力に引っ張られるかのように地面に手のひらをつき、こみ上げる吐き気に口元を手で押さえて蹲る。
「——え、ちょっ、茜さんっ」
聴き慣れた平穏な声が、扉の向こうから返ってくる。
安堵よりも先に、小さく胸部が震えた。これが怖気というものなのか、濃くなった血液が手首に鼓動する。心臓を覆うような安堵と不穏が入り混じり、いつの間にか詰まっていた息を喉から吐き出させた。
人に会えて、こんなにも安心したことなんてこれまであっただろうか。きっと、私は物侘しかったのだ。昨日屋上に行ったときから、変に心臓が掴まれているような感覚が延々とおさまらない。希望に満ち溢れるような朝焼けを見ていると、嫌いなはずなのに、どこか人肌が寂しくなってしまうのだ。始まりもしない青春時代の断片が、戻れない侘しさに胸を締め付ける。
肩を持ち上げられるような感覚に目を開くと、尚陽の細い首が髪に触れた。夏を感じさせる白のポロシャツを羽織って、服との境目が分からないほどに白い二の腕が私の肩を抱えて玄関になだれ込む。
柔軟剤の香りがする折れたシャツの端が汗に濡れていることに気付いて、私は小さく喘ぎ声をあげた。
「ぁ……」
「どうしたの、茜さん」
冷徹とも言える冷たい口調で、彼はただ目線を落として薄笑いを浮かべている。その瞳には淡い困惑の色を浮かべていて、言いかけた言葉をすんでのところで噤む。
彼はぱくぱくと口を開く私の顔を見て、力が抜けたように笑い、やっと自然に口を開いた。
「氷は作ってないんだけど——自分で、立てるかな」
「少し、立ちくらみが……」
「そうだ水、今水持ってくるから」
言うなり彼は台所へと移動し、鋼色の蛇口を捻る。水道水が注がれてゆくグラスはまだラベルも剥がしておらず、傷一つない硝子に水が枝垂れていった。
私は、どうしてすぐにお礼の一言も言えないのだろう。何度も悪事を重ね、倒れる寸前の私を家で匿ってくれているのに、お礼の一つも言えないなんて。
「尚、陽」
何故だか分からないけれど、妙に彼の名前を呼びたくなった。
「……こないだは」
「え?」
「こないだは、ごめん」
あぁ、と彼は上の空で呟く。
責めているわけではなく、ただ、思い出すように。
「まぁ僕も、あんなに茜さんが酒に弱いとは思ってもみなかったし」
「それは、ぼちぼち……」
「それに比べたらさっきの日射病なんてたいした比じゃないですって。まさに酔っ払いは何をしでかすか分からないですからね」
彼は俯くようにしてキッチン台を覗くと、「本当」と小さな声で囁く。髪が昼光にあたって、白く煌めいたように見えた。
キッチンの方をのぞくと飲み干した蜆汁の缶が散乱していて、もしかして尚陽も、と変なことを考えてしまう。それも追求するまでもない気がして、あえてそれ以上は訊かなかった。
「何か、あったんですか」
絞り出したようなか細い声が、彼の背中から聞こえた。
尚陽が発したと思えないようなそれに、思わずきょとんと眼差しを曇らせる。慈悲に溢れたその言葉でさえ、その本人から言われてしまえばただの挑発にしか聞こえない。
よろよろとした足取りで席を立ち、下を向く彼の後ろ姿を確認する。
「何か、僕に言いたいことがあるなら言ってください。じゃないと、分からないので」
誘発に聞こえかねないそれも、震える声で放つとなんの効果も発揮していなかった。
質素に浅く頭を下げると、彼は何食わぬ顔で私の前にグラスを置く。尚陽の後ろ姿を目線で追うと、彼の顔がわずかに沈んでいるような気がして、思わず喫驚してしまった。
「『何か』って、……なに?」
瞬きをしない大きな瞳が私を見た。
「あんたは見たんじゃないの、あの化物を」
内臓が宙に浮いたような浮遊感を味わった。首のあたりが妙に冷たく鳥肌立っていて、背中を駆け巡るような冷や汗に身体を震わせる。
「化物?」
「惚けて——」
「僕は化物なんて見てませんよ? 茜さんが言うそれ、クマか何かじゃないですかねぇ」
「——」
「ここら辺よく出るらしいんですよ。森で猟銃をやっているから滅多に見ないけど、昔はよくこっちまで降りてきて人を襲って食ったとか。埋め立てか何かをするみたいで、森林伐採で降りてきたのかもしれませんねぇ。ほら、最近森のほうは色々と物騒だとか言うし、あんまり近づかない方がいいかもしれませんよ」
落ち着いた、されど不明瞭な声で、尚陽は目を伏せた。
純白の袖から覗かせた白い腕を引き寄せ、女の子のように身を丸める。平気で片手に掴めそうなほどに細く、脆い腕。痩せ細っているのに不健康に見えないのは、血管が浮き出ていないからだろうか。紫色の見えない人形のような美しい身体は、太陽に当てれば焼け焦げてしまうのだろう。
「物騒」
咄嗟に身構えて出た言葉がそれだった。
「えぇ。こんな小さな街なのに、不思議と物騒な沙汰が多いんですよ。ちょっと昔までは暗くなるまで子供の声が聞こえていたのに、最近はぱったり」
「人が減った、ってこと?」
「んー、言ってみれば単にそうかもしれませんね。だいぶ学校も少なくなったし、わざわざ遠出してまで麓の学校に通う人なんて、もういないでしょう」
彼の口述する言葉には、一抹の淋しげな音が混ざっていた。
けれど哀しみとはまた違く、懐かしみに近い慈悲溢れる目元を伏せ、目端のグラスを手前に寄せ集める。
「昔はいたの?」
「少なくとも今よりは」
「じゃあ学校のみんな顔見知り、みたいな」
「田舎でクラスメートも生徒自体少なかったから、確かに他と比べて人との距離は近かったかもしれませんね」
伏せた栗色の睫毛が、頬に影をつくった。
「夕方なんか、川に飛び込んでずぶ濡れになりながら帰ったりして。僕はいつも背中を押される側でしたがね。水滴垂らしながら学生帽ぐるぐる回して、ただ笑って夕陽仰いで歩いて。今考えれば、あれが青春ってものなんですかね」
乾いた唇を舐めて潤しながら、彼は目を細めた。
「あんたも、まだ現役でしょ」
「いやぁ。今川に飛び込んだら駄目ですって。確実に腰やります」
「なんとも年長を一瞬で敵に回す発言だね」
無垢な瞳に溜飲を下げ、胸に当てた掌に息を吹きかけた。
小さな溜息が、近くを通る車のエンジン音に掻き消される。代わりに響いたのは腹から吐き出た彼の笑い声だけだった。
「あぁ。茜さんがクラスメートだったら良かったのになぁ」
傷を覆うような優しい声明が響いて、のめり出す彼の陽炎がゆっくりと揺らいだ。
川に飛び込む少年の姿が鮮明に脳に響いて、指先が小刻みに震える。
「どうして?」
「茜さん、川遊びなんてしたことあります? 放課後、裏山で遊んだりとか、川辺で電車を見つめたりとか」
「そんなの、ないわよ」
「裏山の川はここより綺麗なんですよ。今の時期は、小魚がたくさん出てくる頃かなぁ。裸足になって川底を歩くと涼しくて、でも川石に何回かずぶ濡れになって帰ってきたり。夕陽に反射する空っぽな電車を見つめて、あぁひとりぼっちなんだって哀しくなったり」
めずらしく、彼の頬が朱色に高揚した気がした。
「ここらに電車なんてあったの?」
「もう何年前になるんだろう。僕が、高校を出た頃に廃線しましてね」
「じゃあ、もしかして学校も」
「えぇ、同じ時期に廃校になりましたよ。子供のころ好きだった景色も、もうすっかり変わってしまって。埋め立てって言うんですか? 水道工事の関係で、あんなに綺麗だった川もなくなって、通った学校も、思い出が詰まった電車も、クラスメートも、みんないなくなってしまって。随分と寂しくはなりましたよ」
睫毛を伏せて、口を閉じたまま小さい笑い声を立てる。
恋人を失った時も、彼はそうやって笑ったのだろうなと思った。
「学校かぁ。私、小学校の校歌だけは憶えてる。緑ひたすらに讃えよって」
「無駄に校歌で山とか川を讃えてた思い出しかないですね」
「それしかないんだから、そりゃあ讃えるよ」
背中をのけ反りながら、大袈裟に彼は破顔した。
涼しい部屋にいると、よけいに、今日が快晴であることに気がひける。緑色の少なくなった街並みは、ひと気ない寂しさに覆われて静まりかえっている。まるで昔の思い出さえもが消え去ってしまったかのような侘しさに、震える右腕で胸を強く掴んだ。
外にしばらく眺入っていると、窓際に立てられた写真立てが目に止まり、私は何気なく歩み寄り手に触れてみる。有りふれた、木目のデザインのものだった。
「これ、いつの?」
「多分中学の頃、かな」
「嘘っ、今とあんまり変わってないね」
「それって褒めてるの?」
褒めてるよ、と笑って見せると、彼は冷めた蜆汁の缶を音も立てずに啜った。
「中学の頃は、どんな感じだったの?」
「どんな感じって?」
「自分の立場的に」
「——あぁ」
振り向くと尚陽は首を捻るようにしてはにかんでいた。
そうだなぁ、と彼は口述する。
「……僕は、あんまり目立つ方でもなかったし、友達も少ない方だったから、どちらかというと陰気扱いされてた方かなぁ」
どちらか、というと。
同級生の間で、格付けられていたのか。
一般的な学校の生徒だと、主に二つのグループわけが行われるらしい。ひとつは、行動力と原動力のある、いわゆる陽と呼ばれる人々。もうひとつは、大人しい人や人から理解を得にくい趣味や才覚のある、陰と呼ばれる人々。身勝手ではあるが、クラスの主導権を握っているのは陽方の一部の人々のみだ。幾つかの政治主導のように、強いものが弱いものを喰らい、立場的にも権力的にも強くのし上がる。不条理に逃げた者は蔑まれ、監獄か刑務所に入っているかのような劣等に身を焼く。
「気持ち悪ぃよなぁ」
小さな呟きが聞こえた。
彼の口から溢れた汚いそれが、尚陽の本音なのではないかと思った。
「それで、あんたもそのカーストをやってるわけ」
「嗜み程度には」
「大人だねぇ。性悪だ」
「大人ですから」
けらけらと乾いた笑い声を出し、柔らかに人差し指を写真にあてた。
「これが、十五の僕」
前から三番目の端っこ。
彼はそこに、ぽつりと立っていた。隣にいる人が長身なため、酷く小柄に見えてしまう。皆が半袖の体操服を着て、肩を組んだりVサインを送るなか、一人だけ長袖のパーカーを羽織って薄く笑っている。写真の中の尚陽は、とても楽しそうには見えなかった。悔しさでも、虚しさでもない、なんとも言えない物苦しそうな表情で、レンズの向こう側を覗いているよう。
その鈍い瞳の鬱々とした美しさに、思わず写真に顔を寄せた。
「やっぱり綺麗な顔してるねぇ。瞳に柑子色が混じってる」
「誰も、そんなのに興味ないよ」
「勿体無いなぁ」
「茜さんも綺麗ですよ?」
「口説いてるの?」
「口説いてないですって。茜さんの学生の頃の写真も見せてもらいたいくらいですよ」
期待に煌めく双眸に、薄ら笑いを浮かべる。
「私の写真は……もう、残ってないかもしれないな」
もしあったとしても、私は写っていないだろう。そう思ったが、言うのを噤んだ。
「それは残念」
私は別に、彼へ同情するわけでも共感するわけでもなく、ただ「ふぅん」と空返事を返した。
彼の顔を凝視すると、余裕のあるような、可愛らしい笑顔が返ってくる。
怖気を感じながらも、何故か彼の笑顔に悪気は持てなかった。
「でも、一人だけ凄く変わったやつがいたな」
「うん」
「梓っていう××の子なんだけど」
「………」
梓。頭の中でその名前を何度も転がす。名前に気を取られて、最後の言葉をどうにも聞き漏らしてしまった。
名前が同じだなんて偶然、別に珍しいものではない。梓、なんて名前は全国に何百人といるはずなのだから。
だけれど、一元の可能性にかけて、彼に尋ねてみる。
「——その梓っていう人、苗字は榎本?」
「あぁ、そうだよ。知ってるの?」
「……いや、まぁ」
榎本梓、と名前を並べてみても脳裏に浮かぶ人物像に違いはなく、屋上で語った一人の男が頭の端で小生意気に笑っていた。
「僕も、あんまり喋ったことはないけど、凄く破天荒だったから、憶えてる」
私は『破天荒』という言葉にクスリと笑い、雑に「そうね」と頷く。
破天荒といえばそうなのだが、一言で表すならば彼は『不幸』な人だった。
高校受験は、親が行く途中に交通事故を起こしたせいで受けられなくなってしまったし、単位も成績もある程度とっていたのに、同級生に裏切られて留年までしてしまった。
でも彼は、そのことに関して文句も何も言わない。悪くいえば利用されるような性格なのだけれど、別に、嫌な人というわけではない。
「今も元気でやってる? 殆ど学校休んでて、ふと来ると問題起こして早退していくような人だったから……」
「元気だよ」
何食わぬ顔でお茶を口へ持つ。何故か、懐かしい匂いのするそれを飲む気にはなれなかった。
「良かった」と彼は膝を崩し、後ろにあったソファーへと体を委ねる。肩に触れたところだけ低反発であるクッションが沈み、まるで一体化したような光景に思わず笑いがこみ上げた。
「まるで自宅みたいね」
「自宅だよ」
「あぁ、そうだった。居心地が良すぎて忘れていたわ」
「そりゃどうも。来たいならいつでも帰ってきな?」
「実家か」
彼はけらけらと首を起こし、折れたフードの布を丁寧に伸ばす。
改めて見るまでもないのだが、自分でも憎たらしいくらいに、彼は華麗だった。夏の烈とした日光が尚陽の輪郭を照らし、よけいに煌めいているように見える。これで嫌われていた、だなんて、中学の連中は余程の自己愛だったのだろう。そうとしか思いようがない。
「……茜さんは?」
「え?」
「茜さんは、中学の頃どんな感じだったの?」
「……」
中学の、頃。
記憶の中では、中学時代が鮮明に印象づいている。そのあとの月日はあまり憶えていないのだが、濃ければ濃いほど記憶は機能しかねないのだ。
「中学の、頃はね」
「うん」
「特に嫌われてはいなかったけど、別に好かれているわけでも、なかった。そのギリギリのところを維持するようにしていたから。……ただ」
「ただ?」
ただ、とそこで言葉をためると、すうっと息を吸ってみる。喉の奥が冷たく感じるほどに。
「……ただ、酷く自分が嫌いだった」
言い放つと、俯きながら服の袖を左手の先で握りしめる。ドラマでよくあるような仕草が、切り取ったように指を動かす。手先は切り取られたように袖を掴み、だんだんと頭の中にある堤防に波が打ち寄せてくるようで、私は焦った。
「ただ嫌い、だった。自分の性格も趣味も全て。私がそこにいるだけでまわりを染めてしまう、黒い絵具みたいに思えてね」
「黒い、絵具」
「えぇ。黒は、まわりの色彩を黒く染めてしまうでしょう? それに黒色は、何を混ぜても黒のまま。永遠に、塵は塵のままであることと一緒よ」
思っていたことが、簡単にぽろぽろと出てきてしまう。どうしてだろう。彼の澄んだ眼のせいだろうか。それとも、この居心地の良い部屋のせい。どちらだとしても、もうどうでも良い。
現在にどう足掻こうと、後悔は流れ着いてくれないのだ。
「……チタニウム」
「え?」
「チタニウムホワイトって、知ってる?」
幼い子供に教え諭すような柔らかい声で、そう言った。
目を伏せ、知らない、と私は首を横に振る。
「チタニウムホワイトは白の仲間なんだけど、混色すると何色でさえ純白に染めてしまう、『黒』を唯一染めることのできるものなんだ」
黒を。
「……」
私は、彼の目を見た。口先でさえ相槌が打てないほど、只々驚いて。
急な衝動に、心臓がきゅっと縮こまる。絵具のことではない、尚陽の一言一言に、身体を貫かれたような気持ちだった。
「………そう、なんだ」
彼は、気張るように身体を前に屈める。
なぜかコンビニでの尚陽のように、ただ「ありがとう」と口を開くことがせいいっぱいで、他に気が回らなくなってしまう。
嬉しかったのだろう、きっと。拒んできた他人の真意を今更に意識するなんて、鈍すぎる。もっと早くにこの感情を引き抜いてしまえたら、化物なんかになることも無かったであろうに。
彼の方を向き直すと『借りは返した』といわんばかりの含み笑いに、思わず唇の端から吹き出す。笑ってみると、意外にも、私も普通の人と同じような笑顔ができることに驚いた。
体裁でない感情など、人形に植え付けられていたものなのだろうか。長年使わず腐ったそれは、少しも錆びることなく潤滑に流れ出たのだ。
尚陽は、そんな私の考えには気触れもしないように、口につけたコーヒーカップを皿の上に戻した。緊張状態にあると水分が取りたくなる、と聞いたことがあるが、彼に限ってそれはないだろう。
「もう、帰るの?」
「えぇ、そうね。もう日が傾いてきたから」
泊まっていけばいいのに、という言葉が冗談であると気付くのに、数秒と時間を要してしまった。やぶさかにも、恥ずかしくて赤面する。彼はそんな私を見て、恥ずかしげに笑った。
「送っていきましょうか?」
靴紐を結んでいると、後ろから小さく声がした。
「あなたの方こそ拐われるか心配だわ」
「さすがぁ。やっぱり男の家で衣服を脱ぎ捨てる女は一皮剥けてるなぁ」
「やっぱり何かあったんでしょっ」
頰を染めて声を荒げると、否定も肯定もせず彼はけらけらと笑って手を振った。
扉の外は空気が少し冷たくて、足元の段差につまずき声を上げる。
外は、いつの間にか暗くなっていた。
昼間の騒がしさがなくなった街は静かで、すぐそばをはしる電車の擦れるような音だけが只々虚しく地面を伝ってゆく。多くの店はもう電灯が消えていて、唯一残る雲の端くれは、夕日で真っ赤に染まっていた。
田舎道の小さな橋で、燻んだ紺色の服を着た学生が西日の下で手を振り別れて行く。昔を思い出させるようなそれに、思わず目を背いて何知らず走り去ってしまった。
不意な寂しさに、唯一明かりのついていた文房具店へと吸い寄せられるように歩みを進める。
嗅覚を刺すようなこの匂いは、かつての学校の校舎とよく似ていて、懐かしいような変な感じがする。
私は迷わず絵具のコーナーへ歩くと、『学生用』と描かれた可愛らしいイラストの横に、チューブ式の絵具が何十種類も置かれていた。かつて授業で使っていたものだ、ある程度の愛着がそこには残り、未だ抜けきれていない。
お嬢さん、そう呼ばれて振り返ると、色彩に汚れた服を羽織る、老年の男が私の方を向いて微笑む。大柄だからだろうか、無駄に圧迫感があった。
「お嬢さん、絵がお好きですか」
店内を軽く見渡してみても、私以外に客がいる雰囲気はない。
いいえ、と思わず言いそうになってしまうが、そうしたら、説明をするのが面倒だ。私は適当な口ぶりで「えぇ」とこたえると、また絵具に目を落とす。
そうですか、とその男は言うと、今度は「何色をお求めになりますか」と無駄に間延びしたような声で言入れをする。全くしつこい店員だ。この時間だということもあるだろうが、客一人につきっきりで販売するだなんて、さすがは独裁店、よっぽど暇なのだろう。
以前にも聞いたことがあるような、背中が掻き毟られるほどに流暢で、つばが粘りつくような喋りかた。
だが、店員の喋りかたなんかにいちいち文句をつけていては、話が進まない。私は仕方なく、その店員に昼間尚陽から言われた絵具の名称を伝える。少しも考えずに、その男は意気揚々と正反対の棚を指差した。自分の店なのだから、配置を把握しているのはそこまで凄いと言えることではないというのに。
「そちらなら、油絵具のコーナーに御座いますよ」
あちらです、と指差す店員のあとについて行くと、さっきの水彩絵具とは違う、瓶製の絵具が数種類ときれいに並んでいた。
その店員が言うには、ホワイトでも何種類かあって、そのうちの一番被覆力に優れたものだそうだ。
『チタニウムホワイト』と表記された瓶を、割れないようにと大切に手元に入れる。
私の“ありがとう“という言葉を遮るように、唐突に「そうだ」とその店員が一層大きな声で叫んだ。
「お嬢さん、絵をお描きになるのでしょう? でしたら、そこにある油絵具、代金はいただきませんから自由にお持ち帰ってください」
「……い、いえ。悪いです」
その男は、いやぁ、と左手を首に当てると、失笑を浮かべる。
「……この店も、もう、店仕舞いをしようと考えていまして。わたしももう絵を辞めようと思っているので、この絵具の処分をどうしようかと迷っていたところでした。少しでも持ち帰って使っていただければ、絵具も幸せかな、と…」
「……」
別に絵具なんて、絵を描かない私が貰っても意味がない。
だけど、そう言い放つ老年の男が、あまりにも切なそうな顔をしていて——つい、私は棚にあった、朱色と蒼色の瓶を手に取ってしまった。
自分でも分からないくらいに、手先が勝手にはたらいてしまう——なんて、まるで盗人のようだ。色の違いもろくに選ばずに、私は両手に抱えた絵具をレジへと運び、台の上に並べる。
「いくらですか?」
「だからお代は——」
「白い絵具だけでも、払わせてください。これは、単に私の自己満足ですから」
白い絵具、だなんて。
不識がばれてしまったかだろうか、と店員を見つめると、ただ、嬉しそうな顔でこちらを見つめていた。
幸せそうな、表情で。
私は、その顔を見ないようにと男に背を向け千円札をレジ台に置くと、店を出た。
ありがとうございました、と後ろから乾いた声がする。もしかしたら、あの店からお礼の声が聞けるのも今日で最後かもしれない。
さて、と暗い道の真ん中に立つと、絵具が入った袋を右手に絡めて、自宅へ歩いた。
絵具は、尚陽にあげれば良い。彼なら、私なんかよりもっと、あの店員の思いに答えてあげられるだろう。
きっと、そうだ。
もう月が出る宵になろうというのに、自宅への足取りはめずらしく軽かった。
こんなに気分の良い夜は、久しぶりだ。
Ⅲ
明け方、人が一人、死んだ。
まだ夜が明けたばかりだというのに、朝っぱらから嫌なニュースを見た。
殺人なんて特別珍しいものでもないのだけれど、現場の血痕が映し出されてしまうとそれとなく嫌気がして、テレビの電源を落とした。傍観しているだけで、昼間、私は一度もそのような事件に巻き込まれたことが無い。主人公柄でないからだろうか、端役である、唯一の悦ばしいことだ。
今日はあまり暑くならないという予報が流れていたので、それを信じて、私は少し袖の長いアウターと革のブーツを身につける。予報が外れたらかなり場違いな服装だが、今日に限ってそれはないだろう。
ニ十分ほど歩くと、いつも通っている、青々とした樹林に出る。奥のほうに進むと、誰の手入れをしていない荒野がひろがっているのだが、その中になぜか一箇所だけ切り開かれたような土地がある。
薄暗い中の、唯一光が通る場所。
「尚陽」
呼んでみると、廃れた荒野に似つかわない美しい少年が、私の方を振り向き嬉しそうに微笑んだ。
その手には、画帳と鉛筆が丁寧に握られている。
「今度は何を描いてるの?」
「荒野、かな。この朽ちゆく樹木の感じが美しいでしょ?」
「そう。よく分からないけど」
遠目に彼を見ると、コートとワンショルダーであるリュックのせいで、余計に俗世のサラリーマンのように見えてしまう。かげろうが黒々しく風に揺れ、開いた雲の合間に姿を現した。長い影が、彼の身体を支配しているかのようにも見える。
そういえば、と私はポケットから昨日買ったばかりの油絵具を取り出した。
「これ、私が持っていても使い道がないから尚陽に、と思って」
「買ったの?」
高かったでしょう、と彼は気遣わしげな顔を浮かべる。
「違う、貰ったの」
「……それでも」
「いいの、貰って。どうせ私も無料で貰ったんだから」
昨日部屋に上げてくれたお礼も兼ねて、と私はつけ足す。
彼の唸っている姿を見て、どことなく昔飼っていた子猫を思い出させてしまう。一旦私の手元から目を逸らすと、右手で首の後ろを掻き毟った。
昔飼っていた猫。飼っていた、だなんて、いくら可愛がったところでいずれは主人を忘れて、膝の上から逃げ去ってしまうものなのだ。
「……じゃあ。ありがとう」
差し出すと、尚陽は真っ白な左手の平を私に向ける。
日焼けを感じさせないほどの、真っ白な、腕。かといって病人のような青白さではなく、すらりとした綺麗なものだった。
身体の弱い部分を除けば、もう完全に女の子のよう。黒い服を纏っているからか、余計に青白く感じる。
肌の弱い人は日焼けをしない、というのは本当なのか。昔誰かに聞いたことがあるのだが、紫外線に焼かれた部分だけが赤く腫れ、いずれ黒く剥がれ落ちる、という肌の循環が延々と行われるらしい。それはそれで大変なのかもしれないが、黒くならないという点では少し羨ましくもある。
「茜さん」外見に似つかわない、少し低いような声が私を呼んだ。
彼は少しバックを漁るように目線を落とすと、やがて文庫本を手に嬉々とした表情を浮かべていた。
いや、文庫本と呼ぶには厚すぎるくらいだ。もしかしたら、一般的には大冊と呼ぶものなのかもしれない。
「どうしたの? その本」
「いやぁ、最近読書をはじめてみたんだけど、これが結構面白くて。もし良かったら茜さんにも貸そうかなぁって、『そして誰もいなくなった』」
そして誰もいなくなった。でもそれはおそらく短編小説であったはずだ。
読んだことはないけれども、どこか懐かしい記憶がある。前にアガサ・クリスティーの映画を見たときに、ついでにと珍しく書店に立ち寄ってみたのだ。額縁のような表紙が、何となく印象に残っている。
小説を読んでもあまり情景が思い浮かばないのに、映画を観るとなぜか感涙が極まって泣いてしまうことも多くあるだろう。人物の心境や行動面がわかりやすいからだ。わかりやすい、なんて幼稚な考えなのかもしれないが、活字を苦手としている人たちにはちょうど良いのかもしれない。
ニュースを見ても、近年の若者が活字に触れる機会はだんだんと減ってきているらしい。若者と一括りにしてしまえばそういう風潮なのかもしれないが。
いや、現代をそう甘くみてはいけない。
「それって、合成版のもの?」
「え、違うけど。どうして?」
「…そんなに分厚かった記憶は無いわ」
そう? と彼は猜疑するように私を見つめる。
「まぁ、有名な小説だから誰が書き直し出版をしていてもおかしくはないけどね。元々翻訳されたものなんだし」
「それもそうね」
「それに、別に分厚くはないんじゃない?」
「………いや」
せめて今まで読んだ小説の中では一番厚い。私がそう言うと、尚陽は目を細めて軽く頷くような仕草をみせる。『読んでみなさい』と訴えているかのようなそれが、私にとってはひどく嫌味に感じた。
「死ぬまでに読んでおきたい本、っていうサイトに書いてあったから、きっと面白いよ」
「そのサイトも、貴方みたいな人を対象には作っていないだろうに」
「そうかなぁ、『死ぬまでに』っていう言葉に変わりはないんじゃない?」
えへへ、と彼は楽しそうに笑う。
全く変な男だ。どういう感情で言ったものだろう。
「…でも、良いの?」
「何が?」
「その様子だと、尚陽もまだ読み終わってないんでしょう? 私に貸したら、半年は返ってこないと思うけど」
半年。
その数が人間にとってどれだけ大きなものであるか、私はよく知らない。
でもきっと、私が感じるものよりは随分と長いものなのだろう。大事な時期であれば、余計に。足下に咲く草花が、もどかしく私の脚をちくちくと刺す。些細な草花なんて、知ったことではない。
全身の意識を、彼の瞳へと向ける。
「半年? そのくらいなら、待つよ」
「……本当に?」
「僕も、半年くらいならまだ死なないよ」
「……」
風が吹き荒れ、樹木が滝の打つような轟音をたてる。
端で、「そっか」と静かに呟いた。死期だなんて、私は何をそんなに怖がっているのだろう。今さらになって、他人の恐怖を共有する必要も理由もないはずだ。そんなことで感傷に浸るくらいなら、最初から彼のことをいたわってあげればよかったじゃないか。
それが出来ないのは、所詮自己中心的に物事を成しているからだ。
それが一番手っ取り早い自己防衛のすべなのだが、かえって他人のことを傷つけている可能性だってある。水の波紋のように彼の声が広がって、いずれは感情に紛れて消えてしまう。その程度のものなのだ。
かといって、それにたいして無情でいられるわけでも無いのに。
「あれ、顔色でも悪い?」と明らかに血色の良い貌で不安そうにしている彼を見て、思わず呆れて笑ってしまった。
尚陽は私に誘われるかのように口角を上げると、口を押さえて笑う。くだらない、くだらないと解っているのに、ただ理由も無しに私たちは笑い合うのだ。
これが人々が俗に言う『夏の魔法』というものなのだろう。きっと、そうに違いない。
「…あと、少し気になったんだけど」
「なに?」
「何か、変な音が聞こえない?」
「聞こえるかなぁ」
「笛の、音みたいな」
そんな怖いこと、と言おうとしたところを、尚陽の頓狂な声が遮る。
「夏祭り、じゃないの」
どうしてそんなに楽しそうなのか、という疑問は一旦置いといて、私は軽く溜息をつく。
夏祭りという夜のイベントの日は、人がむやみにたむろって、夜中に散歩も出来やしない。酒の入った若衆が道に座り込み、付近に近づくことすらできないのだ。
ブルルン、と壊れたエンジンのような音が道路を通り、汚染された煙霧と弾いた砂利だけを残して去っていった。そうか、今日は車の数も多いのか。
田舎では、自家用車が必ずしも必需品となってくる。未成年運転やスピード違反などの法律は都会と何も変わらない。取締りは少ないが、スピードに関して守る人は守り、守らない人はとことん守らない。多分そこら辺はあまり違いがないのだと思う。
車が必要というのは、隣の家や店までの距離が遠いわりに、電車やバスがはしっていないからだ。
だから、高校生にもなれば車やらバイクやらの免許を持っているというのが大概になってくる。持っていない人からいえば、ただのガラの悪い連中にしか見えないというのに。
この日だけは、毎年鬱々として仕方がない。
「……そうね」
「そっか、夏祭りなんて行ったことないや」
「ないの? 私も無いけど、尚陽は行ったことあるのかと思っていたわ」
「無いよ。というかそれ以前に行く人がいないからね。でも、その景色は一度だけ見たことがある。神社が提灯で飾られていて、見慣れない屋台が並んでいて」
きれいだった、と一層小さく彼は口にした。水々しい彼の唇が一層美しいもののように見える。
夏祭りは彼にとって、きっと切ないものであったのだろう。
「……」
「じゃあさ、僕らで行ってみようよ。今からでも遅くはないでしょう?」
「えっ」
「茜さんは、夏祭りが嫌いなの?」
「…いや、嫌いというわけでは」
「じゃあ、行こうよ。死ぬ前にもう一回くらいはあの景色が見てみたいんだよね。自分でない、誰かと」
さっきまですぐに死なないと言い張っていたのに、矛盾している。
仕方なく「しょうがないなぁ」と口を濁し、口元で笑ってみせた。
私自身、別に夏祭りが嫌いなわけではない。ただ、あの焼けつくような人の匂いがどうしても好きになれないのだ。肌が触れる感覚に、嫌気が差してしまう。
潔癖ではない筈なのに。
「……尚陽って」
「うん?」
想像通り、前を歩く彼の物柔らかい笑顔がかえってくる。
「家に行ったときに気が付いたんだけど、自転車持ってるんだよね?」
「そうだよ」
「どうしていつも使わないの?」
どうしてって、と彼はめずらしく少し考えるような表情を見せた。
もう暗くなりはじめた夜気が、頬をそっと撫でる。空気が生温い。
「…あれ、もしかして荷台にでも乗せて欲しかった? 映画のワンシーンみたいに」
「私に、そんな少女めいた感情はないわ」
残念ながら、と耳元をくぐもる。
尚陽は日の落ちた空に息を吐くと、「茜さんが歩きだからだよ」と付け足した。
自分が言い出したことなのに、私は一瞬なんのことか分からずに呆然と彼を見つめた。気づいてしまうとなんだか恥ずかしくなり、不自然にも頬が赤らむ。
これだから、彼は憎めない。
口では悪く言おうとも、本質的には相手のことをちゃんと考えている。私には到底出来ないことだ。
不意に尚陽の目を覗くと、暗闇だからだろうか、不思議と双眸が光を放っているかのように見えた。視線に気づいたように、彼は私と目を合わせて不適に瞼を伏せる。私より背が高い尚陽は、どう見方を変えても私の顔を見下ろす様になってしまう。彼に見下ろされるのは何かと気に食わない。
地面を睨んでいても仕方がないだろう。せっかくここまで来ているのだ。
ぼおっと灯る神社を眺めると、祭りだからか珍しく灯篭の中が明るかった。
「見て、茜さん」
黙って、彼に言われた方に身体を向ける。
暗いはずの参道が光に照らされたかのように溢れかえっている。懐かしいような、飴の薫りがふんわりと空気越しに匂った。
「……きれい」
はじめて外の世界を知った、子供のように。
きっと私の目は、零れ落ちるほどの光に満ちているのだろう。
あぁ。私は活きているのだ。どうしようもないくらいに。
そうだね、と煌めく目を閉じるように、彼は笑う。目に溜めた光が、目を閉じた拍子に滴る。淡く、このまま消えてしまうのではないかというくらいに、かがやいて。
苔と青木に囲まれる鳥居に腰掛け、人の流れを目で追ってみる。何も言わずとも、尚陽は私の隣で一心に神社の灯を見つめていた。
ここにくる人間は皆幸せそうだ。
柄のある浴衣を着て、人は少なくはあるが、古びた鳥居を人々がくぐり抜けてゆく。
りんご飴を持った五つか六つの女の子が嬉しそうに、神社から暗やみの中にと走り消えていくのを見た。一人だったから、お母さんにでもお土産を買っていったのだろう。それはもう、本当に幸せそうに。
お母さん、か。
ふとした少女の仕草に自分の幼少期が重なる。女の子の未来が頭の中に次々と浮かんできて、それらを首を振って掻き切った。人の未来を想像するほど失礼なことはないだろう。そんなもの、誰も想像なんてできないものなのだから。
それにしても、夜に小さな女の子一人で出歩けるほど、この辺りは安全なのだろうか。人の規模は変わらないけれど、今日ばかりは神社の周りに活気がある。普段は、ここらへん一体に人参やら茄子やら大根やらが植えられていて、茂たような無人の土地になっているのだ。この山奥に神社があることもよくは知らなかったし、行くことなんて更々無いと思っていた。
はぁ、と私はわざとらしく吐息を吐いてみせる。
「……そうだ、尚陽。私、こんな格好だけど良いのかな」
「どうして?」
「夏祭りって、普通は浴衣で来るものなのでしょう?」
「…んー、別に、決まったことでは無いんじゃない? 唯の伝統っていうか。それに、その服だって外衣で和服にも見えるよ」
クラシカルケープよ、という言葉を呑み込む。どうせ言ったところで、彼にとっては無駄な入り知恵なのだろうから。
「じゃあ、屋台でもまわろっか」
「……前にも言った気がするけど、私あんまりお金がないのよ」
「屋台くらい奢るよ。それに、ここまで来て帰るつもりだったの? 見ただけの思い出なんて、切ない以外の何者でもないよ」
「私は、もともとそのつもりで」
騙されたと思ってさぁ、と尚陽が私の手を引いて、境内まで連れ込む。いきなり引かれた衝動で肩が少し前に屈んだ。僅かに見える彼の顔がとても楽しそうで、心嬉しくて、いっそ、騙されてみるのもいいかと思ってしまった。
少しばかり自分を解いても、一夜くらい戯れでこれまでの日々にはきっと替わらない。
ここに居るとなぜか心臓が軽くて、いつか見た夢のように明々としている。自分の劣等さなんて、微塵も気にならない。もしかしたら、『夢物語』という言葉はこのためにあるのだろうか、と思うほどだ。
なんとなく実感が持てなくて、路面に靴を擦る。
擦り減る足底に感覚は残っていた。
「あ、そうだ茜さん。お酒、飲んでもいいんだよ?」
「要らない。今後絶対に飲まないと誓ったばかりなのよ」
「今となればね」
「尚陽も、私がここで脱ぎ出したら困るでしょう?」
地面を指差して底意地悪い表情を見せると、彼は声を出して大柄に笑った。ロリータ風体の少女が脱いだら警察沙汰だね、と面白そうな口調で口走る。
神社の本館から響く太鼓の振動が、地面をつたって伝わった。
「……りんご飴って」
「りんご飴? やっぱり食べたくなった?」
「違くて。りんご飴のことを聞きたかっただけよ。私、一回も食べたことがなくて」
「そっかぁ、屋台でしか売ってないもんね。僕も小さい頃、家を抜け出して買いに行ったことがあったなぁ」
林檎に飴をからめた、至ってシンプルなものなんだけどね。
落ち着いたような口ぶりで——けれど少女に夢を持たせるには十分なほど、彼ははにかむ。まだ断言したわけではないのに、なぜか過大な期待を彼へと向けていた。
「どうしたの? やっぱり欲しくなった?」
「…………うん」
こんなにも正直に物を言ったのははじめてかもしれない。
尚陽は一瞬驚いたように私を見つめると、「そっか、そっか」と鬱陶しいほどに口角を吊り上げた。
会計は、一般の店と比べてあきらかに早く、彼が会計を済ませるまでをあっという間に感じさせる。その割に並ぶ時間が多いのは癪だが、仕方のないことだ。
彼は私の右手に飴を握らせると、嬉しそうに微笑む。なんとなく、お兄ちゃんがいたならこんな感じなのかな——という想像が思い起こされた。
飴は思ったよりも重くて、だけれどそれを越える優越感に満たされる。
「ありがとう」と珍しく素直に呟くと、側にあった石に身体を任せてパッケージを丁寧に開いた。飴の表面が月灯りにてらされて、赤々と提灯のように火が灯る。澄んだ飴細工が、鏡のように月の光を反射していた。
飴はまだ温かい。温かい飴なんて食べたことがないが、物好きにとっては好奇心の塊のような代物だ。口につけると砂糖菓子のような甘さが口の中に広がって、強い着色料が唇を色付ける。
「……甘いわ」
「甘いの嫌いだった?」
「別に」
「なんだぁ、もし嫌いだったら僕が食べてあげようと思ったのに」
私は顔を伏せ、誰からも突っ込みが入らない哀れな少年に、「変態」と言葉を浴びせてやる。
酷い、とも何とも言葉は返さずに、彼はまた声に出して笑った。それが彼なりの優しさあることを、私は知っている。知っているからこそ、無難な対応で済ませようとしている心に少しばかりの傷が募った。
傷つけてくれても、良いのに。
そんなに私は繊細な人間ではないのだから、逆に彼の存在が遠く感じる。それが日常化している尚陽にとっては、そんなに意識してしていることではないのだろうが。
他人に多くを求めてはいけない。
いくら理解心があったって、哀しいものは哀しいのだ。
こんなことで傷ついてしまうのは、私くらいだろうか。いくら英明や利巧さを手に入れたところで、感情までは変わらない。
轟々と鳴るエンジン音に、なぜか胸騒ぎがする。
「……尚陽って、そういえばどうして私のことをさん付けするの?」
「え?」
「出会った時から、ずっと『茜さん』って言ってるじゃない。私たち、同い年なのに」
「…同い年なんだ」
「あれ、言ってなかったっけ?」
「言われてないよ」彼は首を振る。
自分から敢えて訊かなかったのは、女性に歳は聞かない、という存在意識からだろうか。私はまだ『女性』ではないというのに。
「言い忘れていたかもしれないけど、私に歳なんて関係ない。だから、変にさん付けで呼ぶ必要もないの」
「茜、って?」
「そうね。私は構わない」
茜かぁ、と何度も彼はその名称を読んでみせる。他人に名前を呼ばれるのは、何ともいえない羞恥ともどかしさが伴ってくるものだ。
「……でも、いきなり呼び捨てるのって威圧感がない? 連れ合いか、恋人の嘲りみたいで」
「嘲りなのかなぁ、そしたら、どっちでもない人はどうすればいいの?」
うーん、と低く思い為すように唸る。
どちらかといえば絶対に前者だろう。前者であるはずなだが、連れ合いごときに物故に関わる話などはしない。
思い返してみると、結局どちらでもないような気がしてくる。ついこの間出会ったような柄で仲間と捉えるのも意識過剰だし、かといっていいかげん他人という捉え方も冷然だ。
彼とは過去の話で歓談したわけだし、もう知人といえる仲なのかもしれない。
尚陽は私の方を振り向きもせず、「でもさぁ」と口にした。
「さん付け、くらいがちょうど良いのかもしれないね。一応、僕なりの敬意を込めて」
「私に尊敬されることなんて一つもないと思うけど。あぁ、じゃあ私も『尚陽さん』って呼んだほうが良いのかな? 恋人の嘲りなのでしょう?」
「僕は良いよ」
「だったら」
「これが、恋人の嘲りであっても」
「……なにそれ」
私は歩み寄る足を止めた。意識的に止めたわけではなく、数歩先を行く彼の後ろ姿に自然と脚の力が抜けた。
幾度と思い描いた願望。そして怒り。喉のところまで押し詰まった何かが、情意となってこぼれ落ちてゆく。
何を、そんなに簡単に。
気がつくと両手の拳が固くなっていて、こちらを振り向く彼の真っ直ぐな目に歯向かう。
「そのままのことを言っただけだよ」
「脳内で交通事故でも起こっているの?」
「酷い言われようだ」
「でもそうでしょう? 連れ合いと恋人では天地の差があるのよ。まるで一緒かのように…。もしかして、私のことを恋人だとでも思ってるの?」
「……」
彼はイエスともノーともこたえなかった。
ただ彼の形姿に常夜灯の光が照りつけ、色の薄い髪が銀髪のように閃く。
夜気が、心臓を掏り遠くへ吹き去った。
「……だったら、なに?」
彼の鋭い眼球が、私の瞳を覗く。
びくりと肩が震えた。
「な———」
「なんてね。そんなわけないでしょ? 急に変なこと言い出すから吃驚したよー。僕たちは、ただの同志さ。出会ったばかりの見ず知らずの男に恋人扱いされたって、君も困るでしょう?」
いつもの明るい口ぶりで「お堅いなぁ」と呟き、いつの間にか手に抱えるたこ焼きを一人で頬張っていた。
同志、その言葉にはなぜだか納得がいく。
ただ、私たちは何を共通しているのだろう。
彼は余命僅かで、私は自害できない身を抱えて死のうとしている。もしこれが恋愛小説であったなら、私たちは分かり合って、彼の病原は消えて、私はこれからも胸を張って生きて行くのだろうか。でも残念ながらそんな未来は存在し得ない。
私たちの共通点なんて、生死に精通していることくらいしか思いつかないのだから。
由々しくも考えていたさなかに、はい、と尚陽が私の口にたこ焼きの刺さった爪楊枝を差し出した。
目の前に突如と出された餌を、何も考えずに口の中へ放り込む。揚げられた外側はそこまで熱くもないのに、中身は焼き立てのような湯気を放っていた。中と外との違いに、思わず湯気を口から一通の白い煙と吐きださせる。
まるで、お腹を空かせた飼い犬のようだ。
「んっ」
「ね、美味しいでしょう?」
「……」
懐かしいような、味。
「……美味しい」
小さくそう呟くと、尚陽は嬉しそうに「屋台も捨てたものじゃないよね」と笑った。
最後まで残る蛸を噛み砕くと、本意なく頬が緩んだ。いつも無理して作り上げているはずの笑いが、自然と口角に滲み出て表情へと染め上げる。
この味が、雰囲気が、どこか懐かしい。
「……私、屋台のものを食べたことが無いの」
「一回も?」
「えぇ。小さい頃は祭りごとを疎遠されていたから」
「疎遠か。家柄までお堅いんだ」
「煩い」
冗談だよ、と彼は笑い、溜め買いしてあったお好み焼きのパックを一つ私へ手渡す。
「そんなに買ってどうするの?」
「やっぱり祭りごとは楽しまないと勿体ないでしょ? 茜さんも手伝ってよ」
「食べていいの?」
「勿論。それ食べ終わったら道路側もまわってみようよ。あ、見て、杏子飴だって。初めて見たなぁ」
「…随分と、楽しそうだね」
「当たり前でしょっ! 茜さんと夏祭りに来てるんだから」
子供の頃描いた夢が叶ったようだよ。
子供みたいに目をかがやかせて、彼は私の手を握った。
あぁ。
その時ようやく思い出した。
彼の楽しそうにしている姿が、屋台なんかより一番のご馳走であると。
他人のものを奪って得る幸せなんかより、他人の幸せをささやかに見守っていることの方が何倍も幸せであるということ。自分が直接相手を幸せにできるのであれば、それが本願だ。
喉に詰まる『何か』がおのずと解けたような気がして、気づくと私は彼に連れられて梔子の咲く歩道の端を歩いていた。
彼だって、今日の日を越えれば少しずつ大人になって行くのだ。そう思うと、どこか淋しくなった。
だって、彼は人間だから。
尚陽に聞こえないくらいの声で、「やめてよ」と囁く。彼へ向けた言葉ではなく、自分への言い聞かせのつもりだった。ヒグラシの鳴く、この空虚に埋め合わせはあるだろうか。
夜に飲み込まれてしまわないようにと、私は常夜灯の下でたくさん笑い合った。
狐の仮面が並ぶ横には金魚の水槽が明るく照らされていて、イカを串刺しにしただけの焼きものが鉄板の上に置かれている。子供の、夢の浮き橋を詰め込んだような世界が、そこにはあったのだ。
祭りがこんなにも自由なものだとは思っていなかった。
ここでは、人柄なんて問われることはない。どれだけ臆病でも、外れた趣味があっても、余命が少なくても、人間でなくても、この世界では一瞬でもそんなことは忘れていられる。
一夜だけでも現実を忘れて、幸せな想起をうえつけるために。
夏の魔法に流されて自分の呪いを忘れてしまえるように、幸せでいられる時間には限りがある。
ふと灯篭が顔を照らし、時計の長針が空を指した。
ちょうど甘酸っぱい杏子を口に含んだときだ。
喉を押さえる手先が、血汐の色に染まった。顔に触れてみると、生える木の枝のようなものが頬に当たる。足先から、ずぶずぶと侵食されるような身震いが襲った。
変化が。
どうして、どうして今。
いくら嘆いたって、仕方がない。自分の意思で抵抗できるようなものではないのだ。
「尚、陽っ」
え、という彼の言葉も待たずに、私は尚陽の手を引く。
人の目がこちらに段々と注目するようで、私は焦る。
早く、早く誰もいないところへ。
「……っ茜さん」
尚陽が狼狽るような声で私を呼ぶ。状況が呑み込めないのだろうか、と軽く振り返ると、心外にも彼はこの状況を予想していたかのようにしかと理解していた。
理解した上で、私に、心配そうな顔を。
「ごめん、なさい」と、彼と目を合わせないようにして呟く。喉の圧迫のせいで思うように声が出ないのだ。
否定したい。こんなこと、否定してしまいたい。
さっき呑んでしまったはずの杏子のかけらが、まとう空気に微かに薫る。
段々と大きくなる私の背丈を、彼はどう思っているのだろうか。握った手の平から、かすかに体温が伝わる。彼が私の手を否定しないことが、唯一の救いだった。
「…なお、はる」
「……」
誰もいない街灯の下に立ってもなお、彼は肩で息をしている。
こんなにも速く走れるのなら、アパートでも見つからずにすんだのかもしれないのに。
袖で額を拭うと、彼は顔を伏せた。
「どうして、泣く、の?」
「……泣いてない」
涙は出ていないけれど、彼は確かに泣いている。
あぁ、喉が潰れていなければ。
何か言いたいことがあるような気がするのに、感情が声にならない。
「……怖かったんだ」
私の、かおを見つめて。
「化物の、この間アパートで茜さんの姿を見て……だけど、茜さんに嫌われてしまう方が怖かった。だから瞬時に笑って繕ってしまったんだ」
「……」
「今だってきっとそう。茜さんの傷ついている顔を見て、やっと、あとから自分自身の害意に気づく」
「……」
「間違ってた」
言葉が、時間差で鈍い私の心に刺さってくる。
夜に吹く風は生温くて、所々冷たい。
ごめんな、という声は酷く震えていて、木の鳴る音に掻き消されそうなほどに小さかった。
せっかく夏祭りを楽しんでいたのに、最後の花火を見ないまま駆け出てきてしまった。今すぐにでもこの状況から逃げ出してしまいたい。この惨めな姿のまま大気圏を抜け出して、いっそ月にでも行ってしまおうか。勿論この身体で遠くに疾走することはできないけれど、一思いに逃げてしまいたいのだ。
なんて、身勝手な思い。
「……僕は身体が弱かったから、昔から厄介者のように扱われていたんだ。両親にも、学校の人たちにも。『嫌いだ』って階段から突き飛ばされたときにようやく自覚した。僕は、単に足手まといだったんだなぁって」
「……足手、まと、い」
「そうだよ。そこで心臓の病気が悪化したこともあって、両親とは疎遠になった。結果的に、飛ばされる形となってね。二つ上の兄に方が大事だったからだ」
階段から突き飛ばしたのは、学校の人だろうか。それとも肉親———。どちらにしても、やはり私には関係のないことだ。
化物となった私に、彼はまだ遠く呼び掛けつづける。本当の私に届くわけもないのに。
「……」
「茜さんと出会えて、良かった」
「……どう、して…」
ん、と尚陽は優しく首を傾げる。
「……良くなんて、ない。私は、ただの気持ち悪い、化物、だから。良かっただなんて、嘘」
「……」
もう私になんかに構わないで、と拙い口気で言葉にする。
なぜだろう。怖い夢を見たあとのように怖気づいてしまって、自己防衛のような言葉しか出てこない。それでも、彼が私の存在を否定しないことだけが救いだ。
彼に笑顔に、自分で勝手に贖罪を積んだ気でいた。
「茜さんが化物であったって、関係ない」
「……私、こん、な」
「…君は、生に媚びることがないでしょう? それが、嬉しかった。『死なないで生きて』だなんて無責任に言い放つ奴等とは違う」
誰のことを言っているのだろうか。
彼の言葉には、向ける先があるような、気がする。
「……違、う」
「え?」
「違う、の。同じ、なんだよ。私も、あなたに生きていて欲しいと、思って、いる」
「生きていて欲しい」
「…ね、矛盾している、でしょう? でもね、人間だった頃は尚陽と一緒、だった」
「……」
「…人が嫌いで。でもそれ以上に失うのが怖くて、繕って、詰んで、こんなに気持ちの悪い化物に、なっちゃった」
黒く変形した目から、紅い涙が溢れる。
冷たい夜気にせいじゃない。彼の温かい体温のせいだ。
人に体温は思っていたよりずっと暖かい。
尚陽は、触れてしまうほどに頭を前に吊るし、変わり果てた私の腹部にそっと指先をおいた。
「……ごめんな」
感覚がないだけで、本当は泣いていたのかもしれない。
「……死の間際だからかな、僕には、もう感情というものが無いんだ。どんなに哀しくても、怖くても、笑うことしかできない」
目元に力を入れて、慟哭するように。こんな表情はこれまでに見たことがない。
きっと彼自身も、解っていないのだろう。
全てが故意だった。尚陽は一度震える息を暗闇へと吐ききって、荒ぶる呼気をととのえる。出来るだけ、私を見ないように。
「あと一年」
「……え?」
「せめても、あと一年なんだ。来年の夏まで、きっと僕の身体は持たない。だからこれが———」
言い掛けたところで、こほ、と咳をする。夜気が、彼にとって冷淡すぎたのだ。
「僕にとって、最後の夏になる」
「……」
「でも、茜さんはこれから、何度も同じ夏を繰り返してゆくでしょう? 化物であるというなら尚更。こんなの何百年と生きるうちの一季節でしかない」
同じ、事を。
「……だからこそ」
尚陽は、醜い私の顔を見上げた。
彼の目には、私と、輪郭のぼやけた弦月だけが眩くうつっている。
「茜さんには、僕のことなんか忘れ去ってほしいんだ」
「…そんな、こと」
「……いつ死ぬか分からないような人が無責任、って思うかもしれないけど」
相変わらず、ずきずきと脈が音を立てる。
頭が痛い。心臓が痛い。胸が、苦しい。私は、いつからこんなにも人間びた感情をかんじるようになってしまったのだろう。
吐息が、近づく。
暗がりの中だから、気のせいかもしれないけれど。
「君が、好きなんだよ」
気が狂っている。
動向を見開いた私に「今度は冗談なんかじゃ無い」と言い足した。
好きだ、って。私が、生まれてから今まで一度も掛けられなかった、一番欲しかった言葉。
誰かに、誠心から愛されたかった。
歪なものでも良い。そして、自分もまた誰かを愛してみたかった。夏の間だけでも人間にまぎれて、喪失感の埋め合わせをするために。でも違う。こんなもの、埋め合わせにもなりやしない。
「……だからって、君の人生は何も変わらない。僕は君を一生守ることができないし、化物の姿になることを助けてあげることもできない」
顔色一つ変えずに、私を見つめる。
「わすれて、いいんだよ」
わすれて、って。
そんなこと言われたって、口先だけの言葉で心は動かないものだ。
出会ってたかが半月の他人に、こんなに感情移入するつもりなんて更々無かったのに。
全てが、不本意だ。首を横に振ってしまったのも、その一部に違いない。
月並みな表現で生きていて欲しいと伝えてしまいたいのに、「生に媚びる」という言葉が口を噤ませる。生きていたって、捨てられた彼にとって良いことなど無いんだ。そんなことはわかっている。
わかりたくなんて、ないけど。
「……どうして、自責する、の?」
「してないよ」
芝居染みた仕草で、違うんだ、と尚陽は目を背ける。
「繕う様かもしれないけれど、僕は単純に、今年の夏が楽しかったんだ。残りの半月もきっとそう。だからこそ、こんなの一季節の戯れにしか過ぎないものなんだ。楽しい、なんて感情、この世界で生きていればいくらでも見つかるでしょう? だから」
そのときの、彼の表情を覚えている。
脳裏に焼きついて、忘れようにも忘れられない。あの、哀しさも、悔しさも、不安も、恐怖も、諦めも、虚も、狂気からくる笑顔も、すべてを掻き混ぜたような、顔。
人間。
彼は、人間の顔をしていた。
街を歩く連中と並変わらないような、窶れた顔で愛想笑いをつくって。すぐに、それが彼にとっての諦めなのだとわかった。
自分は、所詮人間なんだという諦め。だからといって泣いたり喚いたりはせず、夢を壊された子供のように、ただ唇を噛み締める。
「尚———」
強くしすぎたのか、彼の唇からは血が滴っていた。
「……それだけじゃ、駄目かなぁ…?」
口元を、歪ませて。
彼は、私が思っていたよりずっと、弱くなんてなかった。少なくとも私よりは生きる価値のある存在。
どうして、今まで気づけなかったのだろう。
——心臓の病気なんて、私に移ってしまえばいいのに。
もう夜が更けてしまいそうだ。
最終電車の時間は、優に過ぎてしまっているだろう。
仕方なく、彼の手を引いて私の家へと歩みを進めることにした。今日ばかりは、やむを得ない。
何も言わずとも、「ありがとう」と彼は私の後ろ姿に呟く。
尚陽は、私の化物の姿をどう思っているのだろうか。やはり心の奥底では気持ち悪いと思って——いや、昼間の私を見るような目で、彼は私を見ていた。そんな人間、今までに見たことがない。
駄目だ。叶わないとわかっているのに、尚陽の心に触れてみたくなる。
ただ、伝わる体温だけが彼の意思表示な気がして、変形した掌でぎゅっと握り返す。
あぁ、やっぱり。
夏は嫌いだ。
Ⅳ
「なぁ紝ちゃん。薪、まだ?」
「ちょっと待ってな。直ぐに火つけるから」
「醇乎こそ、どうして家なんか抜け出してきたんだよ」
「抜け出したんじゃない。追い出されたの」
「追い出された?」
「そう——でも、いいの。ここには紝ちゃんがいるって、ずっと信じてるからね」
「なんだよそれ」
炎々と燃える木屑が、ぱちぱちと火の粉を影ぼうしに葬った。
鉛のような脚を引きずって彼らのもとへ近づいても、微塵も炎に暖かさは感じられなかった。そうだ、これは夢なのだ。確か、記憶に意識を植え付ける、明晰夢。
立たせた血泥の膝を払うと、幼き童顔の曇りが嘘のように消え失せた。仄暗い瞳の色が、炎の色彩に染まって鮮やかに煌めいていた。
「これからどうしよっか。今からでも家に戻る? 心配なら僕がついていってあげるから」
「いやだ」
「じゃあどうするの? このまま義母から逃げ続けるつもり?」
「勿論、逃げるんだよ」
「そうは言っても、お金も居場所も無いよ。そこらを歩き回れば警察に補導される」
「だいじょーぶ。お金は稼げばいいし、居場所は作ればいいよ。幸い私には紝ちゃんがいる」
「無謀だね」
「じゃあどうしろって言うの? 義母のお人形代わりになるのはもう散々なのよ」
「どっちにしろ、もう少し大人になってからじゃないと駄目。大人になれば二人で好きな所に行って好きなことができるよ。それこそ、今と比べ物にならないくらい」
「別に行きたい場所なんて無いわ」
「謙虚だなぁ」
「大人ねぇ……じゃあ、どのくらい大人になればいい?」
「盃を交わせるくらい、かな」
「盃?」
「そう」
考える余地を与えないほど唐突に、彼の華奢な手が肩に触れた。蓮の花が開くときのような僅かな喘ぎ声が喉の奥から漏れ、口腔を侵す高揚に、背中にぞくぞくとした振動が走る。
面子の紅潮に気がつくと、舌に私と糸を引いたまま瞼を伏せた。
「こういうことされても赤くならないくらい大人になったら、教えてあげるよ」
彼の端麗な表情があの日の血腥い死骸と重なって、腹の中のものが熱く喉元に迫り上がるのを感じた。
綺麗だった真っ白いワイシャツが赤く染まる瞬間を、彼の容貌が煌きを失う瞬間を———これまで、想起して何度彼の飛ぶ姿を目に焼けつけてきたのだろうか。
伸び縮みする瞳孔の感触に頰を固くし、開きかけた口を無理やりに閉じた。
背骨を手の平から離した、あの生暖かい空気の感触。思い出すだけでも、ぐるぐるとした曲線が何本もの弧を描き、瞳に狂気を満たすようだ。表情のひとつひとつが心の核に触れ、思い起こしたくもない狂気が呼び起こされる。手の触れられない一方的な甚振り(いたぶり)が悔しくて、すぼらしくて、踊り場に立ち尽くす少女の陽炎に、ぐっと拳を握りしめた。
浅ましく開けて見せる口の中は、奥深くまで黒々と染めあげられている。
「———なんであんたは生きてんの?」
腹の奥が抉られるほどに、気味の悪い。『私』でも尚陽でもない、嫌気づくほどに恫喝的な声が、廊下に響き渡る。
明晰夢は自分の意思で物事できるからいいとか言われてるけど、その夢の中でも私は一ミリも微動だにできなかったのだ。
息を潜めて胸を押さえると、夢の中だというのに心臓の鼓動が掌に伝わった。肌に伝わる鼓動が自分の存在証明のような気がして、
私の願いはいつだって一つだ。
二十年前の今日に戻って、私という存在を産みなおして欲しい。
しかし、疎い不器用さに未来を託すことはできない。
ぐしゃり。
左腕からの出血で、階段が紅色に染まってゆく。憶測ではあるが、きっとそうだった。
そこで———目が醒めた。
頬を伝う涙が、ぽたりと布団の上にこぼれ落ちる。
夢に涙を流すなんて、いつぶりだろう。
「……死なないでね」
隣で眠っている尚陽に、そっと耳打ちする。夢で良かった。悪い、夢。
寝起きの惚けた頭を何度か掻き毟る。
人殺し、と叫んだあの声は、尚陽でない誰かに向かって言っていたような気がする。彼を含めていう、その場の全員。そして、私に。なんて、夢に追求してもしょうがない。心も奥底ではこの感情に気づいているはずなのに、腑抜けな私の口からは言う勇気が無いのだから。
私は尚陽の方に身体を向けると、傷痕の残る左の頬に軽く接吻する。ほんの出来心で、変に慕情が芽生えたというわけではない。
これも全部、昨日見た夢のせいだ。
「……」
「尚陽」
可愛げのある寝顔を崩さないようにと、優しく頰に手を這わせる。
視界に跨がる髪の毛は枝状に崩れて、開ききった傷口を塞いでいた。
この身体では傷の一つや二つなどいとも簡単に治ってしまう。自害ができないようにと仕組まれたこの能力の内、痛いのも苦しいのもとうに慣れきってしまっている。
彼の身体を揺さぶると、赤面したような顔で、嫌々毛布を捲った。
「なんで、同じベッドで寝てるの?」
「ベッドで寝た方がいいと思って。風邪を引かれたら困るし」
「だからって…」
「駄目?」
「……駄目じゃな、っ駄目だよ!」
「なんで一瞬迷ったのよ」
彼は困惑したように私から目線を落とす。
こうしてみると、赤らめた顔に馴染んでしまうほど、傷痕はうすくなってきている。
「ねぇ、それ……」
言いかけたところで、唇を噛み口を噤む。何故か、言ってはいけないような気がした。
「もしかして、ベッドまで運んでくれた?」
「うん、まぁ…」
「ついに女の子にまで運ばれるとはなぁ」
「大丈夫よ。軽かったから」
「中身がないからね」
中身、と意味がわからず戸惑う私を尻目に、可笑そうにくすくすと笑う。
頭の中で考えても、どうも想像が沸かない。
かわりに、いかがわしいことや彼の病気のことなどが次々と浮かんでくる。駄目だ。昨晩のことや昨日見た夢のことが一気に情報として流れ込んで、いまだ対処しきれていない。
一晩を共にした——という表現は何かしらの語弊を生んでしまうのかもしれないが、控え目に言って、それが一番潔いのかもしれない。
勢いでベッドに引入れてしまったことも、今なお私が一番信じられないでいる。だが、それらが身体的ではなく、精神的にお互いを慰めたことはたしかだった。
彼は一度鏡を覗くと、私の許可もなく盛大にカーテンを開いた。遮熱性のものだからか、カーテンを開放した部屋はいつにもなく明るく感じる。
窓枠に手をかけて、彼はゆっくりと私の方に目を向けた。
「ねぇ、ここから海って見えないよね」
「海?」
「そう、海。遠くに青いものが見えたから」
そんなもの、と窓の外を見上げても、遠くの端まで送電塔が絡み合っているだけで海といえるようなものは一向に見えてこない。当たり前だ。ここは麓のあたりなのだから。
「そんなもの無いよ。どこを見て海と言ったの?」
「おかしいなぁ、じゃあ違うのか」
「田んぼならあるだろうけどね」
「悪いけど田んぼで泳ぐ気はないや。まぁ、そもそも水の中に入れたらの話だけどね」
「……水の中も、あまり良いものじゃないわよ」
窓から突き刺す光に限界を感じ、がばりと一人ベッドの中に入り込む。包み込むような温かい薫りに嗅覚が和らいだ。
まだ、彼の薫りが。
両腕で目を覆うと、膝を抱え体を丸める。眠気がしたわけではない。ただ、今だけは感傷に浸っていたかった。
今日に限って、化物から戻ったままの姿で眠りについてしまった。
自分の爪で引っ掻いてしまったのか身体には無数の傷痕が残っていて、下着一枚で倒れ込んでしまった代償が下腹の痛みにともなう。
夜の私ではあったものの、彼の言葉や表情はよく憶えている。勿論、自分の感情も全てだ。私がいくら悔やんだところで、何かが変わるわけでもないというのに。
「いいかげん」という生めいた声と同時に、敷いた毛布がばさりと捲り取られた。一気に、冷やされた部屋の空気が無防備な私の肌へと吹きつける。
「………なに?」
「いい加減起きなって。今が何時だと思ってるの?」
「まだだよ。私の起床時間は七時って決まってるの。それじゃあ、おやすみ」
「下着じゃなくて、服ぐらいは着たほうがいいんじゃない」
服を着てどう寝ろというのか。
ロリータ服でベッドに入ったものなら、スカートが圧迫されて潰れてしまう。それに、真夏は汗に蒸れて生地が傷むだろう。
彼は諦めたように小さく息を吐き、私の隣へと腰掛けた。
時計の秒針が、刹那を遅く感じさせる。
「———まだ気づかないの?」
鼻先で笑うような、謳うように円滑な声。
時間が、止まった。
そのあと、少しばかりの時間が経つと部屋の沈黙と共にまた時計が一秒、一秒と進み出す。
衝撃はいつも一瞬だ。
彼の声じゃない。夢で見たような、あのドスのきいた低い、声。どうして、と毛布を捲り身体を起こすと、彼は何もわかっていないような無垢な表情を浮かべ、嬉しそうに私の手を取る。
顎から、一滴の汗が落ちた。
「なん、で」
彼の姿を見ていると、どうしても目が眩む。
「なに、どうしたの?」
「……ううん、何でもないの。少し寝惚けていただけ」
「そっかぁ。吃驚したよ、突然記憶喪失にでもなったのかと思って」
あはは、と笑う向かい合った彼の笑顔を、どうしても直視することができなかった。
尚陽に握られた手を、するりと自分の膝へ戻す。
そんなことが無いのは解っている。
だけど。
一瞬だけ、彼が紝巴に見えた。
Ⅴ
淡紅色の空を見ていた。
朝焼けの日は曇りだなんていうけれど、実際晴れる日の方が多いような気がする。
所々染みる水溜りには淡紅が描かれていて、裾を疾風に吹かせる少年の目元からはらはらと花が舞い落ちてゆく。まだ、花の咲く時期ではないはずなのに。
艶やかな黒髪が花々に絡み、焼けた空と明快に出色し合う。
「アズ」
一歩あゆみ入れると、フェンスに突っ伏した黒いパーカーの少年と目が合った。私に気づくと、彼は咄嗟に視線を校庭へと背ける。
花びらを舞わせる目元は赤く腫れていて、それを隠すようにと袖で顔を覆った。
儚い空気が、鼻の啜る音だけを耳に伝える。
「アズ、どうしたの?」
「……」
花びらを一枚手に取ってみると、思いのほか脆く崩れてしまった。崩れた粒が吸い寄せられるかのように、足元へと散る。
彼のボトムスにはアスタリスクの柄がひっそりと刺繍してあり、それは、喧嘩で裂かれた跡をつぎはぎする間に合わせに使ったものらしい。喧嘩といえど口論。こんな風柄だが、殴り合いには打たれ弱いのだ。
彼のボロボロな制服に、瞳が揺らいだ。
「大丈夫? なんで泣いて——」
「……うるさい」
低く轟くような声に、愕然と彼を見つめる。
「やっぱり、何かあったの」
言質とるように言い迫る息差しに、彼は如何にもバツの悪そうな顔で鼻白んだ。潜めた眉につられて、長い前髪が睫毛にかかる。
「どうだっていいだろ。もうほっといてくれよ」
そう言い放つと、彼は腕の中に顔を埋めた。
明朗な彼が心を鎖すとき、それは大抵助けを求めているときだ。無意識なのかもしれないが、口では否定しながらも、甚いような切ないような表情を浮かべている。
フェンスの鬱な影が彼の姿と重なって、心中を写したかのように思えてしまう。
「今日、雨降るみたいだね」
「……」
「屋上にいると濡れちゃうよ。私折り畳みあるから、持ってないなら傘、貸そうか?」
「……んで」
「え?」
「なんで」
掠れた声で、言った。
「なんでアンタはおれに構うんだ?」
拒絶と言うには慈悲のある含みで、影ぼうしの唇を震わせる。
傷の舐め合いをしたいわけではない。ただ、一方的な傷心を見ていると、自分のことのように胸が荒れるのだ。
「同志、だから」
私の言葉に、小さく喉を鳴らす音が聞こえた。
「私はあなたとよく似ている。また、あなたも私と同じような考えを持っている同志のような気がして。いや、ずっとそう思って付き合ってきたの」
「あんたは人付き合いが浅いからわからないかもしれないけど、あれは同情と哀れみの戯れって言うの。一般的にあれを付き合いとは言わないの」
「浅いって……貴方という友達がいるじゃない」
私の猜疑した言葉に、アズは眉間にしわを寄せて頭を掻いた。
「アンタなんて、同志でもなんでもないだろ」
「私?」
「あぁ。頼れ頼れって口先だけで説教垂れてんの、本当くだらない。あんたは何がわかってそんな偉そうなことが言えるんだ? 価値観が似てるからって、考えてることは全く違うんだから」
「価値観って。それだけの違いで何か変わるの?」
無垢な私の瞳にはあっと息を吐くと、呆れたように目線を遠くに飛ばした。
「…好きだった人に振られたんだ」
暴く息に、「次に進める」と告げる嬉しそうな彼が瞼に浮かぶ。
それを思うと切ないが、もっと酷なものを想像していた緊張に安堵と肩の力を抜いた。彼に好きだった人——たしか名前を楠崎と言っていたような気がする。下の名前はとうに忘れてしまったが、柔らかい緩々とした女の子の印象だ。
実際に会ったわけではないのだが、学祭や学校行事に活動的な装いの、媚態。未だにどうしてあざとらしいような娘が周りに好かれるのかはよく理解できない。やはり、異性の思考は読めないものなのだ。好みなんて、時代時代の風潮があるのだから。
「……その様子だと、そっちは何か良いことでもあったんでしょ?」
「良いことなんて、無いわ」
「嘘。おれは勘がいいからさ。もしかして、この間言っていた男と上手くいったとか? だったら良かったね」
「ちょっと、勝手に完結させないでよ。今は貴方について聞いているの」
「——いいんだよ、その話は」
彼の手に持っていた破れた紙切れに、ぽつりと一筋の涙が滴る。
やがて私と目を合わせると、「ね」とぐしゃぐしゃに歪んだ顔で優しく笑った。
「恋人なんて、おれなんかにできるわけがないのに」
開き直ったような笑顔を、どこか期待していた。
いつもの、快然とした能天気さが。彼なら、少しばかりの傷でへたばるような性合いではないと勝手に思い込んでいた。
だが、彼は食い縛るような吠え面で、ひたすらに校庭の方を睨み下ろす。
人付き合いの薄い私は、人生に萎えた人の励まし方を知らない。もし私が励まし方を知っていたら、何かしら彼の力になれていただろうか。
もし彼の欲しい言葉を流暢に言えていたら、彼の中の追腹の気を消せていたのだろうか。
もちろん私は、彼の生き方の観衆でしかないけれど。
「大丈夫よ。失恋なんて、また次があるじゃない」
アマリリスのように紅い花が、彼を纏う。
「……次、次ってよく言えるね」
「私はアズの気持ち、よく分かるわ」
「分かる? あんたにおれの何が分かるっていうのかな」
「分からないけど……理解者になりたいの」
彼が感情を吐き出せないのであれば、私が唯一の理解者になりたい。
そう考えると、私のなかでまだ慈しみの気持ちが残っていたんだと思う。いつの間にか消え去ってしまった思做しが、また頭の端に期すのだ。何を偉そうに、と言われてしまえばそれで終わりなのだけれど。
口では調子の良いことを口走りながらも、心の底では少しなりとも彼への苛立ちが募っていった。
失恋如きの物事も打ち明けられないほど、私は頼りがないのか。これだけ、長い付き合いなにだから、少しくらい。
「……何も知らないくせに」
彼の言葉は怒りでも呆れでもなく、哀しみの色に染まっていた。
「……何も、解ってないんだ。何もかも」
「何も、って?」
回りくどいような彼の言い分に、私の口調にも多少なりとも焦燥が浮かんでいたのだと思う。
彼は私の顔を見ると、物悲しそうにパーカーのファスナーに手をかけた。徐々に鳴るファスナーが進み、最後の金具が外れる音が響めく。
驚愕。
いや、もっと。言葉にできない感情の波が、頭の中に打ち寄せる。
それらは私が想像していたものよりはるか上の事象で、呆けたような顔が彼と相合った。
彼の膨らんだ胸元には女子生徒の象徴であるリボンが結ばれていて、マスクで隠した白い肌は、丸みのある女性らしい顔立ちを帯びている。
「おれが」
片方の口角を吊り上げる。
ぐぐぐ、と窶れた顔を無理矢理歪ませて、泣き腫らした目を細めた。
「女だってこと」
全てを拒むように。
生まれた肉塊を捨てて、感情を持つ精神体として。
同志。
理解。
さっき私が言った言葉を、何度も反響させる。
何が、理解者だ。
横風が彼の指にかけられた白いマスクを宙へと吹き荒らした。
「気持ち悪いんだってさ、おれが」
私に両手を広げて、赤いリボンを風に吹かせてみせる。恐々とした私の手を振り払うように、彼は身体をひらりと躱した。制服を嫌だと言いながらも、毎日毎日女子生徒のセーラー服を着て、リボンを結んで、学校に通っている。律儀、というのか。きっと責任感の一部なのだろう。自分のあるべき姿への責任感、タスク。そればかりはどうしても振り解けないものだ。
「両親には散々に否定されたよ。あなたは女の子の身体で女の子として育ったんだから、女の子なのよって。だけど、そんなことは認められない。おれは、最初から男だったんだ。過ちを犯したわけでも何でもない」
「——」
「『私の十七年を否定された気分だわ』って。私の十七年? おれは親のステータスのために生まれてきたのかな」
振り払われても、私は何度も彼の掌を握り返す。そうしないと、今にでもこの屋上から飛び立ってしまいそうだったからだ。窶れのせいか、前と比べるとひどく上腕二頭筋が薄くなったように感じる。いつになく攻撃的な彼の口ぶりに、身を縮めて肩を抱いた。
「……そうだね。少し言い方を間違えた。おれは、誰にも期待されていないわけではないよ。腕に傷を重ねるたびに、泣いてやめてくれと縋る人もいる」
乾き切った笑顔で、左頬に触れた。
「それが辛くってねぇ。期待してくれる人も、あんたみたいにこうやって寄り添ってくれる人もいる。なのに、堕ちた惨めな自分しか見せることしかできなくて。どうにもならないくらい悔しくて、苦しくて、結局また自分を傷つけることしかできない」
彼のセーラー服からは、柑橘のような甘い薫りがした。
この香りは、どこの柔軟剤だっただろうか。
「梓」
「——その名前で呼ばないで」
「でも、梓は梓だよ」
「おれは、梓じゃない」
「梓だよ。榎本梓。性別で人格は変わらないもの」
「でも、おれは」
固まった表情を戻さないまま、彼は膝を抱えて泣き崩れた。
「おれは」震えた声で。
彼の小さな影が、水溜りに反射して鮮やかに煌めいている。奥歯を噛み締めて、堪えきれない苦悩を喉の奥から吐き出させた。
漢泣き。同情でもなんでもなく、日に艶めく彼の黒髪に手の平を置いた。
私には解らない苦しみを、彼は生まれてからずっと煩ってきたのだ。苦しくても、労って。辛くても、笑って。やっと忘れ去り幸せになろうというところを、絶望に淵に突き落とされる。
相手を憎んで、それ以上に自分を憎んで。両親を、自分の環境や地位を憎んで、それらが一周回って自分のもとに蜻蛉返りだ。
苦しかったのに、最終的に彼は私を頼ってくれた。それだって、自分の中のステータスの一つであるというのに。
壮大な片雲を背に、私を見上げる。
「……ごめんな、って」
「うん」
「梓、なんて可愛い名前付けてもらったのに、ごめんな母さんごめんな、って」
彼は涙を拭きもせず口を結んだ。
「結局は『やっぱりあんたは出来損ないね』その一言だけだった。欲しい言葉一つも無い。結局おれは、母さんに何て言って欲しかったんだろう。自分のことなのに、もう何もわかんねぇんだ」
はらはらと、紅い花が水溜りに波紋をつくった。
この屋上で出会ったときのことを思い出す。これはまだ尚陽と出会う前だ。
独りぼっちだった夏に彩りを入れたのは、紛れもない彼自身のこと。ヒグラシの泣きつける昼の、彼の笑う顔が。
初めて『梓』と呼んで怒られてしまったこと。私が、初めて自身を明かしたこと。その全てに、彼の笑顔が明に顕在していた。
やっぱり、梓は。
私に何か辛いことがあっても、その度に梓は笑い飛ばしてくれた。たまにむっとすることもあるが、大概は、笑い合っているうちに馬鹿馬鹿しく忘れ去れた。辛い記憶だって、彼の陽気な笑顔が全てを無にする。悩みなんて、所詮はそんな浅いものだったのだ。
陽気な仮面の下で、彼はどんな顔をしていたのだろう。泣いていた——それとも心の底から笑い合っていたとでもいうのか。
もう、何も分からないや。
あの真意がない言葉も、繕いなのだろうか。溢した伏線を回収できるほど、私は過敏な心を持っていない。彼のように綺麗な涙を、飾ることができないのだ。
私は一度彼の顔を見返して、そしてまた切なくなった。
「人なんて、みんなそんなものでしょ?」
眉をひそめて、早口に囁く。
「……」
「えぇ。他人に期待したって、思うような慰めは返ってこない。たとえ親であろうと、生まれた環境が、経歴が、人格が、思考の回路だって、全てが異なる他人事なんだから」
天日とかわった暁光が、あたたかく沈む水溜りを照らした。
蝉の鳴き声が、耳元で絶命を嘆いている。たしか、蝉の生命は一か月といったところだろうか。
短くも、もう散ってしまう。
『鳴かない蝉に、居場所はない』
その言葉にはて、と首を傾げた。昔、誰かが言っていたような気がする。もしくは、何かの映画か。
少ない寿命のなか交尾をして、朽ちるまでひたすらに鳴き続け、自分の責務を全うするだけの蝉。余分な傍側をはぶけば、私たちによく似ている気がする。
感情があれば美しい、無ならば欠落、だなんて誰が基準をつくっているのだろう。
「……他人、他人って。好きだねその言葉」
「そう思っていると楽になるの」
「じゃあ、おれも他人だね」
口から出た言葉は、思っていたものと少し違った。
彼の方に目をやると、いつも手にしているはずのスクールバッグがどこにも見当たらない。何のためにこの場所に——と頭を巡らせると、嫌な想像が次々と彷彿させる。
「……」
「おれからしたらアンタだって他人だ。親しくしている兄貴だって、両親だって、みんな、他人。あんたのそれはそう言うことだろ?」
唖然と、震えた瞳を見開いた。
彼は脚を立てると、影めいた顔で口を結ぶ。
「非合理なのも、慰めてくれているのもわかるよ。だけどさ、醇乎はそれでさびしくないの?」
さびしい。
私の何がさびしいのだろう。
ただ、傷つかないように守っているだけ。当然のことを、当然のように。
とっくに、私の心臓は奪い去られてしまった。だから今さらになってさびしいとか哀しいとかという感情は沸かないのだ。
だから。
重苦しい嘘に手を赤く染めても、何も感じない。今なら、自分を殺してしまえそうだ。
袖を握って項垂れると、彼の影が僅かに揺れた。
「……」
「どんなに嫌っても、家族だよ。塵みたいな母親だけど、血縁なんだよ」
絶対零度、とでもいうのか。
無理なんだ。私には。
もし家族がいたら、兄妹がいたら、私は大切にできていただろうか。いや、きっと裏切った。
寄せられた期待も、想いも、私は応えてあげることが出来ない。
「じゃあ、見捨てられても人を好けというの?」
私の言葉に、彼は目を伏せた。
ほら、こたえられない。
やっぱり、その程度なのだ。どんなに情を表したって、言葉だけで心は動かない。
「自分を」
息を吸う音が静かに耳へ届く。
「昔自分をいじめていた奴とだって、いつしか友達になれる。笑い合うことだってできる。好きになることだってできるんだ。合わせる顔がないのなら、無理やりにでも作り出せばいい。そういう世の中なんだよ」
「……」
「なぁ」
陽の光で、濃い影が浮かんでいた。
「おれたちって、友達だよな。他人なんかじゃ、ないよな」
どんなに形容した言葉よりも。説教臭く人をなだめる言葉なんかよりも。
一通りの感情を巡らせても都合が良い表情は思いつかなくて、苦しまぎれに思いつく限りの笑顔をつくってみせた。
ありきたりな言葉で「友達だ」と。
そう言ったとき、はじめて彼は笑ったのだ。
Ⅵ
空き家の相続問題は、年々問題視されている。実に世帯の七分の一は空き家だとも言われているし、長期間野晒しにされボロボロに老朽化した建物が、奥深い田舎には星の数ほど転がっている。
使い捨ての土地、とでも言おうか。その一つに、多くの維持費がかかること。市からの資金や解体工事を受けた形跡はこれまでに見たことがない。街の人口減少などを理由にして、行動力のある若者を背け誰も申請をしたがらないのだろう。たとえ申請をしたところで、こんな山奥の工事なんて引き受けてくれるかどうかもわからない。
その朽ちた公共施設の一つに、結婚式場があった。
かつての綺麗だった面影は消え失せており、骨組みを剥き出しにしたメッキが所々散乱している。枝分かれした樹木が脆い屋根の部分に絡まって、暑苦しい光を柔らかなものへと変えた。まるで、廃墟のようだ。
廃墟には、前々から少しだけ興味があった。自然や傷痕に触れて、人々に幸せな昔日を味わうことができるからだ。結婚式場なら、尚更。華やかな式なんて羨ましい、きっと幸せだったんだろうなぁ。そう思っているだけで、自然と綻びが滲む。
歩みを進めると、木漏れ日が差す錆びた聖書台が置かれていた。聖書台、それはたしか指輪を交換する場所だったか。
私が思考を巡らせた束の間、台の向こう側に口角を結んだ尚陽が顔を覗かせていた。口元は、にんまりと歪んでいる。
はぁ、と息を吐くと、私は彼から目を逸らした。
気まずさからか、この場所に入ってから一度も彼と会話を交わしていない。一方的な感情だとは分かっている。理解していながらも、廃墟とはいえ、彼と結婚式場にいることの羞恥があふれた。
姿形への嫌悪感、そして地雷を自分自身で踏んでしまったということ。
知恵の輪のように絡まったそれが、脚を重く引く。
脚とは反いて胸のなかは軽く、誰かに背中を押されたかのように身体が大きく傾いた。
滅入った考えなんて、彼の笑顔一つで十分なほど簡単に切り離されてしまう。もしかしたら、私の頭は、思っているほど余り要領がよくないのかもしれない。
「どうして、廃墟なんかつれてきたの?」
「結婚式場だよ」
「それも知ってる。で、どうして私をつれてきたのよ。もしかして、結婚式でも挙げる気?」
「結婚式? そうだね。それも良いかも」
相変わらず冗談が通じない。いや、もしかしたら通じた上で惚けているのかもしれない。それなら、お互い様だ。
「それにしても良いよねぇ、この場所」
「えぇ」
「最近では、廃墟ウェディングなんていうのも流行っているみたいだし」
「廃墟ウェディング?」
聞いたこともない語呂の組み合わせだ。
流行りなんてものは、斬新なものにかぎる。
「そう。廃墟に祈りを捧げる花嫁なんて、いい響きでしょう?」
「結構マニアックな柄だと思うけど」
「でも素敵だよ」
「そうね」
「おっ、めずらしく気が合うねぇ。運命かな」
私が呆れたように肩を竦めると、運命という言葉にいつか見た映画に挿入歌を口ずさんでいる。その曲を背景に、ぼんやりとした内容が浮かんだ。
アスファルトの柱を見上げると、崩れそうな頂上が瞳にうつった。
この柱を思いっきり蹴れば、私のもとへ崩れてはこないだろうか。かけらが真上を直撃して、頭がぐしゃりと潰れる。そんなことを妄想したって現実は何も変わりはしない。所詮は自分にとって詭弁に過ぎないことなのだ。
「あれ、何だろ」
尚陽の指差す崩れた岩盤に、「どれ?」と首を傾げる。
「ほら、今何か光ったでしょ」
「光った?」
「反射で金属物に見えたんだけど、もしかしたら硝子の破片かも」
「破片なんて四辺に散乱してるじゃない」
「でも、ああいうのって妙に気になるよねぇ。ほら、善は急げって言うし」
焦ったように、日差しが差し込む床板を小走りで駆け進む。季節に似つかわしくない澄んだ蒼が、彼の好奇を無鉄砲に剥出しているのかもしれない。
「尚陽?」
朽ちているはずなのに、駆ける彼の足元に埃は舞っていなかった。私の呟きには答えず、遠くへと走る一定の足音が床一体に伝わる。鼓膜を震わせるその音は、まるで幼子が家の中を駆け回るような優しい心地良さを醸し出していて、聞いたこともない想像に胸が暖かくなった
光るもの、と言われて真っ先に思いつくのは、やはり硝子だろうか。それとも水滴。雨が降った形跡は無いし、砕けた硝子もある程度の大きさにまとまっていて、太陽の光を直接的に反射している。
抜けた窓枠だけが所々に残る硝子を支えていて、その姿はテトリスのように絡み合って何とかその姿を保ち続けているかのようにも見える。屋根が吹き飛んでしまったのは、きっとこの間の台風の時だろう。今年で初めて、そしてここ十年の間で最も凶暴に列島を荒らしたものだったらしい。人が飛ぶくらいの風であれば、この立派な建物が崩壊してしまうの致し方ないことなのかもしれない。
唐突に、離れた場所から名前を呼ぶ声が響いた。
右手を握り、何やら光に煌めかせた小走りで私の元へと走る。肩で息をしながら右の拳を私の方へ突き出すと、掌に冷たいものを握らせた。
商店で売っているようなプラスチックのものでは無く、格式のある、純銀製。
「指輪」
気まずそうに目線を落とすと、彼は一度頷いた。
「多分裏に名前が入っているから、結婚指輪じゃないかな」
「どうしてこんな場所に」
「さぁ。誰かが落としたんじゃない?」
「それはないよ」
「どうして?」
「ほら、だって錆びがついていないから」
首を捻ると、彼の間抜け面と目が合った。
「確か、銀はずっと錆びないんだよ」
彼の顔を一度覗くと、手元の指輪に触れた。
初めて手に触れた純銀ものだと言うのに、それが一度人の手に渡った物だと考えると嫌気が差してしまう。鼻を近づけてみると、腐った金属の匂いがする。綺麗な表面が、鼻を刺すような刺激臭を隠蔽するように固めているのだ。
尚陽の破顔を横目に裏面を覗くと、日焼けで剥げかかったそこに、何度も引っ掻いた後のようなものが浮き出ているのが見えた。爪で引っ掻いたような小さいものでは無く、せっかくの純銀である価値そのものを落とすかのような大きな傷。刃物で切りつけたような、脆い銀に際立つ傷に気が引けて、手にしたそれを丁寧にピアノ台の上に置いた。
「綺麗でしょう」
「綺麗? あんなに傷がついているのに?」
「そこがまた良いんじゃない。革は年季が刻まれるごとに価値が上がるんだよ」
「でもこれは革じゃない、指輪よ。結婚指輪は、普通の指輪とも訳が違うの。だって一度誓った指輪を捨てるだなんて、前の持ち主に抱えきれない複雑な事情があったりしたら怖いじゃない。それこそ咆哮ものだわ」
「もしかして、怖いの苦手だった?」
「……べ、つに苦手も何も嫌いなだけよ」
嫌いも何も、小さい頃のトラウマが想起された不快感に体が疼くのを感じるだけだ。
別に、と冷ややかに言うはずの裏返った言葉が、赤面としてやがて自分に返ってくる。
「……少しだけ」
「え?」
彼は、ピアノ台の上に粗末に置かれた指輪を指差した。
「少しだけ、昔話に付き合ってくれませんか」
「昔話?」
「さぁ。お話というよりは、きっと御伽噺に近いんじゃないかな」
物語や御伽噺と言われて思いつくものは、きっと彼と私で違うものなんだろう。咎めるように眉を潜めると、尚陽は笑って浅く顎を引いた。
「この持ち主には、もしかしたらこの指輪を交換するくらいの大切な人がいたのかもしれない。いや、確かにいたんだろうね。……僕にはわからないけど、裏面より表面側が削れているのをみると、ずっと大切に持っていたんだと思う。価値あるものができたなら、奪うものに遠忌を抱くのは当然のことだ。好きなもののためなら憎悪だって悪巧みだって焼くのが人間だから」
「じゃあもし大切な人が死んだら? 空気中に舞った灰のように、一度消えたら感情だけで元には戻らないんだよ。やがてそれに気がついた時、人為なければもはや憎悪さえも向ける相手が居ないでしょう? だから、持ち主は自分を自責した。世間のせいであったって、病原のせいであったって、もはやどうでも良い。無闇やたらな自責に、持ち主は指輪を手放した。きっと苦しかったんだよ、傷ついていく遺留物を手元に置いておくのは、大切な人の顔が浮かんでしまうから。もしかしたら、その時点で持ち主は大切な人への好奇が空いてしまったのかもしれないね」
「まぼろばに、二人で挙げた結婚式場。好きだった、もう空いてしまった大切な人への返還が、どんな気持ちだったか解る? 銀に錆びがついていたのは、この時に絡んだ塩素と銀が合わさったものだとしたら?」
無感情な彼の声明が、何度と脳髄に響いた。
つらつらとまるで自分が感じているかのように話す尚陽の言質は、私の言葉を否定するための物語であるのに、何故だか憤りを感じさせなかった。
「そう想像してみると、怖いのかな。とても、優しい話に思えるけれど」
優しい、そうは口で言えども、間接的に考えれば幼児に叱りつける説法のような響きがどこかに残っている。怒られたことも叱りつけられたこともないくせに、そういう彼の言葉を、何度も頭の中で巡らせてはどこか懐かしいような気がしていた。
「それは、何の……」
「あぁ、茜さんの言葉に肉付けして作ったただの戯言だよ。どう? 三分もかけて作った甲斐があったでしょう」
そう笑う彼の横顔が、生死だのくだらない詭弁を語っている私なんかよりよっぽど大人に見えて、ただただ首を下に向けた。そのくだらない頭で少しずつ想いを巡らせてみて、やっぱり伝わるわけがないだろうと再度項垂れた。
彼は出会った頃よりも遥かに大人になっていて、いつの間にか彼の背を追いかけて連むようになっていたのだ。掴めない背中に縋ることもせず、行き場を失った淡い視線を窓の外へ向けた。
「前から思ってたけど、あんたって変わってるよね」
「そりゃどうも」
「褒めてるんじゃないのよ。これだけ素敵な御伽噺を作れるくらいなんだから、馬鹿ではないことだけは分かる。だけど、あんたは妙に落ち着きがあるというか……」
「変って言いたいの」
「自覚はあるんだ」
「まあねぇ、よく言われるよ。付き添いの看護師さんも、危篤になった時まで書き物をする姿を見せて怒られちゃったし。噂の通り、少しばかり『変』だって自覚はあるよ」
書き物、といえば小説だろうか。間際で書いた純文学、時代もの、推理小説、彼の書いた作品ならどれも読んでみたいような気がしてくる。そこまでして書きたい小説物なら、きっと読んでみても楽しいはずだ。
口元を左手で塞ぐと、控えめに頬を緩めた。
「いやぁ、尚陽は私を怖がらないんだなぁと思って」
私の言葉に少しだけ惚けたような顔を見せると、やがて渦を巻くように横腹を抱えて大柄な破顔を見せた。
「あぁ、そうか。そうだよね、怪異は怖がられていないと存在意義が足りないんだもんね」
「別に、怖がって欲しいわけじゃないのよ。昼間は少女という生殖形態なんだから」
「言い方に気をつけてよ」
細胞みたいに、と微塵にはにかんで付け加えた。
「私みたいな中途半端なやつに付き纏ってくれる人なんて、これまでにいなかったから。だから、その……」
「裏があると思った」
「やっぱりそうなの?」
「どうだろうね?」
精霊のように柔らかく袖を吹かせると、差し込む木漏れ日の線で余計に肌が白く見えた。手首の広がった形の衣服を着ているからか、私より遥かに大きい身長が遠巻きに小さく見える。
彼の姿に、話の何に興味を持つこともなく、どこかで聞いたことのある優雅な懐かしい音楽が頭の中で流れているような気がする。
「一つ間違っているようだから言うけど、僕、遠回りなの好きだから」
遠回り、そんなことを巡らせても何も思い浮かばない。
そんな私の猜疑を嘲笑うように、作り物のように綺麗に整った睫毛が、ゆっくりと伏せられた。
きっと、彼の望む『幸せ』とは、自分でない誰かの幸せを願うことなのかもしれない。いつだって、悔みきれないほどの過去を置き去りにして、幾ばくない未来ばかりを見据えて現在を乗り越えている。
身体は左右に揺れても頭は据わっている鶏のように、あの真っ直ぐな瞳だけは、名誉を汚されようが死期が訪れようが変わらない。偉大であると釘付けられた父親のようなそれが、彼の小さい背中に纏っていたのだ。
半透明な灰色で、どこか寂しげな淡い彩り。
吹き消されてしまいそうなほどの脆い灯を支えているのは、紛れもない彼自身の性根だ。
頭を上げると、茜色の空に混じった風鈴の硝子細工が見えた。
扇風機の風にゆらりゆらりと傾き、
そして、落ちた。
小さく、弱い。そんな面でも、夢を見るだけの器を彼は持っているのだ。
Ⅶ
世の中には、あらゆる規定があるらしかった。
部屋に差し込む一筋の暁光が、薄明かりの夜明けを示唆している。せっかくの昏々と眠りについた後だというのに、今日に限ってあまり迎え入れた朝を堪能することができなかった。
暗然とした曇りの空は、私が思い描く希望の朝とは程遠い。暗雲が漂う雨模様の日には、どうしてか初めて人を撲ったあの朝のことを思い出してしまう。
陽の光が人外という線びきの中に差し込まれた一本の手のような気がして、気がついたら私は布団に伸びる一本の暁光をぎゅっと握りしめていた。なぜ掴めないものに縋ろうとしたのかはわからない。ただ、それ以外に沈痛を治める方法が思い浮かばなかった。
いくら憂鬱なことがあっても、朝に起きれば、窓硝子の霜とともに暖かい味噌汁の香りが漂う。私の好きだった、母の作る長ねぎと油揚げの入った至って平凡な朝餐。一瞬なりとも抱いた淡い昂揚が、窓硝子に映る自分の姿に幻滅した。
温もりをうけていたはずの頬に指を這わせると、生暖かい滴りが顎からぽたりと布団の上にこぼれ落ちる。昨晩頬に貼ったはずの絆創膏が、泣き腫らした朱い腺にふやけて鼻やら枕やらに張り付いてしまっていた。
気勢した胸を安堵に撫で下ろし、跡が残る陰鬱な気分が布団に身体を縛りつける。
純潔な、もしくは残虐な内容であったかどうかも定かではない。夢というのは大抵そういうものなのだ。思い出そうと記憶を巡らせても、時間が経つにすれそのこと自体を忘れてしまっていた。
布団を抜けると、使い古した茶碗半分に白米を盛り、その上に生卵を落とす。短いお箸で軽く黄身を解くと、昨晩の残り汁とともに一気に口の中に掻き込んだ。自分として白米を汚すのはあまり好きではないのだが、昔からこればかりは例外としている。すき焼きでも、牛丼でも、生卵に潜らせた牛肉と白米の甘味がどうにも堪らない。牛肉の旨味を、卵の甘味が完璧な形へ導いているのだ。
夜中に食べた昨日のすき焼きの匂いが、まだ微かに部屋に残っていた。
一人で蝕む大人数用の鈍器は重く、牛肉の旨味に負けない粗末さがある。美味しいねと暗闇に呟く自分の孤独心が寂しくて、切なくて、静寂を作らぬようにとテレビを点けて塩辛い鍋を一人啜るのが日々の日課だ。
家に誰もいなくとも、食事の後に手を重ねて感謝をするのは毎日欠かさず行うことにしている。私を引き取った義母の家系は、少し前の代まで格式のある柄だったらしく、その見様見真似に少しばかり作法を教えられたことがあるのだ。食事の前の黙想だとか、食品への手の付け方の順、作法というのも大袈裟なくらい小さなことでも、積み重ねていくうちに自然と人格は変わっていく。口ではそう簡単に言えど、幼少期から教わった実態がこれだ。
——立派な淑女として育て上げるには、やはり肉子ではないと駄目なのだろうか。
そう思うと嫌気がさして、力強く瞳を瞑った。
見に迫る恐怖感を押し退けやがて大きく息を吐くと、止まった柱時計の横に小さな日読みが見えた。
今日で、文月が終わる。
私が消えるまで、あと一ヶ月もないのだろう。夢は必ず終わるとそう言われたって、今季やり残したことを巡らせても何も思い浮かばない。尚陽が感じている時の流れは私のとって少しばかり早すぎて、日々変わっていく彼の背中に追いつくことさえもできないのだ。
些かに心は痛むけれど、彼の生い立ちに綻びが持てるのは温情というやつなのだろうか。
私が消えた後でも、彼は秋冬春と季節の変わりを生きることができるのだろう。目で見える生い立ちには温情を向けられるのに、私のいない季節折々での彼の笑顔は見たくない。なんて、酷い女なのだろう。淑女失格だ。
尚陽が最後に見せた墨染めの笑顔が頭に残って、心臓のあたりを締め付けた。
最近は、死んだ両親のことも、義母のことも、紝ちゃんのことも、全てを蔑ろにして自分だけ俗世を謳歌してしまっているような気がする。
『刃を握る者は醜い』
そう教わった通り、階段の上で刃を片手にする彼を蔑ろに殺してやった。
錯乱状態だったのかも分からないが、彼を止めるには、救ってあげるには、背中を押してあげこと以外に道がなかったのかもしれない。
怨念を浮かべるはずだった彼の表情は笑っていて、飛ばされた身体が潰れるまで、その美しい顔は一寸の歪みも許していなかった。
紝巴の身体がぐしゃりと崩れる音とクラスメートの「よくやった」という声が同時に頭の中に響いて、混乱した私は狼狽えるように叫び声をあげ、そのまま走って学校を抜け出てしまった。
それからどうやって家までの道を走り抜けたのかは憶えていない。
貴方が好きだと、階段で握っていた刃の意味さえも訊けずに、私がこの手でその権利さえも奪ってしまったという恐怖。彼と一緒に逝ってしまおうと腕を切っても、化物である私は自分の身を滅ぼすことは許されていなかったのだ。
今までにも、消えてくれれば、いなくなってくれればいいのになぁと独りよがりに渦を巻いたことはある。だが、そう簡単に行動には移さないのが人間だ。爪の先に忍ぶ鋭い頭角を初めて目にしたときにも、この手で彼を突き落としたのだと思うと余計に悍しく(おぞま)なった。
思いを巡らせていると腹が減るのに、食べ物を口にすると根差しした生命に吐き気がして、便器に首を突っ込み何度か胃の中のものを戻し、そのうち諦めて空腹のまま眠りについてしまった。この際傷ついたフリでも良い、誰でも良いから心做しだと、今日という日を気のせいだと信じたかったのだ。
鏡の中の少女にどこか苦しくなって、されど、そのほくそ笑みに温かささえも感じる。
家屋で独り座っていると空虚に襲われるのに、窶れた顔で人が大勢いる場所にいく勇気はなかった。人付き合いが悪く、こんな時に頼れる友人も家族もいない。とうにも、今年は両親のお墓参りもいけそうになかった。
次々と大切なものを壊していく両腕は、切り離されたかのように汚らしく箪笥を漁る。お義母さんに買ってもらった着物も、貴重品も、全てが無意味なガラクタのように見えて、手ずから裂いていく。
義母がお給料を奮発して買ってくれた浴衣、母の残した遺骨のブローチ、誕生日に紝ちゃんがくれた折り紙の華、初めて人に可愛いと言われたカルメ色の簪。
追憶すればするほど空しくなって、絞り出る紅涙にぴたりと指先の衝動が止まった。
『じゅんこ』
込み上げてくる感情を押さえつけるような、穏やかで、悠々とした声。
いつか聞いたことのあるような頭に響く濁りに、夏の暑さのせいかひどく頭が空虚を訴えた。
彼と出会い、別れて、それでも私は何度もそれを思い出す。何か新しいことがあるたびに記憶が塗り替えられて、浮遊して過ごしたあの三年間の思い出は殆ど残っていないようにも思えた。
壊れた人形のように痩せた白い腕を胸にあてて、心臓の鼓動に痛む額を押さえて鏡の前に立つと、見たこともないような形相が茜色に双眸を輝かせていた。ぎらりと睨む眼球からは太陽の煌めきは失って、ただ大気中の塵屑が奏でる日堕ちの色に染まる。身体に付き纏う頭角がなくとも、それは血肉に飢える立派な化物の姿をしていた。
しつこいほどに読まされた子供の童話、物語の中でいつも悪役に秀でる化物の姿。
唇の端は確かに吊り上がっているのに、わざとらしく頰が引きつって、不器用な愛想笑いをこめかみでつないでいる。
臆病者。
そう自分の口が物を言った気がした。自分の意思で物を言ったわけではない、身体を乗っ取った空虚感が微かに口端を吊り上げたのだ。
堕ちた悔しさに泣き喚いてしまいたいのに、光を失った瞳から涙は出てこなかった。押し寄せる情意に身を任せて鏡を床に叩き割ると、凄まじい破壊音の代わりに無様な嗚咽が口からこぼれ落ちた。
『……紝ちゃあぁん、ぁ、あぁぁあぁ、助けて、 お願いだから私を殺して! 殺してよぉ! もう私のことを叱ってくれないって言うのなら、いっそ私が壊れる前に首を掻っ切ってしまえれば良かったのに! っぁぁあぁ、どうしてだよ、なんで私ばっかりがこんなに辛い目に遭わなきゃいけないんだよぉぉっ!』
刺さった鏡の破片から血汐が流れるのを感じ、巡り来る虚脱感にふらふらと膝を抱えて蹲った。
清く美しい生だなんてくそくらえだ。何も美しくなんてない。死がこんなにも引き裂かれるほど酷だというのに、生が美しいだなんて思えるわけがないじゃないか。
快進撃の正義だって悪党だって、仲間を敵を切り倒しながら生に懸ける。それが世界の調和だと言うのなら、そんな平和、私には要らない。
所詮群衆に血祭りは似合わないのだ。戦国の武将だって、引き篭もりだって、物語の冒頭で主人公を際立たせるために死ぬ町人Aにだって、履歴書の何百枚を埋めるような濃く長い物語がある。ひ弱な私に、彼らの計り知れない苦悩を助けてあげられるわけでも、護ってあげられるわけでもない。
ただ、この手で奪っていけないことだけは確かだった。
みっともなく笑って食器を洗っていると、蛇口の流れる音に混じって何かが込み上げてくるような気がした。蛇口に伸ばす手を止めて眉間を摘むと、肺から息を吐く。
いっそ、溜息をつくと脳が死んでいくと言うのは本当なのかもしれない。一人で家にいると、喉を絞っても出てくる言葉は溜息ばかりだ。大きく息を吐くと肺が萎んで、心臓の音がより大きく鼓膜に届く。
溜息を吐くたびに、また同じことを何度も繰り返している。
『辛いでしょ?』
あぁ、そうだ。
今の状況を一言に表すと“辛い”以外の何者でもない。
だけれど、思い出さずに独り虚しく生きていく方が何倍も辛いのだ。何度考えても、人間の感情のつくりは不可思議。
不幸を布教する側の人間だというのに、夢見た平和な世界に彼を連れて行ってやれなかったことを何よりも悔いている。
ヒーローなんていないと胸張って放胆しておいて、ブラウン管の奥でどこかそんな未来(こに期待するだなんて。日々と進化していく世界を見て、いつしかそんな小さなことはどうでも良くなっていた。
私にとって彼は長い道の一部分であったかもしれないけれど、紝巴にとって、自分が一番辛かったのを知っているはずだ。誰より辛く残酷な世界の片隅に育って、終生を決めつけ否定される屈辱を誰よりもわかっていたはずだ。
———だからこそ、彼は笑ったのかもしれない。
棚の上に残った折り紙に一度視線をやると、朱線のはしる頰を撫ぜた。
こんな気持ちになるのは、いつ振りだろうか。
息を止めて高鳴る胸を沈めると、何事もなかったかのように蛇口を捻る。
さらりと肩から垂れた髪が、外光に照らされて白銀に煌めいた。
Ⅷ
兆候というものはいつだって、後から分かり得るものなのだ。
彼がいつも口癖のように言っていた『醇乎』という名の意味づけを悟ったとき、自然と脚が尚陽のアパートへと進めていた。
扉を叩いても返事は返ってこない。案の定———留守だ。
こんなにも日の短い時間に身体の弱い彼が荒地へ向かうとは、どうも考え難い。それだけでも悪い気はしていた。
お世辞ではないその呼び名を付けるのは彼しかいないのだと、本当に醇乎たる精神を持つのは彼自身であると、そう気づくのがあまりにも遅かった。
背中を突く振動に口を半開きにしてふり返ると、厚いチェスターコートを着た尚陽が、悪戯な笑みで立ちすくんでいた。
「———」
腹の奥から湧き出る安心感と共に、彼から溢れる異様な雰囲気が私の口を噤ませる。笑みの奥底にある悪の意を悟ったからだ。
そして、その悪意に満ちた笑顔が誰のものであるのかをようやく理解したからだ。
「———お前」
その笑みに対抗するかのように、眉を潜める。
「お前、紝巴だろう」
堅い口調で吐き出したそれは震えていて、怯えが彼にまで伝わってしまいそうだ。
焦点の定まらない瞳で彼を見つめると、尚陽は毅然として小さく「そうか」と呟いた。
一歩一歩と近づく柑子色の瞳に後ずさると、心外にも後ろは壁で、こつりと踵があたるような音が電流のように駆け巡る。
「僕のこと、憶えていてくれたかな」
「———どうして」
怯えるように、喉の奥から掠れた声を絞り出す。
壁に手をつくような振動が耳元で騒めき、肩に身震いがした。近くで木葉が揺らぐような心地だ。裏表の仮面を破くことが、こんなにも呆気無いなんて。
それにしても、彼——紝巴尚陽という人間は何年も前に亡くなっているはずだ。
だって、私がこの手で——
「何をそんなに怯えているの? 何もしませんのに」
「………どこまでが」
「え?」
「………どこまでが嘘、だったの?」
問い詰めるつもりが声が震えて、余計に惨めさが増したようにさえ感じる。
口角は引きつるほど吊り上がっているのに、右の瞼だけが猜疑にひくつく。人間の自衛本能であるそれに、彼はふっと笑みを零した。
「言ったでしょう? 僕、周りくどいの好きだって」
「嘘、つき」
「違うよ。自分を取り戻すのに少しばかり企てただけさ。一度殺された仇をとるためにもね」
「私への仕打ちのために?」
「…嘘をついたのは悪かった。それは醇乎への復讐でも仕打ちでもない。ただ好いている上での後悔なんだ」
唇の剥がれた皮を、口の中に含める。
「じゃあ死ぬっていうのは嘘なんだ」
私の言入れに、彼の笑顔が表面からすっと消えた。怒るわけでも羞恥に染まるわけでもなく、結ぶ唇の端に力を込める。
「死ぬよ」
近距離で、冷えた吐息が耳にかかる。
その感情は、恐怖以外の何者でもなかった。
「でも、嘘、なんでしょ?」
「誰が嘘だなんて言った」
「嘘よ……だって、紝ちゃんは———」
その言葉が、私なりの精一杯だった。
彼は何も言わず、離れない一定の距離で背をあずける。窓から吹きつける冷気が結わない黒髪を渦のように掻き乱し、見えない壁ができたかのようにカーテンレールが彼の姿が覆い隠す。
「醇乎の中で一度死んだ紝巴という人間は、傷だらけの生身で再び姿をあらわし、そして彼女の目の前でもう一度死ぬ。どう、酷いと思わない?」
レースの幕が下がったとき、私の目には何が見えていたのだろう。彼の声は震えていて、顔を見せないようにと首を項垂れた。
「じゃあ、手術は? それならきっと……」
「手術だって、今の段階じゃほぼ成功例は無いよ。きっと検体にしかならない。鉄パイプを入れて、血栓の詰まりを断ち切ることしかできないんだよ」
残念ながら、と云う声は小さく怯えていた。
「だからって、諦め切れないよ」
「……優しいんだね、醇乎は」
「優しいとかの問題じゃないでしょう? 全ては、私のため。自分の正体を隠し続けてきたのも、心の隅で存在を想っていたのも、ただ自分に平凡な幸せが欲しかっただけ。平凡な、人としての幸せを——」
幸せを、手に入れるために。
涙が詰まって、喉の奥からその言葉が出てこなかった。頭の中で文字にすることはできるのに、言葉を震わせることができない。
尚陽は窶れた笑顔で小首を傾けると、足元に視線を落とした。
「幸せね。僕も、小さい頃はよくお父さんに言われたなぁ」
微塵も悪意がこもっていない、無垢な笑み。
「『いつかは迎える老いて寿命を全うするその日まで、後悔のないよう生きろ』ってね」
一度だけ、心臓の鼓動が耳に届いたような気がした。
鈴の音のような、心の有る言葉のひとつひとつが、じわっと脆い眼球に汗を溜める。夥しい悪事と、計り知れない後悔。殺意に急ぐそれらが、巡り巡って狂気に変わっていくのだ。それでも、生きろだなんて———
一見戯けて見せていても、尚陽はあまり表情を表に出さない人だから、私が思っているよりずっと思い詰めているのかもしれない。死ぬ間際でさえ、心配させないと頑張る彼の姿が見苦しくて、地面に俯いた。
「醇乎は昔から変わらないんだね」
「……紝ちゃんは変わったね」
「いや。君も僕も、昔から核心は全く変わっていない。沙汰があったって、まず他人ではなく自分を責めるでしょう? 傷心さえしなければ、素直な善い子だよ」
「私は、そんなんじゃ…」
「表面で強がっているけど、迂闊に触れられると崩れてしまう。貴女は、自分が思っているより強くなんてないんだ。今だって、僕が死ぬと分かってこんなに辛そうな顔をしている。なのに、脆い自分の精神が崩れるって解ってどうして———」
どうして。彼の狂気めいた愛想笑いに、心臓が掴まれたように縮んだ。
この感情は、侘しさでもときめきでもない———焦り、だ。
「……どうして紝ちゃんは、僕を殺そうとなんてしたの?」
ほんの一瞬、ワイシャツを着た、中学生の頃の彼が目の前にいるような気がした。何年も頭に葛藤を与えた、哀傷のこたえ。
追想すればするほど視線が泳いで、彼の姿が何重にもぶれて見える。いくら葛藤したところで、返り血の、あの気持ち悪いような感触が頬から離れてくれない。
さっきまで尚陽の死期を争っていたというのに、不意な話題変換だ。まるで、空っぽだった心に、臓器に、漆黒の液体が流し込まれていくような気分だった。
あの時私は、どんな顔をしてその場に立っていたのだろう。ただ立ち尽くして、もしかしたら、クラスメートと同じ様に弧を描いて笑っていたかもしれない。
まるで人殺しのようだ、って。どうして今更。
「……仕方、なかったのよ」
無感情なまま、頷きもせずに彼は私を見つめる。
悩む間もなく、答えは案外簡単に零れてしまった。ずっと胸の隅の方で悩んでいたのは、口にしてしまったときの彼の反応。くだらないと白い目を向けられるかもしれない、見切られてしまうかもしれない。でももしかしたら——と一抹に寄せていた期待が、その瞬間泡のように砕けて消え去った。期待していただけに、茫然とした不安に煽られる。
「腑に落ちないのは分かっている。でも、自分を守るのに精一杯で、貴方のことなんて空っぽな頭では考えることが出来なかった。灯に満ちたような貴方の目に反応する眠っていた化物が、紝ちゃんを殺せ殺せと唸っていたの。気がついたら、夥しい量の血液だけが手のひらに残っていた」
顔を上げなくとも、どのような表情をしているのかが目に見えてしまう。月明りが窓辺で全反射をするように、差し込む月光が煌めきを失っていた。情けにも、僅かな灯が部屋を薄暗く照らす。
「貴方は、どうしてそんなに活きた目をするの? 貴方の目を見ていると、私の生きてきた人生を否定されたようで、余計惨めになる。私は、自己嫌悪ながらも頑張ったよ。人に好まれるように苦手だった愛想笑いも克服して、大嫌いだった堅実という言葉を飲み込んで。長い年月がかかったけど、私の性根の悪さもうまく補うよう努力して、積み上げて、繕って、だけどひとときの感情で全てが崩れ落ちた。私が辛い時には誰も助けになんて来てくれなかったのに、なのに何で。なんで行き別れの貴方なんかが———」
そこまで言って、私は口を噤んだ。
これ以上口を挟むと彼を傷つけてしまうような気がしたからだ。
項垂れる彼の貧相な顔に魔が刺し、口先だけが切り取られたように端を発する。
気持ち悪い。思ってもいないことを、どうしてこんなに疵を求めるように口にしてしまえるのだろうか。
今私の口から出た言葉は、全てが自己防衛。そして、自己中心的。
素直で堅実な愛嬌者? そのどれに心が有ったというのだろう。
私の今までの行動では努力が足りなかった。ただそれだけの話だ。結局、自分が成した良いことも、悪いことも、自分には返ってこない。
それではまるで、糸の切れた絡繰人形のようだ。
音もなく、壁についた手が柔軟剤の薫りとともに離される。嗅覚が落ち着く、柑橘系の薫り。この薫りに落ち着くのは、小さい頃からの馴染みがあったからだろうか。
「ごめんね」
頭の上から、声がした。
彼の哀しそうな顔に、やっと自分の言葉が彼への当て付けだと気がついた。単に私は、彼に助けにきて欲しかっただけ。何の存在価値を持たないちっぽけな醜女が、よく偉そうに他人の説教をできたものだ。思い返すと今更、目頭が熱くなる。
彼に、会いたかった。会って、謝りたかった。昔のように戻って、また荒野で笑い合ってみたい。彼に正体を偽造させるくらいなら、もっと早く彼のもとへ会いに行っていればよかった。
涙ぐんだ目元を振り切り、荒ぶる息を落ち着かせる。
彼は、冷たく凍てつくような三白眼を細める。尚陽の目には、奥に核のような赤い灯が燈っているのだ。よく見ないと分からないのだが、怖気づくほど、真っ直ぐに。
「紝ちゃんと私は違う。私は、貴方みたいな正義感のある結論なんてつけられない。……もうどうだってよかったの。唯、私が生きている意味が欲しかった。他人の人生を壊すという私に課せられた使命感に、気が滅入ったとしても。だから——」
私の目線上にある彼の表情は、想像していたものとは違った。
こんなにも底辺なことを口走っているんだ、多少なりとも私への感情が募っていると覚悟をしていたのに。
「どう、して」
どうしてと問いたところで、他人の心境なんてものは分からない。分かったふりをしたって、答えが見つかるわけではない。
昔からずっと思っていたんだ。怖くて、ただ訊けなかっただけ。傷つくのが、怖かっただけ。自分の思い通りに彼が動く根拠も、自分が傷つく理由もないというのに。
「——どうして紝ちゃんが泣くの?」
口角が、少し歪む。
猛烈な苛立ちが心臓の鼓動を早める。傍観しかできない自分の無力さに、腹が立った。
「どうして私を怒ってくれないの? 嫌われてしまったほうが、よっぽど楽なのに。こんなことになるなら、あの時死んでしまったほうがよっぽど良かった。お情けの眼が私に向くのなら、叱責して、嘲笑って、いっそ私を地獄の底まで突き落としてよ!」
急に叫び声をあげたからか、膝の力が抜け、蹲るようにして崩れ落ちる。
悲劇のヒロイン演じなんて、気分が悪い。自分の言いように腹が立って、情けがなくて、泣き出しそうな瞳を顰め唇を噛んだ。
なんで、と、まだ残された口が物を言っていたような気がする。空っぽになった胸の中は、穴が空いたように軽い。想っていると重く苦しいのに、何もなくなると漠な空虚に襲われてしまう。
固く結ばれた彼の口元が、解れた。
「好きだからだよ」
まだ、そんな表情が。
彼は私の前にしゃがむと、柔和に笑う。
「昔言ったじゃないか。大きくなったら結婚しようって。そのために僕、辛くても今まで頑張って生きてきたんだ。生きていれば、また紝ちゃんに逢えるかもしれない、って。だから、やめろよ。死にたいなんて、二度と口にするな」
「どうして…」
なんで、そんな顔をするの。
月灯になぞられた幸せそうな笑顔。白い頬に差した紅が、あの頃とよく似ている。
「……どうしてだろうね」
彼は目に光をためて瞑ると、薄く開いた。
小さな吐息でさえかかりそうなほど近い距離にいるのに、彼が、すごく遠くに感じる。
「——私、あんなことを、貴方に」
弁解するように伸ばした両手を、彼が組ませるようにぎゅっと握る。手の甲に伝わる彼の手は、じんわりとあたたかかった。
「醇乎が生きているだけで全てが満たされるから、僕はそれで十分ですよ」
傷だらけの腕を細い両手で握って、紝巴はゆっくりと顔をあげる。
「何回、自分のことを傷つけたの?」
「痛みの数だけ強くなれる、なんて言うじゃない」
「強く、なろうとしなくていいんだ。自分を傷つけて強くなると言うのなら、弱いままだって良い。痛みを知って何になる? 地の底を這ったものが正義のヒーローになれるわけじゃ無い。そんなもの、僕が、護ってあげるから」
背骨に這わせた彼の手に力がこもり、両肩の骨がきしむ。振り解けない焦りにヒトの体温が混じり、声に出せない痛みとともに、じんわりと頬が熱くなるのを感じた。
「ねぇ」
彼になら、自分の存在を壊されていいと。
「もう、諦めちゃおうか」
腹の奥から吐き出したそれに、尚陽は答えなかった。縦にも横にも振らない白い頸に、浅く、安堵としないため息を漏らす。
生暖かい風に窓を覗くと、数少ない建物が白熱電球の色に滲んでいた。
もう、諦めてもいいのだろうか。
希望に満ちた朝焼けを見つめることを。
泣きじゃくりながら夜明けを追いかけることを。
屋上で必死に生きる意味を数えて指を折ることを。
腕に傷を重ねてまで声を聞こえないふりすることを。
もういない家族の分まで食器を用意して鍋を食べることを。
その全てを捨てて、彼といることを選んでもいいのだろうか。
曇った彼の表情は今にも泣き出してしまいそうなほどに滲んでいた。
「…………知ってたよ」
知っている、ではなく、知っていた。
「あの日の夜に階段で泣いていたことも、化物の姿になってしまうってことも全部」
彼が言葉を止めた瞬間か、もしかしたらそれより早く。私の服の中で、懐中時計が三回震えた。八時の五分前を示す、昨日の晩にセットしておいたものだ。
耳慣れたオルゴールの音に、今になってはっと想起する自分がいる。
あの夜の、みすぼらしい私を知っていた?
なんで。
正体も、追憶も、知られないようにと必死で隠してきたのに。
不意に、彼の柔らかい袖先が頬を撫でた。いつもそうだ。どれだけの後悔も悔いも、彼の言葉一つで許されたような気分になってしまう。
指先が触れた温もりがどこか懐かしく、どうしようもなく、愛おしくて。
泣けば慰めてくれる。何もしなくても好いてくれる人がいる。それが当たり前に溶け込んでいて、ふとした瞬間亀裂が入ってしまった元の生活が、孤独だと勘違いしていただけ。
——私には母親がいないから。
そんなの、淋しさの捌け口でしかなかったのに。母親がいなくても、父親がいなくても、幸せに生きる術はきっとあったはずだ。私はそれを、探そうともしなかった。探して、見つけてしまうのが怖かったんだ。もし身の回りの誰かが死んで目の前からいなくなったとしても、私は今まで通り何の変哲もなく生きていけるということを。人間である限り、いつか追憶が薄れたときに無理やりにでも気づかされてしまうものなのだ。今どれだけ大事で大切なものでも、自分自身それ無くしても平凡に四季を眺めていられる。
子供の頃は出会いや新しい発見に恵まれていたけれど、大人になって全てを手放してみてやっと父の葬式で笑っていた母の心理が少し解ったような気がする。
大人は、怖い。
知り過ぎてしまった血腥い大人の広大な世界に、喉の詰まりがすっと消えたような気がする。自分を置いて廻ってゆく時計の長針に、簡素に思っていた月並みな人生というものが、より遠く手の届かない存在であるかのように感じた。
憎い夜の自分を殺してしまいたくて腕を切っても、仲間を求めて必死に真核を叩いてみても、結局殺されていくのは昼間の私の方なのだ。華咲くことを夢見て芽吹いた小さな球根が、蕾である自分の姿をただ否定し続けるかのような無惨。
どれだけ嫌っても、欺けない。生きるのが辛いと解ったところで、どうにもできずに四季折々がぐるぐると窓の外で巡っていった。月日だけが無駄に私の脚を引いて、哀しみも、希望も、いつの日かの恋心も、とうに私は何も感じなくなってしまっていたのだ。
頬を染めて眉尻を下げると、それを合図とするように私の頭を彼の首元に抱き寄せる。心を癒す彼の薫りに、我慢していた目の綻びが溢れ出した。
五年前と、同じ薫り。
遠くに行ってしまった気がしただけで、彼はずっと同じ場所にいたのかもしれない。好意が無くとも、愛されていなくても、殺意さえが向けられようとも、紝ちゃんは私を側でずっと待っていてくれたのだ。
———阿呆らしい。
そう思うと、涙が出た。
彼の体温に目を瞑ると、瞼の裏に鮮やかな夜の景色が美しく蘇る。街に灯る電燈は私をおいて消え入ってしまうけれど、隣で街を見下ろす彼だけは、私と同じ疾さで末端を笑い合えるのだ。
今が、幸せというものの最高点だとしても、いずれ彼がいなくなって、私がその想いを心臓の隅で何百年何千年と護り続ければいい。そうすれば、今よりずっと幸せに生きていける。
そう直ぐに自分の思いを吹っ切れないところが、不覚にもあの女に少しに似ているのかもしれない。死んでもそうは思いたくないが、皮肉にも私を母を同等の扱いを受けていたあの頃の記憶が片隅に残っているのだ。
ただ、幸せになりたかっただけなのに。
好きな人と、ずっと、一緒にいたかっただけなのに。
誰と同等なわけでも、無い。
我に返って私が身体をのけ反ると、目の前の火照ったような顔を袖先で隠す。きっと自分も同じような顔をしているのだろう、顔の表面が熱湯をかけられたかのように熱く高まった。
いざ親身にしてみるとどこか恥ずかしくて、彼の身体から視線を背ける。
「このまま、ずっと」
俯いたまま彼の袖を握ると、はじめて、彼の手が震えていることに気がついた。
怖くとも、彼は言葉に示さない。弱音すら吐かないし、涙を流すこともない。
全ては、きっと私のため。私が、彼の感情に深く漬け込まないように。
噛み締めた奥歯が軋む。
死にたくないと、その一言さえあれば私は彼の力になることだって出来た。彼に恨まれているとばかり根に持って逃げてきた私が馬鹿みたいだ。まるで、無力。私だって、彼と同じくらいの芯強さは兼ねているつもりだったのに。
血腥いままごと玩具を手元で転がして、それで救ったような満足気に満ちる。力を貰っていたのはこちらだというのに。
「……私、まだ本を半分も読み終えていないわ」
独り言のようなか細い声で呟くと、「あぁ」と静かに絡めた手を離す。
体温が散っていくのを感じ、心のどこかでまた寂しくなった。
「本は、醇乎にあげるよ」
心臓に胸騒ぎが走る。ぞわぞわとした不安心が掻き立てられ、押し寄せる哀嘆をすんでに歯止めがけた。
嫌だ。このかんじ。
幼い頃から見てきたからか、彼の考えていることが手にとったように透け見える。
自分のことなんて忘れて、幸せになってほしい。でも本当は、忘れて欲しくなんてない。じゃあ、全てを虚無にしてしまえばいいと。
灯をためた目から、視線を落とす。
いびつに歪んだ彼の顔は、口元に愛想を尽くしていた。
「———尚陽」
彼からは、息を吐く音が消えている。
たしかに呼吸はしているはずなのに、吸う音も、吐く音も、鼓動の音だって、あらゆる生活騒音を彼は為さない。呼吸が浅いのか、というとそうではなく、着服している薬の副作用で臓が鈍くなっているのだ。あまり遠くない入寂——そう思うと、余計に心が哀しくなる。
そっと、彼の心臓に両手を置く。指先に静寂を置くと、彼の心臓が脈立っているのが伝わった。いつか終わる鼓動だと分かっていても、なぜか脈が止まった想像が浮かばない。
「私、絶対に貴方へ本を返すから。絶対に——」
見上げる私の険悪な顔を、ただ驚いたように眺める。
「エルヴィスの花は確か、水無月にしか咲かないんでしょう? だったら、早く病気なんて治してまた一緒に探しに行こう。私ね、まだ尚陽としてみたいことが沢山あるの。それに、もう諦めることにしたのよ。無闇な希望はもう抱かない。だから——」
だから、それまでは。
「——」
月影の粒が窓から降り注いだとき、彼はやっと私の目を見て、にかっと笑ってみせた。
「約束するよ」
精霊のように、綺麗に。
それは、子供の頃果たされなかった二度目の約束だった。
針千本どころではない、自分に殺意を向けさえするほど泣き叫んだあの夜を背中に敷いて、長いこと夜の道を歩き続けたことだ。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあるというように、そうしていれば、いつか彼にも会えるような気がしていたのだ。
抱え切れないほどの針を呑んで、それでもまだ足りない苦しみを抱えてもまだ、心の端に彼の姿があることで僅かな慈しみをえることができた。
それくらい私は、紝ちゃんが愛おしい。
世界中を独りで飛びまわれることより、二人肩身狭く生きていた子供の頃のほうが———幸せという言葉一つも表現できなかったあの頃のほうが、ずっと幸せでいられた。
少なくとも彼の寿命の灯が消え失せるその時まで。
だから。
こんなにあっさりと終わりを迎えることになるなんて、思いもしなかった。
Ⅸ
気がついたら、夜気染まる坂道を走っていた。
息を吐くごとに心臓がヒュウと不気味に軋んで、両手で押さえる肺は凍りつくほどに痛みを訴えて鳴る。酸欠になった鈍い身体でなお、この歩みを止める理由にはならない気がした。
含みある彼女の一言に凄まじい悪寒がしたのだ。
引き伸びた黒い影に、再び凍りついた心臓が鼓動するのを感じた。
息を切らしながらおそるおそる下を見ると、赤黒い擦り跡が荒地の方まで続いている。月光に照らされたそれに、柑子色の瞳が不意に狭まった。
———
彼女の死骸を見た。
人間の死は思っていたよりずっと呆気が無いもので、昨日まで鼓動していたはずの胸腔は元の色がわからないくらいの暗赤色に爛れて冷たく固まっていた。
彼女の両手で掴めそうなくらい細い胴体に、ざっくりと一本の朱い直線が腸を貫通し、その垣間に地面に咲く辛辣な刃が頭角を見せる。
人為あるものだろうか、だなんて解る必要も無いし、解ったところで復讐してやろうという気も今更になって起きない。だが、彼女の臓器を突き上げるものを見て、果物ナイフは暫く使えそうにないだろう。
眠っているその周りには水しぶきのように色彩がばらまかれていて、彼女が最後の力を振り絞って地びたから捥いだ一輪の花が風に揺れた。色に汚れた花々が、彼女の存在を痛いほど僕の胸懐に伝える。硝子細工のように固まった眼球が、夥しい鮮血を映して茜の時を止めていた。
僕は、死という事柄をあまりに甘く見過ぎていたのだ。生死をあらためるのが文学作品の十八番であると聞いたことがあるが、まさに実際はそうなんだと思う。はらはらと舞う彼女の血が潔白な花々に吸われるのを見て、眠っている彼女を叩き起こそうとかいう気も失せてしまっていた。
頬にはまだ彼女の温もりが残っているのに、目の前にいる骸は僕の声にこたえは返ってこない。ただ、身体を紅色へと変化させた花々が明燈に煌めくだけだ。
「———なぁ、醇乎」
彼女の左手に抱えられたエルヴィスの花を一輪、指先で摘む。
永遠、希望、恋心、そんな意味が込められた紅色の花の茎を、力任せに圧し折った。茎に刺さる棘が掌に食い込んで鮮血が滴る。こんなものじゃない。醇乎は、もっと痛たかったはずだ。もっと苦しかったはずだ。
自分たちで描いてゆくはずだったその傷痕に、唇の端を強く噛み入る。苛立ちでボトムスの裾に手を伸ばしても、握るほどの気力はもう無かった。
僕が先に逝って、彼女を待っているつもりだったのに。
またあの頃のように笑い合って、欲を言えば哀しそうに顰める彼女の顔を見ながら最後を迎えられれば、それでよかったのだ。いつも自分が死ぬことばかりを考えていて、盲点とも誰かを送り出す側の気持ちなんて考えたことも感じたこともなかった。
馬鹿だなあ。
これじゃあ笑いながらなんて、できるわけがないじゃないか。
涙がこぼれないようにと天を仰いでも、その羞恥を嘲笑うかのように眼球の奥から流れ出る熱い涙が頬を濡らし、花々を、彼女の衣服を、遠慮なく濡らしていく。哀傷と焦燥が絡み合ったどうしようもない頭で、彼女のことを考えた。
下衆な親のもとに生まれて、ちっぽけな少年と出会って、化物という皮を被ったしょうもない人生を送り行って、それでも幸せだと笑った彼女の顔を。
彼女の物柔らかな微笑が、掌に滲む体温が、自分に確かな感情を与える。独りぼっちだった僕の手を握って、碧落に連れ行ってくれたあの時の昂揚が恋だと解ったのは、それから何年も後の話になる。
唯一の糧を失ってしまったのだから僕はもう、本当に独りぼっちだ。
「———醇乎、もういいよな」
胸に詰まる何かを吐き出すように、辿々しく目を細める。
笑わなきゃと勝手に思い込んでいるだけで、本当はこの状況で笑う必要も理由もないのかもしれない。それでも、彼女の前で取り乱すような情けない真似はしたく無かったのだ。
細々しく脆い声で、無意識の中で浅ましく蹲っていた。
「……僕は……尽きるまで、あと何回笑うんだろう……楽しいことも、嬉しいこともきっとこの先あるんだろうね。誰かに支えられて、また誰かを支えて……だけど……もう駄目なんだ。だって、僕は……」
僕は君が———
あの時の醇乎のように、どうしても、その先を口にすることができなかった。
手を伸ばせば触れられる距離に肩があるのに、どうしても彼女へ触れるのを強張ってしまう。小さい頃に、ずっと隣に並んで歩っていたはずの細い肩。彼女の強がりな背中も追えなかったこんなにも情無い僕に、君に好きだと伝えられる日が、来るのだろうか。
醇乎の想いなんて、今更考えても分からない。辛くても痛くても耐え、やっと彼女のもとに帰ってこられたというのに、この仕打ちか。
なぁ、もういいだろう。
最後くらい彼女の隣で骸となったって、今だけは命運にも許されてしまうような気がした。
「待っててくれ———今そっちに」
花が舞い落ちるように流れる血液を横目に、入道雲の沸き出す空を見上げた。
風刺画のように止まった樹々から、荒野に明るい光が差し込まれている。久し振りに感じた快晴の陽気に、瞼を伏せて頬を緩めた。
———気のせいかも、自分の希望が生んだ幻だったのかも分からない。
「……死ぬな死…な…ぬなっ」
その時、意識が遠ざくのとどっちが先か、わずかに掠れた彼女の声が鼓膜を震わせたのだ。
「醇、乎」
何度彼女の名前を読んでも返事は無い。
当たり前だ。彼女の脈はとうに消え失せているのだから。
『死ぬな』
生きろ、でも、頑張れ、でもなく、死ぬな。
眼球が紅に染まったとき、目の前に水滴が溢れていた。
全くもって、醇乎は最後まで非道い人だ。
そのせいではじめて、気がついた。
僕は、死にたくなんてなかったのだ。
Ⅹ
「久しぶりだね、醇乎」
僕の言葉に、彼女は薄い唇の端を優しく結んだ。
二人で見ていたはずの電燈が照らす街は、何変わらず無温をなぞったような冷徹に染まっていた。蕾のまま彩っていた華々が晴天の空に反射し、鮮やかなそれを瞳にうつす。
「もう、遅いよ」
呟くような彼女の言葉には、僅かな綻びが混じっていた。
護ると誓ったその小さな背中が、ゆっくりとこちらに向く。
「十八年も女の子を待たせるなんて、どういう神経してんのかしら」
突き放すような、されど物柔らかく引き止めるような、懐こく奥ゆかしい彼女の言葉に、眼球の奥が熱くなるのを感じた。
風に揺れる髪と白い肌に、抑えきれないほどの感情がなだれ込んで、それを強く拳に握る。
「おいで」
彼女に開いた腕の間から、柔らかい髪の毛の感触と空疎な重みが肩にのしかかった。
肩を覆う彼女の両腕に体温はないけれど、あたたかい。
背中で隠していたアネモネの花束を謙虚に差し出すと、驚いたように頰を朱色に染め、僕におかえりと言って笑った。その無邪気さには、これが僕なりのプロポーズだということに気づいていないのかもしれない。だけれど、今はそれでいいような気がした。
そうだ。これでいいのだ。
生きて彼女に体温を与えることが僕にとって糧となるのなら、それを幸福と呼ぶのだろう。
辺りの空は雲ひとつない晴天で、蒼一色に染められた樹木は雨上がりの小さな湖畔に沈んでいく。
その瞬間、青年は世界で一番幸せだった。