輪廻のノスタルジー 前編
中学二年が魂込めて書いた力作。『輪廻のノスタルジー』の前編。ノスタルジーな気分に浸かれるどんでん返しドラマです。是非読んでみてください。後悔はさせません。
輪廻のノスタルジー
弦月の宵、少女は十七歳を繰り返す。
血塗れたナイフを持った隣人は、私と見合うなり「化物だ」と嗚咽し、惨めに走り去った。
私は泡沫だ。
夏が終われば忘れ去られてしまう、無彩な影で形成した私を人はみな嫌い、避けて、逃げていく。醜悪ではないくせして、純正な人間でもなく、只々化物として長い間を生き続けている。
『×××』
揺らめく吐息に後ろを振りかえると、昨日の欠片が残るそらが田圃に反射して青白く光っていた。
端に細かな草が生茂る、田舎の一本道。
からからと自転車の籠を鳴らし、おのれの漆黒に染まる袖を風に揺らしている少年の姿が、ぼんやりと脳裏にかすんだ。
私は彼に、なんと呼ばれていたのだろうか。
いつかの少年の名は、なんと言ったのだろうか。
昔のことを何一つ思い出せないまま、いつしか私は夜の世界に腐っていってしまったのだ。
うすぼんやりと光る電燈に橋の下を覗くと、淡紅色に光る水面を瞳がうつした。空を見上げると向こうの端はまだ明るいのに、走っても走ってもその場所には辿り着けやしない。どこまでも続く田舎道をなぞって、日の出に一番近い場所まで懸命に走る。夜明けの先がひどく遠いと気づいたのは、いつだっただろうか。
夜風をあびて冷え切った身体はこごえて、肘を抱えてそれを誤魔化させる。
右の拳に握りしめるナイフは刃先が毀れていて、その一つ一つが乱反射をするように私の瞳を突き刺した。ナイフに溢れる月光に、いまだ弦月がぼんやりと姿を浮かべて滞る。
せっかく今日で十七の誕生日を迎えるというのに、はじめに見た代物が包丁だなんて夜の世界はどうも物々しい。唇に掠めても、今日は何故だか舐めてみる気にもなれず、目下の水面に打ち棄てた。
水面に浮き上がる黒い血溜まりが泡を立て、突き刺した水面がぶくぶくと、まるで息を吐くかのような鼓動で消えいく。自棄になった右腕が空をかざすと、波紋が大きく輪を広げていった。
勢いよく跳ね上がった水飛沫が腕に撒き、あかね色のあせた傷ひとつが心臓のように波打つ。腕に、腹に、脚に、ありったけの「生」が滲む。無垢な願いで見る煌めきとは違う、胸に深々と刺さった何かが疼くような吐き気が、喉のところまでのし上がった。
あれはいつだっただろうか。
蒸し暑い夏の木陰に座りこんで、目に光を宿した少年と遠くの高台に手を伸ばしたことがあった。無垢な願いで見る煌めきが、陽炎のように耳元で揺らぐ。涼しいねと蒸し暑さを誤魔化すように言った戯言が、今になって頭にふりかかるようにあつくなった。
遠い高台の下には財宝が埋まっていると、この街を越した先にはちがう世界が広がっていると、浮橋な夢を見ている自覚が私は酷く遅かったのかもしれない。幼く届かなかった遠い景色が、いつからか当たり前に手に届くようになってしまったものだ。
独りで見るその美しい景色はただただ侘しくて、どこか淋しげで、思わず傷だらけの腕を高台へと伸ばしてしまった。
純白とも言えない燻んだ白で、黒に染まれない烈しい黒、正義にも悪にも染まることができる程してなお染まろうとしない半端者の腕。
もう少しでも私が悪だったなら、いつか倒しに来る正義の生きる糧となれただろうか。私は悪人というわけではないが、決して善良なたちというわけでもない。悪も善も見境なく倒した残虐な正義の名を、誰が呼んでくれるというのだ。結局は誰一人私を見つけることすらせず、この広大で美しい世界を一人生きるしかなくなっていた。
誰にも知られないまま生きるというのは、思っていたよりもずっと侘しいものだった。幻影なんかは人の噂話で象られると聞いたことがあるが、あいにく私は誰にも気づかれずに生きていられる。生身の身体では黄泉に行くこともできず、かといって妖怪などの魑魅を見ることもできない。
こうしているうちに、はじめに十七になったときから、もう、五年余りの月日が経ってしまっていた。
少しばかり家賃を払うため昼間は花売りとして過ごし、夜は果てもなく、街灯の下を脆い足が朽ちるまで歩き続ける。夜気を掻き分けているうちに身体は重くなり、肺が軋むように痛んだ。それでも、歩みを止める勇気など私にはとうに残ってはいない。ただでさえ気重い五臓六腑を運んでいるのだから、歩みを止めれば心臓が苔に覆われてしまいそうだ。
不意に体の力が抜けて、背中に生えた手がぐしゃりと項垂れた。左肩をさすると、かつて綺麗だった翼の跡に痛みがはしる。昔、錯乱した私が滅茶苦茶に折り裂いた亀裂が食い込んでいるのだ。
あぁ。吐き気がする。
もう夜が明けてしまうというのに、道も街灯もな暗闇の中、私は一人蹲った。
もういっそ死んでしまえたらどれだけ楽なものだろうか、と。
耳元を掠める時間の流れに身をまかせ、焦げた鉄筋のような薫りに身体の髄を包ませる。焦げ臭く感じるのは、体を黒く染め上げるべったりとした液体のせいだろうか。
気づけば麓から朝光が木漏れていて、瞼の裏に張り付くような煌めきが小さな街全体を明るく照らしていた。夜の私は日光が苦手らしく、朝日がのぼると黒い煙と共に掻き消えてしまう。
私は服の塵を軽くはらうと、何知らぬ思いで花を摘みに歩いた。化物のときの感情はあまり生活する上で影響せず、何を思って何をしたかなんていうことはあまり記憶にも残らない。
もはや人間の私である方が漠とした「悪」を味わうほどに、この身体は蝕まれていたのだろう。
*
もうリナリアの花の咲く時期になっていた。
売りに行く前に摘んでおこうと籠一杯に敷き詰め、薫る花の匂いに思わず綻びる。
三十分ほど道のない茂みを歩くと、小さな街に出る。街と言えど、店も民家も少ない一面を田圃で埋め尽くした田舎街だ。息を潜めるように静まり返った民家街は、洗濯物だけが軒下にぶら下がった不可思気なひと気なさに覆われていて、日中でも少ない自動車の通りが、十八時を迎えると途端に消え去ってしまう。こんなにもふけた街に止まる人間など、今ではおいぼれの老人くらいしかいないのだろう。自分の勝手な解釈なのかもしれないが、少なくとも外を出歩く若者はこの街に越してきたときからあまり見たことがない。田舎という大まかな括りで言えばそうだ。風景なり、街並みなり、どこを見渡しても栄えている様子がない。荒れたスナックの空き家ならいくつも思い浮かぶのに、店といえば唯一ある質素なコンビニくらいしか思い当たるのもがないのだから。
交通網が発達していない田舎街では若者の通りも絶断され、今や車も電車もはしっていない。旧時は少なからず人がいたのだが、やがてその村人にも遭わなくなってしまった。
ここで生まれた子供は、どのような道を歩んで生きていくのだろうか。この田舎に生まれたのだから、自分の土地を持つ田圃を引き継いで暮らしていくのが、老ぼれからしての理想とも言える姿だ。だが、御伽噺のような調子のいい者はそうそういない。
いずれにしても、自分が生きていくためにはこの街を出るに越したことはないのだ。それは仕方のないことであり、言い方は悪いが生まれついた運命の一貫。田舎街にとどまる若者なんて、ろくな就職や結婚話ができやしない。なにせ、人が少ないのだ。大きな街に出れば、立派な晴れ着を着た若者がわんさか居る。選択肢が多い方が幸せになれるのだと、昔この街で出会った、死んだ目をした少年にそう教わった。
嘆息しあたりを見渡すと、碧青とした緑光が眼球を和らげる。田畑を管理する人も段々と減ってきているのに、稲や花木は一向に枯れ果てる様子がない。こうしてみると、自然の力というは思いの外、人間が思っている以上のものなのかもしれない。
街の雰囲気に合わず少し治安が悪いことが癪ではあるのだが、私が徘徊しているかぎり問題はないだろう。猟銃のうち鳴る血腥い森林は、私にとって身を休められる唯一の隠し家だった。
化物になる前から、他人の血液を見ると自分の中の何かが騒めくような嫌悪感がするのだ。助けなきゃ、という正義感から来るものではない。ただ、他人の血の匂いに興奮するような変態でないことだけは確かだった。
スカートの裾を少し握り朦朧と歩いていると、錆びた看板が地面に横倒れ、嫌な金属の音が鳴り響く。それだけでも、悪い予感はしていた。
左目から漂う腐敗臭、部分的にまだ夜の姿が残っているのかもしれない。左右で違えた色の景色を見ながら、荒々しい吐息のするほうを無理やり振り向いた。
警察正装に身をつつむ百六十糎ほどの小柄な男が一人、醜く目を腫らして唇の端を耳まで吊り上げる。掌に握る果物ナイフの先には、しかと私の顔を捉えていた。
人殺しとも言える鋭い双眸を睨み返すことができないのは、やはり自分自身のやましさかもしれない。彼の醜い容貌が自分を映す鏡のような気がして、苦しげに薄く目を伏せた。
永遠に生き続ける気は早々にないけれど、死にたいかと問われば正直に首を横に振り流すことができない。救いのない自分が他人を救えるとは思わないし、自分が存在することで悲しむ人も陥れた人もいる。だからといって此処で死に行く理由も権利もあるとは思えない。
襲い掛かろうとする男の太い腕をすんでのところで え、大きく息を吸う。発達した上腕二頭筋の節を反対側にへし折り頭角に刃先を食い込ませると、男は不気味に瞳だけをギョロリと睨み動かし、「殺してやる」とだけ残してこの場を後にした。
掴んだ男の腕は硬く、抵抗をしなければ命をも抉られる一撃。見開かれた瞳孔に私の姿は映されておらず、自棄になった男の無謀さに全身の気がよだつのを感じた。
男は——あの男は、自分の命などどうとも思っていない。
自分が死のうとどうなろうと、一人でも多くのタマを奪うことしかまるで考えていない。自分の手で他人の人生を奪い、悪意に染まった自分の溜飲を下げているだけなのだ。
異様な静けさを放つ森に一度ため息をつき、男の残していった果物ナイフの先端を舌でぺろりと舐めた。
天に見放され自害する能を持たないこの身体では、生きるも死ぬも自分の手で選択することはとうに許されていない。化物の扱いを受けるのは苦手だが、そう簡単に死に急ごうとする立役者を演じるのは、もっと苦手だ。
数十年の月日では、死を語るのにあまりに短すぎる。
「……鬼畜じゃないか」
声にしてみてから、やっと耳元で木霊が響いた。
瞬間的な視界のぶれに目を見開くと、湿った土が目の前に広がっていて、看板にでも躓いたのだろうとか見解をつけて立ち上がる。泥のついたまま落としたリナリアを一つずつ拾っていると、誰も見ていないはずなのに、なぜか惨めで泣いてしまいそうになる。
私が人間であったなら——人間であったら、もっと幸せな毎日を送っていけたのだろうか。完璧な人間になりたいとは言わない。だが、もう少しでも鮮やかな生気や可愛げがあれば周囲の目も暖かく変わっていたのだろうか。
肉体の喧嘩をするならば、腕力のない私はどう考えても素手で勝つことは出来ない。だから、抜け目ないナイフを握るのだ。鎌だとか刀だとかいう特別大きな武器は要らない。手元に入りきってしまうほどの小さなナイフだって、強大な人を殺せる。
小回りのきく小柄な背丈は、人を欺くのに丁度良い。背後に回り込んで、首元をぐさりと一突き穴を開ける。それだけで、私は人の上に立つ覇者になれるのだ。
それだけのことが出来なかったから、私は今日も草花と顔を突き合わす惨めな半生を送っている。欺くことだけが覇者の条件というわけでは無いのだが、少なくとも嘘をつけない弱者に生涯の勝機は回ってくるはずもない。テレビでよく見る馬鹿善人が苦労するというのは、最近知ったことだ。
心内に溜息をついたその時だった。ここら辺ではあまり見ない、漆黒のコートを羽織った青年が、私の前にリナリアの花を突き出したのだ。
転んだ時に投げ出してしまった、物珍しい薄紅色の花弁。
「はい」
唖然と彼を見つめると、彼は女の子のように整った顔で柔らかく笑う。
これから夏に向かうというのにも関わらず、黒いチェスターコートを着て、体が弱いのかと心配するほどに涼しい顔をしていた。眩しい太陽光に反射して、色素の薄い三白眼が煌めく。外見だけで判断すれば二十代前半と見て取れるのだが、彼を纏う雰囲気からは十代とも取れる健気さが残っている。この街では久しぶりに見る、若い青年像だった。
喉の奥から出た「や」という声と共に、私は空いた右手で左目を隠し、彼が拾ったリナリアを乱暴に握る。
「……ご、ごめんなさい」
街灯のある場所まで走ると、辺りは賑わっていた。服についた泥はいつのまにか落ちていて、汚らわしい跡だけが残っている。ひょっとしたら、「や」と喘いだ声が「嫌」に聞こえてしまっていたかもしれない。だとしたら尚更、嫌なやつだ。
勝手だとわかっているけれど、自分の意思なく駆けた自分の脚に煩わしさを感じ、湿気を帯びた地面を強く蹴る。
蹴り上げた靴底に、ぱち、と路面が弾けて小石が宙に跳んだ。
他人が目の前にいながら、ナイフだとか凶器だとかと物持ちの妄想癖を発揮してしまったことに、多少なりとも頬が羞恥に染まる。この感情を忘れさせるために、どうせ誰も見ていないのだろうと、道路の真ん中にリナリアの厚い茎をむやみに落として歩いた。
不図に指に刃が食い込んでしまっても痛みは感じず、ただ染みる乳液の冷たさに肩を軽く震わせた。こうして見てみると、傷口から樹液を吸わせれば私もいつか植物になれるのではないかという気さえしてくる。そうしたら、どれだけ愉快なことだろう。全てが無になって、朽ち果てるまで風に吹かれていれば良いのだ。
——駄目だ、駄目だ。最近の私は、死ぬことばかり考えている。
昔はまだ、人を喰ってみたい、とかこの街から出てみたい、とかいう欲望を抱けたのだが、今はもう何も思っていない。
朦朧としたまま大人になって、久々に鏡を覗いてみても、十七の頃と何ぞ変わっていない。少女の姿のまま、生捕されたようだ。
何も汚れていない。何も、解らない。そのくせして、小生意気に推し測る。
人は嫌いだ、と。
私は、人間だった頃から安易にその言葉を好んだ。少々粋っていた部分もあるが、大概はきっと、淋しかったのだろう。
他の人とは違う。私は可憐でありたい。
助け舟なんかに乗るよりも、自分で船をつくりだしたい。でもそんなことはきっと許されない。なにせ弱い立場なのだ。
風が吹き、落としたリナリアの花弁が宙に舞い踊った。
*
年歯を数えると、もう十七年も昔のことになる。
私が生まれてからまもなくして、父が結核で倒れ亡くなった。記憶にも曖昧だが、大量の血を吐き横たえる父を前に、医師も呼ばず私はただ泣き叫ぶことしかできなかった。
たかが齢がまだ三つの子供のことだ。親類も母も、誰も私を責め立てようとはしなかったが、噛み締めた口元から、胸底にある悔いを悟った。
これまで心優しく慕っていた親類から向けられる憎しみに、私は初めて大人と言うものの醜さに触れてしまったのだ。
やがて物心を感じる年頃を迎えるとき、母が見知らぬ男と二人で家を出て行った。思えば父の葬式の日から、母はどこか壊れていたんだろう。あんなに心優しく一途だった母が、髭面の男と共に嬌びたる微笑みで家族を捨てられるだなんて、あっていいはずがなかった。
まるで間違っている。未来を誓った旦那が自分を裏切り死んだとしても、最愛の人の最後を看取らすこともできないというのか。
出来損ないとは言え、今まで懸命に生きてきた私たちへの、裏切り。
哀しいとか悔しいとかいう感情は不思議と湧かず、数年後に母が亡くなったという知らせを受けたときにも私は何も感じなかった。
義母の看守下をごまかすため、落ち込んだように振る舞ってみても、転がるベッドの上でどうしてか涙は滲み出てこない。それどころか、落ちどころを探す不甲斐ない自分に劣等感までもが沸き立ってきていた。
いくら好きこのもうが、母の心は、昔から私に向いていなかったのだ。幼い頃の私は、肉親と分別された赤の他人と身を結んでいただけ。一つ屋根の下で暮らしていたからといって、心から家族と言えるような関係ではない。そう思うと、自然と楽になった。
家族が揃っていた頃は孤独感を感じたことはなかったのに、義母に引き取られてからやがて自分の心の核を見つけられなくなってしまった。それが何を指すのかなんて解らないが、その日からずっと私は、自分のはっきりとした意志を感じたことはない。何に関しても無頓着で、無関心、本来年頃の娘にあるべきはずの感情が薄れてしまっていた。
引き取ってくれた義理の実家は、戦争で亡くなってしまった義父に代わりに義母が一人で面倒を見てくれていたから、歳の離れた女二人、寂しながらも実の肉親には触れずして育った。義母は少しばかり作法や礼儀に厳しい人で、同世代の子供とはあまり喋ったことも、一緒になって遊んだことも無い。でも、私はそれで良かった。私を立派な大人の女性に仕立て上げることが義母の義務であり、彼女なりの不器用な愛情だということを幼気に解っていたからだ。
だからこそ、彼女の苦になる娘にはなりたくない。その頃から、徐々にそう思うようになっていった。
恩徳にも、私は同じ世代の女の子たちと比べて、少しだけ秀でた才を持っていた。特別何かをするわけでなく試験では上位の成績を取っていたし、筋肉質な細身も健康色を放ち、自分で言うのもなんだが、あまり容姿に難を持ったことはない。
塾のお金は成績で免除し、学費のかからない学校に進学し、見合い相手を探す義理さえも略した。それでも、彼女の笑顔を見たことは生涯一度もない。喜びも悲しみも失ったような無頓着さで、ただ朗報に頷くだけだった。
年増の女一人、定期的に貰えるお給料の額も少ない。ガタのつく身体では若者と同じように働くことはできず、どれだけ一生懸命に動いても、他の人々と比べて半分程度のお給料しか支給されていなかったのだ。
少女の頃に一度だけ、義父の仏壇に向かう彼女の苦しげな嗚咽を聞いたことがある。
義母の燻んだ瞳も、祈りも、毎日のように盛る仏飯も、彼女の全ての向ける先に、あるべき人は居ない。空洞の棺に花を添えて、ろうそくを焚いて、たった一人苦しみを蝕んで生きているのだ。それがどれだけの空虚に満ちたものなのか、私にはわからない。
義母また、私と同じ独りぼっちだったのだ。その彼女がどういう思いで私を家に引き取ったのか、どれだけ頑張って私を育て上げてくれたのかを思うと、今でも後悔が絶えない。表面上には出さないが、幼かった私は何度も何度も義母の苦しみを踏みにじり家を飛び出して生きてきたことだろう。
人の死を嗤って口にできる残酷な小児の世界観で、何度彼女の羽根を毟り取ったのかわからない。
それでもやっぱり淋しいと思ってしまうのは、私の欲だろうか。
最後の最後までくだらない忌み言ばかりを吐き散らして、口論にも発しないまま、彼女は老衰し息を引き取った。
窓の外を見ては溜息を漏らし、行き着く学校では牛乳瓶の蓋を頭に跳ね飛ばされる。社会人になった今でも、そのせいかあまり人と話すのは慣れていない。
白日の日、いつものように化装し外を出歩くと、ほととぎすの鳴き声が浅い森林の奥から地響する。季節外れな明声に釣られて深い森に中に脚を踏み込むと、揺らめく人の影ぼうしにまた驚いた。
あれから何日か経ったにもかかわらず、画帳を持った青年はそこに立っていたのだ。
私の声に気づいたのか、男はこちらを振り向き、招き入れるかのように目を細めて不敵に笑んでみせる。顔もよく見ずに走り去ってしまったからか、まじまじと彼の顔を覗くと、意外にも目鼻立ちが整った彼女と同じ恵まれ者であった。俗世で池様だの美男子だのと言われるものとは少し違う、背徳的な美しさがある。
透き通るような純白の肌に、蜂蜜のような瞳を覆う長い前髪、それらを覆う時期外れの漆黒のチェストコート、まるで天から舞い降りた精霊のような一見に、瞳孔が細まるのを感じた。
「相変わらず、お美しいですねぇ」
想像していたものとは少し違う、柔らかみのある声が鼓膜を震わせる。
端麗な顔立ちの上に、子供のような愛らしい笑顔を浮かべ、少し野暮ったい前髪で鋭利的な目元を隠す。
淡い柑子色の瞳を明滅に光らせて、美しい容貌を持つ、まるで幻想を描いたような異彩。どこか懐かしげな雰囲気をした青年は、再び私のもとへ姿を現したのだ。
私の視線に気がつくと、その青年は瞳を細めて首を傾けた。
「お早う御座います。左目、大丈夫でしたか」
「ぁ……」
ぽかんと惚ける緩い表情に、いつのまにか固まっていた肩の力を抜く。そのかわりに、慌てふためいる彼の表情が瞳に映った。
何——と言葉を飲み込んで頬を指でなぞると、体温のように生温く、頬一体が涙で染まっていた。感が極まったわけでもなく、青年に愉しげを覚えたわけでもない。唯、心臓が誰かの掌に握り締められているように苦しかった。
なのにどうしてか、目まぐるしい息苦しさと共に、腹の底からの安心感に覆われる。人と話を交わしただけだというのに、これだけの感情をかんじたのは久し振りだ。
なんで涙を流しているのかと考えても見当がつかず、凍てつくほどに冷たい山麓の空気を肺いっぱいに吸い入れた。
人は、対処できないほどの情報を一気に受け取ると疲労で涙が止まらなくなるらしい。要領が少ないとかいうことではないが、今の滑稽さを説明するにはそれが一番の妥協だと思った。感情というものはいつだって胸の隅を刺すように噛みついていて、それでもっていつも私の邪魔をする。こんな自分が涙を流したところで、この場所も彼も痒くも痛くもないというのに。
もしかしたら、私はいつも泣いていたのかもしれない。心内なんて自分でも理解できるものではないし、知ったからと言って何一つ良いことは無い。そんなことはとっくに分かりきっているつもりだ。義母だって、そのことを解っているから、極力記憶を戻さないようにと気を使ってくれていた。
今の私には、彼に苦笑いを見舞わせることくらいしか出来ないのだ。
困っただろうな、と青年の方を見ると、心外にも嬉しそうな顔で表情を繕い、笑っていた。
貼り付けたような笑顔が妙に自然体で、にっこりと結んだ口元に脅威さえも感じさせる。彼のその笑顔一つで、今までに見てきたどれだけの憤怒よりも恐ろしく背中を掻き毟った。
なんだ、この男。
私が涙を流すのが嬉しいのか。もしそうだったとしたら、あまりに気色がが悪い者だ。この間公開されたアメリカの映画に、たしかそんな狂人がいたような気がする。ヒッチコックの、殺人映画だったか。
頭を掻く右腕からは袖がずり落ち、何重にも巻かれた白包帯が見えた。
怪我だろうか。彼の見た目からして単なる趣味で巻いているわけではないだろうし、そう考えると、ますます意味がわからない。
掌を開くと、指先に冷え切った模造紙が触れた。これは、たしか図画に使う道具だ。昔、先代の卒業生が残した作品が中学校の美術室に釘で打ち付けてあったような気がする。
「絵、お好きなんですか」
なるべく、悪い印象を与えないように。
人と話す時は、相手の目を見て。義母の言葉を何度か頭の中に巡らせる。
正直義母の教えは話半分で、まともに受け入れたことなんて一度も無い。だから、こんなところでその力が発揮されるとは思ってもみなかった。
「えぇ、もう長くない身ですから」
「長くない?」
「幼い頃から心臓が弱くて。それを、最近になってからまた拗らせてしまったんです。はっきりと医師から宣言を受けたわけではないですが、自分には解る。きっと、この先もう長くはないんです」
とんとん拍子に進む不感な言葉を目で追っていくと、小さく腑に落ちる音がした。
方向性の焦燥から、道化のように首を振り切る。
呆ける私に、彼は慰めにも小さな無地のハンカチを手渡す。純白の左端に、小さく朱色の薔薇が刺繍してある小洒落たもの。他人のハンカチなんて、と今にでも手を払ってしまいたい性分だが、親切を退けてしまうのはあまりに失礼だろうか。
地面に首を項垂れると、浅く首を横に振って返事をした。
こういう時、どう切り返すのが正解なんだろうか。大変ですね、と言うのも深くのめりすぎな気もするし、相槌にしても楽観すぎる。
「……ごめん、なさい」
考えるよりも先に、口がものを擁していた。
私は何を謝っているのだろう。これにはさすがの彼も呆然と尽くしていて、後先考えずに発した謝罪の言葉に自分が一番驚いていた。
「どうして謝るんです?」
そんなの、こっちが聞きたい。
彼と接していると、いつもの冷静さが欠け狂う。思ってないことを言うだなんて、これまでにあっただろうか。
久し振りに人と会話したからということもあるのだろうが、初見にもかかわらず、他の人よりも一層距離が近い気がした。死期が近いから、とかいう妖怪みたいな理由ではない。そもそも、姿形が異なるだけで私はれっきとした人間の部類だ。
「いや、素敵だなぁと思って。死を目前として、そんなに活き活きした表情を見せられる人なんて、そうはいませんよ。奇遇です」
「あなたも、自決願望があって?」
「願望だなんて。私は、違いますよ」
本当にそうなら良かっただろうな、と思った。
彼は開きかけた口を閉じ、安堵と歓喜に満ちた瞳で遠くを見つめた。
「自決するには少し、僕は幸福すぎてしまったようですね」
澄んだ瞳に首を捻り、根拠のわからないその言葉を反響する。相変わらず、青年は気味悪いほどに笑っていた。
私は彼と真逆にある存在だ。自決するには少し、罪を犯しすぎた。
自決願望だなんて物騒な単語、普通に暮らしていれば耳にすることも、ましてや口にすることも無いはずだ。無意識なんだろうが、彼の笑顔が一瞬だけ怖気付いたように見えた。
平然を装う私の横腹を、小さい子供のようにぐいと右手で掴む。服の端だからと抑え込んだようなものだが、実際に横腹を掴んでいたら彼の両頬に平手打ちを見舞わせているところだ。
「そうだ、僕は尚陽といいます。間宮、尚陽。和尚の尚に陽気と憶えてくださいね」
「興味無いわ」
「酷いなぁ。でも僕は好きですよ、貴女の率直なところ」
「皮肉を言うのがうまいのね。だから、社会慣れした人間は嫌いなのよ」
「それを受け入れる広い心があれば、この界隈はもっと発展できると思うんですけどね」
「界隈?」
「いえ、こっちの話ですよ」
人が躊躇う事柄を、息をするかのようにさらっと言えてしまうような男だ。
ある意味自分が口にした嫌味を理解していないのだから、楽観して生きられるのかもしれないのだが。
「名前、訊いても良いですか?」
喜色を浮かべる影めいた横顔に、肩がぞくりと怖気づいた。
「……大した者じゃないわよ」
「それはどういう意味で?」
「そのまんまの意味。ぱっと出の貴方なんかに、いちいち名乗っていられないわ。今日でお別れになるかもしれないっていうのに」
さっきまでの調子で揶揄われることを覚悟していたのに、返ってきたのは辺りに響く冷えきった沈黙だけだった。沈黙が流れると言うよりは、沈黙が響くと言った方がより適切かもしれない。
人との間の沈黙には、なんとも言えない不穏な音がする。
「本当にそうなのかな」
「え?」
彼の言葉に少しとげがあるような、気がした。
敬語も忘れて放胆する重い言葉に、雰囲気に、明らかな不信感を抱く。
「いえ……本当に、そうなんでしょうか」
誤魔化すように、隠しれない横泳ぎした視線を背けた。
「僕たちがこの場で逢ったのが偶然だとするなら、ある日突然身体の中に病原があらわれるのも、それを原因として死に至るのも、全部偶然だって言い切れるんでしょうか」
偶然に殺されるとはこういうことを言うんじゃないか。
彼の深読み癖には気が引けるが、今回ばかりは正しいことを言っているような気がした。
偶然に生まれて、偶然に死ぬ。あと少しでも回り合わせが狂っていたら——と考え始めると、どことない卑怖に襲われる。
眩い太陽に腕を引き上げると、裾に染め入る血液に目を奪われた。
じわりと開いた手首の膿傷からは、生肉のような腐臭が漂う。別に死にたくて血を流しているというわけではない。ただ、のうのうとした鉛色の毎日に生きているという証が欲しかった。
いつか命尽きるときにも、他人に殺させるだなんて情け無い。せめて最後くらい、運命を握るのが自分であったって悪くはないだろう。
自分なりの、精一杯の誠意だ。
吹き荒れる季節外れの春風が、懐かしさに頬を色取った。見上げる空には入道雲が沸き立っていて、草木がコントラストに掛けたかのようにはっきりと際立つ。どこを見渡しても、春気はとうに姿を薄めていた。
「泣かないの?」
「どうして泣くんですか?」
「いやぁ、だって…」
「僕だって、死ぬのは怖いですよ。だけど、焦って思い出づくりしたところで何も生まれないでしょう? 八十年分の未来を一年に詰め込むことなんてできないんですから」
右手で掴んだ洋服を手放し、俯き具合に彼は言った。
乾いた笑顔が、どこか芝居役者を思わせる。そのくらい、尚陽は愛想笑いが上手だ。
「……一本、くれない?」
「一本って、煙草?」
「えぇ」
「ここでさらっと取り出せたら格好いいんだろうけど、あいにく煙草は持ち合わせていなくて。ほら、煙草って肺に悪いから」
「悪いのは心臓じゃなかったっけ」
「似たようなものでしょう。一番近い臓器だし。シガレットならあるけど、食べます?」
煙草の代わりにラムネを差し出すような人は、今までで初めてだ。
尚陽は紺色の箱を取り出して、中から細長い棒を引き出す。色も形も違うけれど、どことなく雰囲気だけは似ているような気がした。
「尚陽って、もしかして未成年?」
「いえ。今年で、二十二になります」
「……へぇー」
「へぇーって何ですか。やっぱり僕、まだ高校生くらいに見えます?」
「いや、大人独特の衰えた薫りがしないなぁと思って」
赤の他人を前にしても警戒心を持たないし、シガレットを渡したときの彼はどこか兄のような雰囲気を醸し出していた。ただ単に長男気質なだけだろうか。それとも、ちっぽけなラムネ一本でヘビースモーカーを満足させられるとでも思っているのだろうか。
彼の行き先ない良心が哀れに思えて、警めの心が打ち解けた。やはり、彼の考えていることはいまいち解らない。あまりにも踏み込む世界が広大すぎて、聞き出そうにも聞き出すことが難しいのだ。
呆れ混じりにはあっと息を吐くと、余計に疲れが増したようにさえ感じる。
彼のもとに歩みを寄せると、小首を傾げて斜め上の視線に合わせた。
「“究極の選択”って知ってるかしら」
「選択?」
「そう。例えば、貴方だけが幸福な世界と、貴方だけが不幸な世界。前者は、貴方以外の人類みなが不幸を患うことになるの。一方後者は、貴方が人類の不幸を背負うことになる。どっちを選ぶかで、貴方の心理を探れるわ」
「僕が自分の性格を知って何か楽しいんですかね?」
「私、が、知りたいの」
強調させる一音に、じわじわと羞恥が溢れてくる。
彼は私の失言に「へぇ……そ、そっか、ふぅん」といとも嬉しそうに目線を外した。表情は見えなくとも、確かに微笑を浮かべているはずだ。子供のように赤く染まる頰が、唯一白い肌に際立って見える。
「ちなみに、どちらでもないという選択は?」
「無い」
「……ですよね」
一見すると生気が無いように見える目も、角度によっては明るく輝いている。猫のように細い黒目が、目つきが悪いわけでは無いのに、どこか鋭利的な外観に仕立てていた。
僅かに光を放つ三白眼からは、この世界はどのように見えているのだろうか。
色々と頭を巡らせると、やはり、想像通りの答えが返ってきた。
「どうしてそんなことを聞くんです?」
猜疑というよりは、好奇心に溢れた目。
「ちょっとだけ、引っかかる節があって」
「節ねぇ。当たり前でしょう、こう見えても泥沼にかかった社会人なんですから。いちいち人の言動気にしてたら、いつか引っかかりまくって身体中の節々が抜け落ちますって」
「なら全身を包帯で固めておくことね」
尚陽は渾身の冗談に笑いもせず、私の顔を見るなり「どういうこと?」と零した。
きっと、これが交渉相手の前だったら、営業用の愛想笑いと上品な一言でこの場を締め括っていたところだろう。そんな雰囲気が、彼にはどこかあった。
緩い私服というよりは、ビシッと肩が決まったスーツの方が割に合っている。胸元に手を忍ばせれば会社名義の名刺が張り付いていそうなほどだ。
もしかしたら、私が知らないだけで彼は心底優しい人なのかもしれない。
ついさっき出会った他人に名を名乗るほどの飛び上がり者なのだから、きっと、間違いなく世界の幸せを求めるような馬鹿なのだろう。
ちらりと彼の顔を覗くと、純間な面に少しだけ嫌悪感を覚えた。
「——僕だったら、やっぱり自分が幸福である方がいいかなぁ」
手の甲で顎を摩りながら、言った。
「……そういう捉え方するのね」
「だって、世界中の人間が幸せに生きたとしても、自分がその世界に幸福を感じなきゃ存在する意味がないじゃないですか。発泡酒片手に、大事な人と二人で不幸な世界に乾杯できればそれでいいんです」
「大切な人が不幸になっても良いの?」
「僕が、幸せにする」
そう放胆すると、目を伏せて大柄に笑った。
なんて馬鹿馬鹿しい体裁だろう。自分のことは棚に上げて、他人の幸せを自分のことのように軽々しく語る。
それでも尚陽の言葉に、一瞬心臓がふわりと宙に浮いたような気がした。
息を吸って吐くと、伝わらないほど小さく口元を歪める。
彼の瞳を見つめていると、眼球の奥が無様に滲みるような気がした。青々とした空と見つめているような、電燈の光を見つめているような、そんな感覚に似ている。ビー玉を二つ嵌め込んだだけの私とはまるで根本が違うのだ。
「それでぇ、どうして急にクイズなんか」
「さぁね」
「何で?」
「ねえ、貴方がそう燦爛でいられるのは、その『大事な人』っていうのが傍にいるから?」
身体を前にのめらせ、何食わぬ尚陽の横顔に呼びかける。
彼は少し驚いたように大きく目を見開くと、やがて目を伏せて俯き、膝の上で結ぶ無彩色の拳を見つめた。
瞳に映る僅かな曇りが、本物の哀しみなのかどうかは分からない。これまで一つも真っ当な腹の内を明かされていないのだから、そう思うのも仕方のないことだろう。
「傍ねぇ、……そうですね。言ってしまえばそうなのかもしれない。だけど、燦爛っていうのはまた少し違うかなぁ」
好いたらしい余韻を含むような、優しい眼差しだった。
やはりこの男は性根が読めない。笑ったと思えば哀しみに表情に曇らせて、そうも思えばまたいつの間にかもとの愛想笑いに戻っている。
ふっと息を漏らすと、吐息が空に紛れて散っていった。
柔らかに撫でる風が、照りつける熱をさらって南の方へ去っていく。頭を上げると、わびしいほどに澄んだ千草色が入道雲を染め上げていた。
身元も知らない大人の男など、腹を探らなければ危険だということくらい分かっているつもりだ。だけれど、彼の瞳を見ているとどこかそんな気も失せてしまった。
『なんであんたは生きてんの?』
そんな冷徹な声が、脳裏をかすめた。
まったく、暑さは癪だ。広大な青空を見つめていると胸が締められて、思い出さなくて良い事までもを思い出してしまう。
気をごまかすように、焦ったく、足をじたばたと揺さぶる。
この土管の高さは、教室の椅子とよく似ている。極端ではないが、周りと比べて体が小さい私にとって爪先を地面につけるのでやっとだった。だから、背後から椅子を引かれたときにも受け身なりの対処をとることができない。腰を床に強く打ち付けると、しばらくの間動くことも、呼吸をすることさえも困窮に苦しむ。
突如としてこみ上げる熱いものに、思わず口を両手の平で抑えた。
最近では、記憶の断片を脳裏に思い浮かべるだけでも、喉の奥から暗赤色の吐血がまろび出そうになってしまう。辛い不可抗力の記憶なんて、自分の意思なんかでどうになるものではないのだ。
けほ、と口から吐き出させてみると、少しは動悸に落ち着きが戻ってくる。
今話をしているのは、目の前にいる青年、一人だけだ。大丈夫。
他に誰も、いない。
よくよく考えてみればすぐに気づくことだ。惨めに嘲笑う皆を憎く思うのも、気の狂うような不可抗力も、すべて自分が創り出した幻想に過ぎないちっぽけな代物だ。それに気づいているからこそ、余計復仇に酬いるのだ。
手を顎に当てると、ふっと自嘲的な笑みがこぼれた。
「……あの、姫さん?」
「姫?」
「じゃあ、姐さんで。急に魚のような目して震え出すから、悪霊でも出たのかと思って」
「悪霊……」
「さっきから僕の顔見つめて震えてたじゃないですか」
尚陽は色素の薄い眉を潜めて、心配そうに私の顔を眺める。
不器用な彼でさえ配意していると分かるほどに、人前で血を吐くのはあまりよく思われないものなのかもしれない。
「震え——あぁ、大丈夫よ。私の目には今にでも死にそうな顔をした青年しか写ってないから」
「死にそうっていうのは余計ですけど」
両手を広げて戯けて見せると、尚陽は安心したように静かな笑みを零した。
土管の上に落ちた木の実を軽く払うと、身体を丸めるようにして腰を浮かせる。
「悪霊っていうか、むしろ死神なら見てみたいかもしれませんね」
急に静まり返った樹々からは、上擦るヒグラシの声だけが響いた。
「死神って。あんたやっぱり…」
「違いますよ。阿呆らしいって言われるかもですが、外書で有名な、『魂の契約』なんてものに昔から憧れていて」
「化身になりたいの?」
「それもまた違う。怪異とか化物とか、子供の頃誰しもが一度は抱く憧れですよ。まぁ実際対面したとなると話は別ですけど」
振り向いた影帽子が、少し恥ずかしそうに首を傾けた。
「…あんたのことだから、太刀打ちするなんて言い出すかと思ったわよ」
「太刀打ちかぁ、それも良いですね。まず殴り合いだと勝てそうもないけど、やっぱり人間の一番の恐ろしさは道具という能、だなんて言うし」
彼の笑顔に、こればかりは少し気が引けた。
確信したことではないが、それは多分笑いながら言って良い事柄では無い。多分正しいことを言っているんだろうが、物には言い方というものがあるだろう。
ただでさえ物騒な話題が、余計下衆に感じさせる。
「……貴女は、どう、思います?」
「なにが?」
「怪異なんて、この世に存在すると思いますか」
シガレットの箱を手元で弄りながら、何でもないことのように彼は言った。
こんなことで吃驚するのなんて、この年になれば私くらいだろうか。尚陽にとっても、特別興味を持って訊いているというわけではないのだろう。
「さぁ」無垢な女の子を演ずるかのように、僅かながら声が震えた。
世間大抵の女の子は、こういうときになんて答えるものだろう。くだらない、とでも心内では馬鹿にされるほどの、幼稚な自嘲——私も何年か前まではそう思っていたのだから、馬鹿にされても仕方がない。
怪異の血腥さを、虚しさを、知る前までは。
「…怪異って、格好良いですよね」
てっきり遇らうとばかり思っていた概念に、耳を疑った。
「格好良い?」
少しなりとも、私の表情には、歓びと彼へ対しての悲哀が入り混じって歪んでいた。
怪異に格好良いと憧れを抱く人間なんて見たことがないし、比較してみても人の方が生物的に優れているに決まっている。
「だって、怪異って何かしらの目的を持って生きているんでしょう?」
「生きてるとは限らないけどね」
「そうだとしても、心身人間の想像に象られているのに、中身は自分の意思で縛りなく物事をしている。それってやっぱり、格好良いものですよ」
格好良いという表現が合っているのかは別として、彼が怪異の創り出す世界に興味を持っていることだけは確かだった。
「でもひとを殺すかもしれないよ? それでも格好良いだなんて言えるの」
殺すだなんて言葉、人の前で安易に出して良い言葉でないことくらい、私にもわかっている。
だけれど、怪異を尊敬する事自体を認めてしまうことなんてどうしても出来ない。きっと彼は、私たちの残酷さを知らないからそんなことが空口に言えてしまうのだ。
「その時はその時ですよ」
西日が傾いてきたからか否か、彼の頰が茜色に色づいたように感じた。
その瞬間、やっと私は理解した。
死期のマリッジブルーというのか、彼は、さほど生死に興味が無いのだ。いや、無理矢理に表情を創り出さない限り、会話の熱が保てないのかもしれない。
他人に興味が持てないなんて、私と同じ。
はあっと肺に溜まった空気を吐き出すと、自然と口角が吊り上がった。尚陽の感覚が狂っているというわけではない。誰しも、少なからず持っている考えを、彼は塞き止めることなく垂れ(しずれ)ているだけだ。
活きた精彩が、彼の顔で濃い影をつくる。
「——僕、昔好きな女がいたんだ」
尚陽の顔は、強張っていた。
どうして、なんて訊くことはできないけれど、自分の恋人の話をするのになぜそんな顔をするのだろう。自分のことを初めて喋った、ということにもどこか矛盾している。
「そう」
「茜さんだって、そういう話の一つや二つくらい持っているでしょう?」
「……知らない。それに、憶えてないし」
彼から視線を背けると、足元で腐った麦酒缶を転がす。
正直に言うと、意外だった。意外と言ったら失礼かもしれないが、尚陽に好きな人がいただなんて、推し量ってもあまり想像ができない。
「——所詮は泡沫」
彼の呟きを聞こえていないように、ひたすら缶を蹴りつづける。缶が転がっていってしまっても、敢えて塵を取りに行くようなことはしない。手が汚れてしまう、とかそんな緩慢なことではなく、彼の遮られた話を最後まで聞いていたかった。
恋人の話となると、さっきまでの狂気がどこかに行ってしまったのかというくらいに、はじめて幸せそうな笑みを見る。やっぱり、尚陽は不思議だ。
「未だに、忘れられないんだ?」
私の突拍子ない言葉に、彼は小さく頷いた。
一度大切にすると決めた人を、失って尚忘れることができない。それが人間の持つ独占欲というものなのかもしれないが、どうしても、彼ばかりは悪者扱いすることができなかった。
少なくとも彼の表情から裏淋しさは感じず、そう悟られないように繕っているようにも見える。
「えっと……姐さん」
「茜よ」
無くしてきたものは、今更になって手元には戻ってこない。
だったら、それよりも目ざましいものを創りあげれば良いだけじゃないか。
「茜って、花の?」
「よくあんなに地味な花を知ってるね」
「有名だよ、茜草って。昔は薬にも使われていたみたいだし」
良い名前だね、と彼は声を出して笑った。
茜草、聞いたことはないが、薬草に使われていたことだけは学校で習った記憶がある。茜は地味だが、病魔で苦しむ人々の熱を放ってくれるのだ。
「そうだ茜さん、駅前のパフェ食べに行きましょうよぉ」
「どうしてそうなるのよ」
「身の内も明かしてくれたことだし、これでもう僕等は他人じゃないでしょう?」
「かといって友達でもないけどね」
真っ向からの否定に、彼は少し不貞腐れたように眉を潜める。
真っ赤に染まった夕焼けが、刻一刻と地平線に飲み込まれていく。今になると余計に、時が過ぎ去るのが遅いような気がした。
塵のかけらが集まって形成された夕焼けは、どこか切ないかおりがする。
「明日は、雨が降りますね」
無垢な三白眼が、にんまりと目尻を下げて笑う。
「どうして?」
「ほら、綺麗な夕焼けの次の日は雨が降るって」
「雨ねぇ」
「誰がそんなこと決めつけたんだろ」
「確か、猫が顔を洗うと雨が降るって迷信もあるよね」
「信じてるの?」
「まさか。でもまぁあんたみたいな変わり者と出会う境遇になったわけだし、きっと明日は雨が降るよ」
精一杯の皮肉を込めて放った言葉が、彼には到底届いていないようだった。
この男に何を言おうと、直ぐに本心でないと見透かされてしまう。それが分かってか、彼は綻びの篭った目でにんまりと瞼を伏せた。
「晴れるといいですね」
繭に包まれたような柔らかい声に、どこか切なく心臓が縮む。
私は、嘘をついた。
本当は、はっきり憶えている。
*
私と彼が出会ったのは、雲一つない晴天の日だった。
あれはたしか、私がまだ五つか六つの頃だ。尚陽と同じ様、私が通う遊び場に突如として現れた、少年。その少年の名を、紝巴と言った。
私が庭木の前で一人寂しそうに座っていると、きまって彼は無邪気な笑みで私の目の前に現れるのだ。
「なぁ、醇乎」(じゅんこ)
学生帽のつばをくいと上に引き、裾の広がったバンカラの影を羽織りのように戦がせる。
腰にかかる分厚いコートは、地上に降り立つヒーローであるかのように秀麗で、それでもって彼は唯一である私の救いだった。
辛く淋しい生活のなかの、唯一自分を癒すことができる時間。
「紝ちゃんっ」
私は、彼を紝ちゃんと呼んだ。彼の苗字である紝巴を一文字とって、紝ちゃん。愛称というべきか、私が彼を愛しいと思っていたことに違いはない。
出稼ぎに行く両親を持つ彼も、私と同じ独りぼっちだったのだから。
滅多に彼の家の人を見たことはないし、紝巴の家には何度か上がったことがあるのだが、端から端まで残らず静寂に塗りたくられてしまったような、そんな風変わりな家。
家族がいるのにつくねんとしている侘しさは、理解できない。きっと彼だって、私のことはよく理解せずにいたのだろう。酷で複雑な家の訳柄にわざわざ自分の好きな人を巻き込む真似はしない。
それでも彼は、私の弱みを受け入れてくれる最初で最後の人だった。
ヒグラシが泣き叫ぶその宵も、家を追い出され泣きじゃくる私の手をそっと握って、泣き止むまで側にいてくれた。
記憶に薄くそのころの胸懐なんて殆ど覚えていないが、きっと、私は誰か甘えたかったのだろう。家に帰っても暖を炊く場所もねだることも出来なかったから。
唐突に彼の背中に手を回し抱き締めても彼は嫌な顔一つせず、端正に笑って私の背中を抱き返した。
あの手の温かさが、いまだ焼き付いて離れない。
頭を焦がすあの雑音が、彼の呑みこむ息の根の鼓動が、心の鈍いところにしっかりと刺さったような気がした。慰留、あくまで気の慰め程度だったのかもしれないが、そのときから彼は唯一私の輪の中の存在へと変わった。
友達と一言で言い表せないふわふわとした関係のまま、私たちは桜の樹と共に成長し、いつしか十五を迎える年となっていた。
成長しても彼の鮮やかな目は変わらず、強いて言えば声が低くなったことと、身長が私よりも大きくなったこと。可愛らしいと思っていた容貌はいつのまにか中性的な秀麗さへと変化していき、耳下まで伸ばした柔らかい髪に色気を感じさせるほど悩ましく変化した。
かといって昔のような無垢さは抜けきれず、私のことを悪く言った年がしらに喧嘩を売り、頭から血をながして帰ってくることもしばしばあった。私のために身体を手放すことも奇矯ではあるが、それに心を揺さぶられている私も大概だ。背丈がいくら変化したところで、人の核心はそう簡単に変わるものではない。
私のために彼が傷つくというのも、どう肯定していいものなのか。手当てをしていると、どこか悶々とした心残りに胸が苦しくなる。
神宮を経営する家系だという彼は、叔父の所へとよく手伝いに行き、そのまま遊び場に薄黒色の袴を履いて出てくることも多かった。彼の着る袴はどこか復古調で、かといって客観的に古臭いという概念は生まれない。まだ昔小さい頃は彼も袴着を気に入り着こなしていたのだが、最近では恥ずかしがってすっかり物置の奥の存在となってしまった。姿への可愛げに、小さい頃はよく「お婿」なんて言う渾名で少しばかりからかったりもしたものだ。
勿体ない、というのは私の勝手な言入れだろうか。あの頃のような、先代から譲り受けた袴を着ている彼が私は一番好きだ。
「——桜の樹って、どうして下を向いて咲くか知ってる?」
はらはらと桜の花が舞うなか、学生服の裾を風に吹かせ微笑む。やはり、彼に風装いなバンガラはあまり似合わない。
天灯に照らされた白い肌が、こちとら髪の合間にこちらを覗く。ツバを上に引き上げる左手が、舞降りる桜の花びらの色に染まり入った。
「知らないわ」髪についた花びらをはらい、彼の方に首を傾けてみせる。漆黒を羽織る彼の姿が、目に焼き付くほどに眩い。
「理屈だと、重力とか受粉のためだとかがあるらしいんだけど、結局は人々を見守っているからなんだって」
「見守っている? 私たちが見ているだけじゃなくて」
「よくは知らないんだけど、桜は縁結びの代替というでしょ? そこから呼ばれるようになったみたい」
仮にでも、神社の息子が御呪いだなんて。
とはいえ、彼の言い分も一理あった。縁結びといおうか、この街の桜の樹には、土地神様の御呪いがかけられているらしい。馬鹿馬鹿しい伝説だが、代々地域に伝えられてきただけの有力さがあり、ここら辺の住人に知らない人は殆ど居ない。
桜の樹の下に歩み寄ると、ラバスコのようなふんわりとした甘い薫りに包まれる。全てを包み込むような、甘い薫り。
「そういえば、この間兄さんから結婚の知らせを受けたんだけど」
「お兄さん? たしか、今は鎌倉に住んでいるって。帰省したの?」
「違うよ。電話を貰ったんだ」
「電話ねぇ」
「そう、田舎のほうに帰ってきて、うちの桜の樹で結婚式を挙げるって」
「いつ戻ってくるの?」
「どうだろう、この間は挨拶だけ済まして鎌倉のほうに帰っちゃったからなぁ。いつもみたいに鳩サブレーだけは買ってきてくれたけど。たくさんあるから、今度取りにおいでよ」
鳩サブレー、それは名前の通り鳩を象った形の焼き菓子だ。外国のものと比べると、刺激のない円やかな甘味あがあり、毎年この時期になると訪れるお兄さんの帰省が小さい頃からの私の好餌でもあった。
彼はそれを知っているからこそ、こっそりと家にあるサブレーを私に分けてくれる。
「羨ましいなぁ。良いお兄さんがいて。それに、電話機を持っているんでしょう? うちなんかちっとも買ってくれないのに」
拗ねた私を黒光りの腕で抱き、彼は嬉しそうに私の髪を撫でた。こうして近づくと、頭ひとつ分くらいの身長差が露わになる。昔は、私の方が大きかったのに。
「良い子にしてればいつかは貰えるよ」
良い子、良い子、彼はいつもその言葉ばっかりだ。良い子をしていても、欲しいものは手に入らないというのに。
学生帽子の影に、頬が僅かに色づいていた。制服でも、袴でも、彼からはいつも柑橘の薫りがする。
「なぁ、私らも大きくなったら結婚しよなっ」
私が有情に微笑むと彼は嬉しそうに目を細め、やがて物侘しく表情を変化させた。
「なんで? 醇乎の家、厳しいのに」
「そうかなぁ」
「そうだよ。たかが神社の家の僕なんかが婿入って、ちゃんと風紀護れるのかな」
「風紀なんて、気にすることないわ。義父はもうとっくに亡くなっているし、それに私だって肉子ではないもの。家の位なんて、昔の話よ」
私が首を傾けて彼を覗くと、不安そうに目を地面に伏せた。
「どちらに入ろうと、醇乎といられるなら僕はそれで良いよ」
彼は含み笑いを浮かべたまま、私に接吻する。
実際味なんてないのだが、嗅覚をかすめる桜の薫りが唇を染める。
体を離すと、彼は前髪のあいだから覗かせる綺麗な二重を細めた。
「縁が結ばれたら、大人になっても一緒にいられるのかな」
「勿論っ」
縁なんかに頼らなくたって、私はずっと彼の側にいる。
そう、笑って。
「約束よ」
長い袖を口元にあてると、柑橘のようなあまい薫りがした。
あたたかい、彼の薫り。
戯れなんかじゃない、私は本気で彼を好いていたのだ。
ベッドに寝転びながら、月の輪郭を指でなぞった。膝を抱きしめる温度は今思い返しても甘酸っぱいけれど、その時はじめて充溢を味わったのだと思う。
霞む月日が、この先もずっと続いてくれればよかった。
期待していない、といえば嘘になる。少しなりとも、自分の歩む未来に想いを馳せていたのだ。
『約束』
その言葉を、私はすぐに裏切ることになる。
幾度と経った、夏の日。
その日は、たまたま立ちが悪かった。
朝からずっと薄暗い翠雨が吹きつけ、床板は所々水分で黒くくすむ。人の心が天気を変えることは無いけれど、天気は人の心を変える。人の机に鳩の死骸を入れて笑っているようなクラスメートがいたのだから、薄々そのことを理解しているつもりではいた。
私が学校に行かない間の出来事なんて何も知らないし、知るつもりもない。知ったところでその人間関係に深入りするわけでもないし、私が学校に行く目的なんて、出席日数稼ぎとクラスの状況把握のためだけだ。でなきゃ、あれほど嫌だった野暮ったいひだスカートなんて履くことはない。
いま解っていることは一つ、靴箱が三つ、空いたということ。
そんな些細な抵抗など、うちの学校では別に珍しいことではない。
人間関係なんて、自分の思い描いた通りにはいかないもので、相手のことを百パーセント理解しろだなんて、相手を支配しない限り不可能だ。
仲間なんて、そんなもの。
だから。
「お前の母ちゃん、男と夜逃げしたんだろ」
だから、きっとその時も、黙って聞き流してしまえば良かったんだ。
毛先から水滴を垂らした同級生の戯れ言なんて、真にとめる必要もない。意思能力が低い中学生期なら、自分が理解できない他人を蔑むのは当然のようなことなのだから。
そんなことに感情移入なんて、する必要も無かったのに。
「————煩い」
喉の奥から出た叫びが、静まり返った教室へと響く。
「でもそうなんだろ? ハセガワ達の間で噂になってる」
「……」
ハセガワ、というのが誰なのかわからなかったから、瞬時に漢字変換はできなかった。
目の前で嫌味に笑う面様に吐気がして、殺意さえもが沸き立つ。
何も、知らないくせに。
「母親がヘルハウスで自殺なんて、お前も可哀想な子供だったんだな」
流暢なその声に、胸が抉られるように熱くなった。
子供と言われたことへの怒りではなく、可哀想。
可哀想って、誰が?
「ふざけんなっ」
度を超えた怒りなんてものは、気が付いたときにはもう遅い。
高い悲鳴声に気がつくと、二メートルほど先で無様に倒れる男と目が合う。
机が倒れる音に、私はやっと我に帰ったようにじんじんと赤く腫れた左手をおろした。
あぁ、殴ったのか。
感情を押さえ込むのはこんなにも苦しかったのに、暴力を振るうのは一瞬で終わってしまう。
かといって拳で全てがおさまるわけでもなく、馬鹿みたいに呆けた顔を見つめると、余計腹のなかが掻き回される。
「…ふざけんな」
殺気立つ私の口角からは、もはやまともな言葉さえ出てこない。口角を吊り上げておかないと、今にでも目に溜まった涙が零れ落ちてしまう。
背後の椅子が倒れ、床が擦れるような音がした。
「たしかに、両親がいなくて辛いことは沢山あった。苦しくて、何度も死のうとしたことだってある。だけど、可哀想? 貴方たちは私の何が分かるの? 何もわかんねぇ低俗が偉そうに野卑垂れてんじゃねぇよっ」
思い返してみれば少し痛々しいような言葉を吐き捨てた。腹の中のものを撒き散らすように、肺に閉じ込めた空気の汚れを吐き出すように。今、私はどんな顔をしているだろう。怒り、いや、もしかしたら泣きそうな哀しい顔をしているかもしれない。
もう一発入れるために腕を引き上げると、次々と飛びかかってくるバンガラに、私の背中と腕を床へと押しつけられた。
それは私が次の攻撃をしないためか、それとも私への復讐のため——でももう、そんなことはどうでもよくなっていた。
肋骨を圧迫された激痛に、涙が出る。
「ーーーーーーーーーっ」
無理に声をあげようとしたせいか、くらくらと目眩がした。
苦しくて、苦しくて、辛くて、彼らに伸ばした行き場のない手に、哀しみをこえて笑いが込み上げた。
惨めだな、と。
私の方を向く人々の目は冷たく、汚い害虫を見ているかのような、目。もう助けを呼ぶ間でも無いな、と私は抵抗するのをやめた。
あの時私は、どうして笑うことが出来たのだろう。
生涯ではじめて感じた、腹の底からの歓喜と快感。自分を見下す奴等への報復。
もしかしたら紝ちゃんは、喧嘩をするときこんな気持ちを味わっていたのかもしれない。
助けだなんて、もうどうでも良い。私はクラスメートより遥かに強いのだ。殴り飛ばした男子生徒にだって、押さえ込む連中にだって、尖り澄ました頭角で胸を一突きすれば大きな楕円の穴があく。それだけは確かだった。
ここで、全身の骨を折られて殺されても、もはやどうでもいい。所詮私は死ぬことが出来ないのだ。それらの事柄には興味が無かった。
いや、殺されてしまった方が気が楽かもしれない。あんなに嫌いだった母親を庇って煩いを受けるくらいなら、その方がきっと楽だ。
だが、クラスメートは私を殺してはくれなかった。
黒く上履きのあとがついた制服と共に、その痛みはすぐに返ってくる。くすんだ制服を見るとあの冷たい目が脳裏に流れ泣きそうになってしまうから、そのうちに私は学校に行かなくなった。
当然ながら紝巴と会う日も徐々に減り、やがては無くなった。次の約束をする唯一の場所がなくなってしまったのだから、と仕方のないこととして受け止めているにも、心中ではやはり淋しい。無性に胸を苦しめるその感情は、日に日に漠なものへと姿を変えていった。
寂しいからといって彼に会うため学校に通うようなことはしない。何度かは決意を決めて家を出てみたが、屈辱的なクラスメートの顔が脳裏に浮かび、剛気足らずして家へと逆戻りだ。
どうしても汚辱を受けつけないというのなら、埋め合わせになるものを新しく見つければ良い。私は、今までずっとそうして生きてきた。一つのものへの執着は、毒に入り浸るのと同じようなものだ。想っているだけ身体が弱るし、何より失ったときに心が苦しい。
いくら辛いことがあったって、人間は時が経つにつれ段々と物事を忘れていく。無くしても、無くしても、また新しい想起を見つけて幸せに生きていける、単純で儚いものなんだから。
その日、家のポストに投函された一枚の学年新聞で、私の考えは大きく変わった。いつもはすぐに破り捨ててしまうのだが、一つの記事が目に留まり、ごみ箱へと進む脚が止まる。
紝巴が階段から転落し、そのときに負った左腕の怪我が悪化して学校を辞めることになった。
学校を。
その一文を何度も何度も読み返した。いくら読んだところで内容が変化するわけでもないのに。
紝ちゃんは、小さい頃からずっと私の近くにいた。だからだろうか、どこか安心していた。彼はずっと変わらない、だから学校に行かなくてもまた会えるだろう、と。他人を完全に信用は出来ないと知りながら、彼のことだけは完全に知っている気でいた。
その考えが、甘かった。
思えば、私は彼のことを何一つ知らされていない。本名も、住所も、電話の番号も、家族構成も、はっきりとした経歴も、私は何も知らない。
知らずのうちに、巷では彼が亡くなったという噂まで立ち込めていた。亡くなった、というのは今一信じられずにいたが、不安定に空き地を彷徨っているうちに、やっと理解した。
昔のように空き地で泣きじゃくっても、もう彼は慰めに来てくれないのだ。日が暮れるまで赤い目で膝を抱えていても、とうに彼は私のもとに姿を見せなくなってしまった。必ず毎日、この時間になると私のもとをたずねていたのに。
もしかして、彼は本当に亡くなってしまったのだろうか。
遠い意識の中で、彼の姿を思想する。階段から跳ねて潰れる、彼の果てた姿。
彼と交わした約束を踏みつけに生き延びた私のことなど、いくら彼でも許してはくれないだろう。そう考えれば考えるほど苦しくなって、両手に残る体温をぎゅっと抱きしめた。
きっと、その瞬間その刹那から、私は人間ではなく人殺しの化物へと姿を変えていたのだ。
私が過去に一つの殺人を犯したということを、未だ誰も知ってはいけない。
*
朝月が綺麗だった。
月を見ても体が変化しないということは、昨夜はきっと満月だったのだろう。
目を開けると潮の焦げるような薫りが充満していて、玲瓏とした硝子窓に触れてみると、案の定外では雨が降っていた。網戸についた水滴が薄い膜を張り、フィルムのように張り付いている。
朝月の雨も月時雨というのかしら、と徒爾なことを考えながら家を出ると、まだ辺りの街灯がついていた。どうやら、まだ夜は明けていないらしい。
この時間から少女が森に入るのは危険だろうから、仕方なく私は近くのコンビニで時間を潰すことにした。
何も買わずにフードコートを占領するわけにもいかないので、仕方なく店の中をうろつく。早朝だからか、「らっしゃいませー」と口ごもる新人札の男がやけに無気力なように感じた。
カステラパンと、コーヒー。別に気取っているわけでは無く、しかもコーヒーは最安値の紙パックのものを選ぶようにしている。質より量。それが貧乏人性のモットーだ。学生時代に貯めた貯金と少ない仕送りだけが、収入が無い私の唯一生きる糧となっている。それでも、少しでも貯金を私宛てに残してくれていた義母には、感謝しても仕切れないほどの広大な恩がある。義母の口座が皆無に切り替わるのに、遅くて一年——あと一年もすれば、唯一の綱だった貯金が途絶えて、それこそ完全な絶縁状態になってしまう。
正直、私は食べなくても生きていける。
どうしてか、具体的な理由は知らないのだけれど、きっと化物であることに関係しているのだろう。少なくとも、半年の間は食べずにも生きていける。それでも食べ物を見ると食欲が湧くのは、きっと人間の血が残っているからだ。
ごみ箱の蓋が閉まる音に、ふと感じた視線を追う。
さっきまでやる気の無さそうにしていた店員が、私の顔を真っ直ぐに睨んでいたのだ。
なんだよ、と心の中で舌打ちをする。舐めたからといって、俯瞰な相手に感情を表に出してもいいことが無い。
店員の方に軽く頭を下げると、さっさと店を後にした。気後れにも、後ろから、『有難うございました』という声は一切聞こえなかった。
湿気で気分が悪い。
雨の中草の上を歩くと、ぐしゃ、という不快な音がスカートの裾を濡らす。草にあたっても意味はなく、この雨の中スカートを履いてきた自分を責めた。
なぜに雨の日はこう気分が悪いのだろう。ふんわりと優しく包み込む湿気の一粒一粒がうっとおしくて、余計に夏の蒸し暑さが増している。誰かが脚に触れる感覚に怖気づいて、ぴしゃりと水溜りを蹴り上げた。
「来たんだね、良かった」
藍色の傘に包んだ漆黒が、雨をかき分けて突っ立っている。
唐突な声にびくりと肩を震わせ、私は傘越しにその少年を睨んだ。
「別に、貴方に会うために来たわけじゃない」
「雨なのに?」
「……関係ないじゃない」
第一に、病態な身で雨の下に出ることもおかしい。
彼は昨日とあまり変わらない質素な服装で、紺色の淡い傘を肩に乗せて回している。
私の目線に、尚陽は力無く笑った。頭の奥で、そんな彼を少し期待していた自分がいる。
「今日も絵を描きにきたの?」
「違うよ」
「じゃあ、何?」
今日はね、と嬉しそうに両方の口角を吊り上げる。
「花を、摘みにきたんだ」
「……」
意外では、あった。
花を好む人間なんて、というびゃっけんが吹っ切れて、無意識に唇が緩む。生花は、わりと自分の得意分野の一つだ。小さい頃、ずっと花摘みをしていたような記憶がある。
「何て言う花?」
「エルヴィスって言う、小さくて白い花」
「エルヴィス」
「そう。知らない?」
私は知らない、と首を振る。
雨が傘に打ち付けて、厖大な雑音が耳元でざわめいた。縦に殴りつける雨粒が、傘の芯に流れ落ちる。
「聞いた話では、翠雨の降る水無月にしか咲かない、幻の花なんだって」
「…なにそれ、神話じゃない」
考えるだけ、損した。
『エルヴィス』なんて花、図鑑にも本にも載っているのを見たことがない。まぁ、空想物であれば当たり前か。
口元を手で覆うと、体裁よく頬を歪める。今までしてこなかった愛想笑いというものは、なかなか慣れるものでは無い。冗談を仄めかす彼はどこか幼い可愛らしさを醸し出していて、男にさえ根負けしている自分の不器用さに苦笑するしかなかった。
でも、と彼は細長い一本指を立てる。
「その花の花汁を飲むと、永遠の幸せを手に入れられるんだって」
「………へぇ」
永遠———そうか、この少年はもうすぐ死ぬんだったな、ということを遠く思い出す。死期を感じさせないほどの、生きたいという気持ちを抱えている。
私とは真逆だ。
そう簡単には見つからないか、という彼の陽気な言葉に私はこたえなかった。相槌でも打ったものなら、尚陽の言葉を肯定することになってしまう。喉のあたりに詰まる『良かった』という言葉を、せりあがる喉元で呑み込んだ。
生きている間は死を嘆いて、永遠を手に入れられたとたんに生を羨む。人間である間は気づかなかったけれど、永遠は死と同じくらいに辛いものだ。私はまだ十数年しか生きていないが、桁が上がる頃にはそれこそ狂ってしまうだろう。その選択だけは、彼に課せて欲しくない。
咎めるように俯くと、私は浅く息を吸う。外はこんなにもむせ返っているというのに、吸う空気はいつも涼しい。
「尚陽はさ、生きたいの? それとも怪異になりたいの」
「どっちもかなぁ。でも怪異になりたいって夢描けるのも生きてる内だけでしょう? それに、茜さんとも友達になりたいし」
「昨日今日出会ったばかりの他人を人生の選択肢に入れられるんだ。なんと言うか、凄いね」
死んでからでも友達になれるというのは、一切黙っておくことにした。それに、彼が同じ世界に来たからといって友達になれるとは限らない。
「そうだ、茜さん。今日は駅前にパフェ食べに行くんだったね」
「行かないよ」
「さては、パフェを知らないな?」
「知らないわよ。それに、人が多いところは嫌いなの。前に一回掏りに遭って財布ごと奪われたことがあるし」
「いくら盗られたの」
彼は特別驚くような仕草を見せなかった。当たり前だ。この物騒な世の中で、カツアゲやら強盗やらと言う案件は秀でてめずらしいものでは無い。
「ざっと——千五百円」
暗がりな声を受け取ると、尚陽は一瞬だけ驚いたように構えて、やがて片手を口に当て、くすくすと吐息混じりに笑った。
「何が可笑しいのよ」
「いやぁ、千五百円で刑務所に送られるなんて、掏りも災難だなぁと思って」
「千五百円を馬鹿にしてるでしょ。そんなだと、後で痛い目に遭うわよ」
「大丈夫ですよぉ。身体が弱い分、防犯対策ならしっかりしているし」
防犯対策なんて、だいの大人が口にすることではないような気もする。それもこれも、お金を全て巻き上げられてしまったら余命の人生が元も子もないということだろうか。
「そこまでして、どうしてパフェが食べたいのよ」
「あそこのお店、男一人じゃ中々入りづらい雰囲気があるから」
「相手が悪かったね。私は意地でもパフェを食べに行かない自信があるわ。あんなにお洒落なお店、いつか恋人でも作って二人で行ってきなさいよ」
恋人か、と拙いような口ぶりで、彼は私から目を逸らした。
冷たくなった傘の持ち手を花魁のようにくるりと回すと、控えめに微笑む。彼の言葉を揶揄うためではない。只々安心して、自然と溜息が溢れた。
好少年風の彼は、男女構わず好かれるだろう。そんな男とべたに一緒に店を回っているところを見られれば、周りにどう思われるか分からない。それに、心の中にいる麗しいフィアンセにどう弁解していいものか。
尚陽は私の近くへと歩み寄ると、ポケットから伸びるビニール袋の端に目線を落とした。
「それ、コンビニ寄ってきたの?」
「どうして?」
「ほら、その英字のロゴ。僕もよく行ってるなぁ、作りたてのお弁当美味しいんだよね。個人的には、汁なし担麺がお勧め」
「担麺」
「そう。辛くないほうね」
「担麺くらい知ってるわ」
人差し指でお椀型を描きながら口を尖らせると、透き通るような声で優しく綻びた。美しい女の子に使う比喩だが、鈴がカラコロと転がる——という表現がこの情緒に相応しいのかもしれない。
「食べ物の話してたらお腹空いてきたなぁ。もうそろそろ正午も廻るし、僕の奢りでどこか店回らない? 自動的に、ついででパフェの店も回ることになるけど」
「食べに行くって、昼食のこと」
「それ以外に何かある?」
よそよそしく彼の手から渡された冷たい缶珈琲からは、水滴が噴き出てぐっしょりと濡れてしまっていた。かと言って中身が暖まっているわけではなく、涼しげなパッケージを剥ぐと氷点下の冷気が立ち込める。そこでようやく、私のために側近の自動販売機を回してくれていたことを悟った。
「……ありがと」
「え、いや、うん」
「何なのよ。さっきまでのださい格好付けが台無しじゃない」
「いや、はじめてお礼言われたなと思って」
「私がそんなに冷徹な人間だと思ってたの」
「思って……たかもしれない」
彼の曖昧な返答に、思わず笑みが溢れた。
尚陽の冗談には慣れているし、冗談でないとしても、それもそうかと理解できる。どう変わろうと私は冷徹で残酷な人間なのだ。
「麦酒は一口目なんて言うけど、珈琲はだんだんと味と風味が変化するよね。それが美味しいんだけど」
「そう? 私はあまり麦酒を飲んだことがないから分からないわ」
「じゃあ今度一緒にお酒飲みましょうよぉ。麦酒が嫌いなら日本酒でも、ウイスキーでもいいですし」
「無理よ。私、未成年だから」
十七の時から五年も時が経っているのだから、普通に考えて二十歳越えていると換算してもおかしくはない。煙草は高校生の時から吸っていたものだが、精神を崩すお酒は駄目だ。この姿で、何やかんやと不祥事を起こしては気が済まない。
「……え?」
私は、前に一度だけ缶の麦酒を口にした時がある。確かお正月か、母親に勧められて飲んだお酒の感動を、ずっと何年も忘れることが出来ない。それだけの衝撃が、あの二十センチの小さな缶には詰まっていたということだ。
「えっと、茜さんはいま何歳?」
「十七よ」
「……へぇ」
「だから、本当は煙草も吸えないの。だけど、暇つぶしに妥協は必要でしょう? 肺に穴が空くくらいどうってことないわ」
「肺に穴は開かないと思うけどね」
「あれ、そうなの? じゃあ今まで心配してきて損した」
私を的外れだと、そう思ったのだろうか。
一瞬の狼狽に目を背け、心の中で呆れたため息をつく。自分にとってあまり良いことではないような気がして、鼻に響くような小さい声でにっこりと笑みを作った。
「いや、そっかぁ。もっと上だと思ってたんだけどな。ほら、茜さんって大人っぽいし」
「そう言ってもらえると、嬉しい」
「十七っていうと高校生?」
「いや、今はもう社会人、になるのかな。無職だけど」
「職がなきゃ、社会人という肩書がえられないわけじゃないでしょう? 茜さんは立派な社会人ですよ。無職でも性根腐りでも一社会人には違いない」
「あなた、性根腐りに恨みでもあるの?」
馬鹿馬鹿しい冗談に、わらうまいと強く喉を震わす。胸に詰まる『性根腐り』という言葉に、どうしようもない反発心が激しく暴れた。
「性根なんて……嫌うとするなら、食べ物に感謝しない人くらいですかね」
自身のお握りを貪り、上下に動く頰で微笑み言った。それをあまり知らないのか、あるいは忌みを持っていないのか、頓着を失った彼の袋を塵箱へ突っ込む。
ついに満たんになった塵箱を上から靴で踏みつけ、その上に溢れた蓋を重ねた。
「小学生以来、だな」
「いやぁ、食べ物馬鹿にしちゃ駄目ですよ。そんなだと、残された白米が大群になって襲ってきますからね」
「白米に殺されるって……それにそれを言うなら、想像で食べ物御粗末にしてるアンタも一緒じゃないの?」
「想像くらいはいいじゃないですかっ」
割り箸を裂き、ちょうど私の向かいに立つ塵箱に押し込む。裂いた先がビニール袋を貫通して、白い頭角を剥き出していた。繊維が折れたそれは、なんとも言えない残虐さがある。
私が黙って見つめていると、「やっぱり」と彼が続けた。
「惣菜買って食べるより、自炊って、身体にいいんですかね」
「もしかして一人暮らし?」
「えぇ。料理と言っても、僕目玉焼きくらいしか作れないですし」
両手で小さな輪っかを作り、目玉焼きに見立てて苦笑する。
「目玉焼きねぇ……私も、雑炊くらいなら作れるんだけど」
「雑炊」
「そ、知らない?」
私の問いに、彼は眉を潜めて首を捻る。
雑炊、子供の頃に義母がよく作ってくれた、卵の乗った粥だ。とびきり美味しいと言うわけではないが、安いのにそれなりの温かさはある。身体が弱っているときほど、無性に温かい雑炊を欲してしまう。
「そのくらいなら私にも作れるよ」
「粥って鍋の余興に入れるやつのこと?」
「近づいたようで少し遠いかな」
「そう、ですかぁ」
暗くなりかけた空に小さく呟くと、黄昏に息を吸われる。
建物の隙間から溢れる西日に目を細め、空っぽになった胃が空腹を訴える。久しぶりに酒が飲みたい気分だ。食べ物では満たされない空腹を充すため、遠く無人駅のホームを見つめる。まだ空の上の方は青く残っていると言うのに、朱く煌めく西日との間に挟まれて、建物が仄暗く滲んでいた。
「……私が、作りに行ってあげようか?」
ぽつりと、呟く。
こちらを見ず、少し驚いたように彼は表情を晴らした。
「茜さんが?」
「疑ってるの? これでも立派な淑女なんだけど」
「いや、そういうことじゃなくて。僕を助けてくれる人なんて滅多にいなかったから、その、嬉しいなって」
夕陽に頰を染めて、綺麗な顔を歪める。嬉しいと言い切ることができるのは、やはり彼自身に嫌悪感を抱いているからなのだろうか。
「ぁ……」
小さく呟く。
耳に入ったか否か、材料を買いに駐車場へと脚を進めた。
尚陽は迷いや戸惑いの気を隠すように笑顔を貼り付け、やがてその限界に容貌を苦紛れに曇らせる。
そこには明らかな錯綜と、いくつかの折り重なる矛盾が存在した。
「……茜さんっ!」
彼の叫びに、思わず後ろを振り返る。
地面を見つめて固まっている姿に、進む脚が止まった。
「あの、いきなり失礼だってことは分かってる。だけど一つだけ、最後に訊いておきたいことがあって」
「訊きたいこと?」
口を紡いだまま、彼は視線を足元に落とす。
踏ん切りづかない躊躇に戸惑い、ようやく重い顔を上げて喉を震わせた。
「茜さん」
彼の表情には、思いを吹っ切ったような清爽があった。儚く伸ばされた掌が、私に届かずに拳を握る。
「僕は……僕には、君が、透けて見える」
僅かに残る高揚が、いやに身体を掻き毟る。
相手を傷つける覚悟が、繁に心臓を拭った。
「———な」
見開いた瞳は乾き、驚異に一歩後ずさる。
姿形が透けると、そう言ったものがこれまでにいただろうか。もしかしたら彼は、私の本質を見抜いているのかもしれない。そう思うと、妙に怖くなった。
死んでもなければ充溢に生きてもいない。人間でもなければ純な化物でもない。これほどまでに半端な存在を、どう区別するというのか。
首を項垂れて地面を見つめると、一度息を吐き唇を結んだ。
「なによ急に。人間じゃなかったら何だっていうのよ」
「だよね。変なこと言っている自覚はある。だけど、どうしても確信が持てなくて。まさか幽霊とかじゃない、よね」
「なに馬鹿なことを……」
「そうだよね、はは」
掠れた小さな声で、あからさまな愛想に笑う。
「所労で目が疲れてるのかな。どうしても、君の姿全体の輪郭が霞んで見えるんだ」
「……霞んで」
自分から言ったくせに、自信なくよそよそと私から目を逸らした。
及び腰の彼に歩み寄ると、その歪んだ容貌にふっと笑みをかけ、視界を遮るように両目を掌で優しく覆う。
実際は数秒に過ぎない長い長い沈黙の後、手を瞳から離し、後ろで組ませる。
「これでもう、霞まなくなったでしょう」
沈む輪郭に、お返し、と不適に微笑んでやった。
彼は驚いたように首を傾げると、やがて目を伏せて頬を赤らめる。私の方へと進める脚に迷いはなく、真っ直ぐな瞳で遠く、私の名を呼び止めた。