ミリは気まぐれな女の子だった
ミリは、気まぐれな女の子だった。
「イタリアンが食べたいわ」
そう言うから評判のいいレストランを探した。次の日に連れて行った。
「今日は中華が食べたかったの」
なんて平然と言いのける女の子だ。
「あの服素敵だと思わない」
そう言うから買ってあげたら。
「よくよく見たら変なデザインね」
なんて小悪魔的に笑う女の子だった。
だけど僕は、長いことミリと同棲していたから、彼女が本当は優しいことを知っている。
「中華の方がよかったけれど、けど思ったよりは美味しかったわ」
なんて笑ってくれる。
「変なデザインだけど。けどまあ、普段使いするには悪くないから」
なんて言って僕と出かける時には絶対に着てくれる。
照れ隠しで貶して、本音は語らず。だけど本当は喜んでくれているのだと態度で示してくれる。
そんなミリの事が僕は好きだった。
「そういえば。来週は貴方の誕生日だったかしら」
「ああ。そういえばそうだね。忘れていたよ」
僕の誕生日を覚えてくれて、一週間前には教えてくれる。本当は覚えているのだけれど、忘れたふりをしている。だって彼女が教えてくれるのが嬉しいから。
当日も忘れたふりをしている。そうするとミリが教えてくれるからだ。
「今日は貴方の誕生日ね。まあ。だからと言って何もしないけれど」
毎年そう言って彼女は仕事に行く。そしてプレゼントと、ケーキを買って帰ってくる。
「安かったのよ」
そんな言い方をしながらかわいらしいケーキをテーブルの上に出してくれる。毎年の恒例行事のようなものだった。
彼女は今年も同じようにして出て行った。その日僕は29歳になった。残された僕は無駄にどきどきしながらスーツに着替えて出社の支度をした。この日は例年と同じ日ではない。彼女が帰ってきたら、なんだかちぐはぐな気がするけれど、指輪を渡そうと思っていた。スーツのポケットの中のケースを握りしめる。
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結果的に、その夜は例年と同じ夜ではなくなった。同時に僕の願った夜でもなかった。ミリは帰ってこなかったのだ。彼女と一緒に暮らしてから、僕は初めて一人で誕生日を過ごした。
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次の日。即ち今日。僕は会社を休んだ。電話をかけたのは8時25分。就業時間ギリギリの連絡に課長は怒っているだろう。一方的に伝えたいことだけ伝えただけの乱暴な電話だ。社用の携帯電話の電源も切った。
僕は布団の中でぐずぐずしていた。極論を言えば、大したことではない。だってミリは子供じゃない。立派な社会人で、自分の意志でどこかに消えることだって有りうることだ。……ミリは気まぐれな女の子だけど、何も言わずにいなくなる女の子ではないけれど。
昨日までのことを忘れて寝てしまおうかと思った。僕は長い夢を見ていてそれが覚めただけなのだと納得しようした。だけど結局、居ても立っても居られなくなって、僕は布団から飛び出した。
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スーツに着替えた僕はミリの会社に向かった。電車を乗り継いで五分くらい歩いた先にあるビル。その五階に彼女の勤めるオフィスがある。入る前に電話をかけてみる。彼女が元気なら、出社してきているはずだ。
『お電話ありがとうございます。××株式会社の○○です』
「あ、すみません。北井と申します。西川ミリさんはいらっしゃいますか?」
『……。申し訳ありません、西川は本日出社してきておりませんで』
「え。お休み、ですか?困ったな。ミリさんの個人の携帯にかけても繋がらなくて」
『あ……。申し訳ございません。西川と連絡が取れ次第お電話するよう申し伝えますので、お電話番号をご確認させていただけますか?』
「ああ。いえ。大丈夫です。失礼します」
僕は電話を切った。ミリは会社には出てきていないらしい。もしかしたら本当に僕のことが嫌になって隠れているのかもしれないけれど、彼女の性格ならばきっと直接言ってくるはずだ。
もしかしたら。『北井』という人間が電話をかけてきたらいないと言えと頼んでいるのかもしれないけれど。
後ろ向きにえても事態は動かない。僕はビルに踏み込んだ。
五階のオフィスに入る。出入り口から一番近いところに座っている女の子が受付に来てくれた。
「いらっしゃいませ」
「すみません。え……っと。僕は西川ミリの、恋人です。実は昨日から彼女が帰ってきていないんです。その……出社はしていないでしょうか」
女の子が息を呑んだのが分かった。「少々お待ちください」と言い残し、事務所の奥へとてとて駆けていく。その後に出てきたのは眼鏡をかけた小太りの中年男性だった。
「ああ、すみません。私こういう者です」
差し出された名刺には『南出』と『主任』という文字が書いてある。ミリの上司、ということだろうか。僕は彼に目を向けた。
「西川さんは昨日帰っていなかったんですか?」
「ええ。連絡もつかなくて。あの、昨日何か変わったことはなかったですか?」
南出は首を横に振った。
「普段より早めに帰ったくらいですね。それ以外には何も」
「……そうですか」
「なにかあったのかもしれません。彼女は真面目な子ですから、無断で出社しないということはちょっと考えられないですよ」
「そうですね。うん。何かあったのかもしれないですね。一応警察に連絡してみます。ありがとうございました」
南出が何かを言っていたが、僕は無視をしてビルを出た。
ミリは昨日早く帰ったらしい。もしかしたら、彼女は僕の誕生日のプレゼントとケーキを買おうとしていたのではないだろうか。
「都合のいい妄想かな」
だったらいっそ限界まで都合よく考えてやれ。
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五日前の土曜日、彼女と一緒に百貨店に出掛けた。僕はショーケースに飾られている時計をじいっと見つめていた。ミリは隣からのぞき込んできた。
「何を見ているの?」
「高くて手が出ないけど、けどいい時計だなと思って」
ミリはちらっと時計を見ると、「子供みたい」と言った。
もしかしたらアレを買おうとしてくれたんじゃないかな。そうだといいな。足は自然と動き出した。駅に入って電車に揺られて。百貨店に向かって走って。その場所にミリを探した。
時計売り場に行くと件の時計はショーケースの中から消えていた。近くにいた店員を捕まえて掴みかかるような剣幕で尋ねる。ここにあった時計が欲しかった、いつ無くなったんだ、と。
昨日の6時半前後に、売れたのだと教えてくれた。心臓がドキッとした。まだ確定したわけではないけれど。都合よく考えるのならきっとそれはミリだ。店員にお礼を言って百貨店を後にする。
彼女がここに来ていた可能性はゼロじゃない。ここまで来ていたはずだと頭の中で決めつける。強引な仮定を積み重ねているだけなのだけれど、それでも良かった。この仮定を前提とし、その上で彼女が次に行くところはどこか思い巡らす。
『私は『シャロン』のケーキは気に入ってるの。だから買ってきただけよ。勘違いしないで』
ミリは僕の誕生日には、必ずシャロンという店でケーキを買う。僕たちの住むアパートの近くにあるケーキ屋さんだ。
順番で言うなら、会社を出て百貨店に行き、シャロンに立ち寄って最後に帰るのが一番スマートなルートである。
シャロンまでの道を走った。もう一度駅に飛び込んで電車に乗った。降りてからは周囲を見回して、ほんの少しの痕跡も見逃さないようにして走った。しかし手がかりなんて見つからないまま到着してしまう。アパートはもうすぐそこだ。この先で何か起きたとは思えない。結局独り相撲だったのかなと苦笑する。
僕は店内を覗き込んだ。店員がケーキの補充をしている。昨日ミリがここに来ていなかったか聞いてみたい。だけど、果たして教えてくれるだろうか。ごくりと生唾を飲み込んでドアを開ける。
「いらっしゃいませ!」
ショーケースにはいくつもケーキが並んでいた。その向こう側で店員がにこやかに出迎えてくれる。一直線に歩いて行った。「東」と書かれた名札をしたバンダナをした背丈の低いかわいらしい女性店員。彼女にスマホに保存したミリの写真を見せた。
「いきなりですみません。彼女、昨日ここに来ませんでしたか?」
店員は「あ」と言った。彼女の反応に僕の心臓が飛び跳ねる。
「来ましたよ。昨日の7時前くらいに」
「本当ですか」
ミリはシャロンに来ていた。ここまでくれば僕らの住むアパートは目と鼻の先。アパートまでの道のりで何かがあったのだ。
「ああ……。そういえば。あの人何か忘れていったような」
「なにか?」
なんでもいいから情報が欲しい。
「紙袋ですよ」
「紙袋……?」
「はい。△△にある百貨店の。ああ、ちょっと待っててくださいね。持ってきますから。そこに座っててください」
「……はい」
僕は言われるがままに椅子に座った。シャロンは食事も出来る店だ。丸テーブルと椅子がいくつか置いてある。手持ち無沙汰で東さんが戻ってくるのを待った。
やっぱり。ミリは僕の誕生日を祝おうとしてくれていた。だから時計を買ってくれたんだ。スーツのポケットに手を突っ込んで、彼女に渡すはずだった指輪の入ったケースを握りしめる。
少しして東さんが戻ってきた。紙袋とコーヒーを持って。
「ええと。これがさっきお話した紙袋です」
僕は中を開いてみた。綺麗に包装された包みが入っている。それを見た瞬間に涙が流れてきた。東さんが心配そうにのぞき込む。
「大丈夫ですか?」
「す、すみません」
涙を拭って、照れ隠しのようにコーヒーに口を付けた。
直後、強烈な眠気に襲われて。僕の意識は薄れていった。
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僕の名前を呼ぶ声がする。何度も何度も呼んでくる。悲しそうな声。心配げな声。それでいてよく知っている声。だけどいやに大きな声。薄く目を開いていく。
「あっ……」
そこにはミリの顔が広がっていた。比喩ではなく文字通り、大パノラマみたいに広がっていた。
一瞬夢かと思ったけれど、ぽたぽた落ちてくる涙の感覚と、そのしょっぱさでこれはきっと現実なんだなと思い直す。彼女はまるで異世界から来た魔女になってしまったみたいだった。
彼女は僕を片手で包み込んでしまえるくらいに大きかった。昨日出かける時に来ていたレディーススーツは無くなって一糸纏わぬ状態。よくよく見れば僕も全裸である。
僕はその手の中で周囲を見回した。そして、言葉を失う。僕たちは透明な壁に覆われた空間にいた。壁の向こう側は巨人のための部屋。巨大なテレビや机。ベットなどの家具が置いてある。本棚の上にはかわいらしい見た目をしたかわいらしくない大きさのぬいぐるみがいくつかあった。この部屋の主は、今のミリよりずっと大きい。……と、言うよりも。
「もしかして。僕たちが……小さくなったのか?」
僕はミリを見上げた。彼女はこくりと頷いた。背筋が凍りつく。この部屋の主が帰ってくるのではないか。この家具を持つにふさわしい大巨人が、僕たちをまるで虫けらみたいに閉じ込めている存在が。
ずうんと音がした。ミリはぎゅっと僕を胸元に抱き寄せる。苦しくて外側で起きていることも分からない。滅茶苦茶な震度の地震みたいな揺れが何度も何度も。そのたびに彼女の身体が震えた。最後に一層大きく揺れて。それから雷鳴のような声が響く。
「元気?ミリちゃん?」
呼びかけられたミリがヒッと息を呑んだ。
「あはは。面白いですよね。ミリって名前でホントにミリ単位の大きさになっちゃって。あ、そうだ。アナタの恋人っぽい男の人。起きました?」
「お、お願いします!もう許してください!私たちをここから出してください!東さん!」
僕は「東」と呟いた。彼女の手の中でどうにか身体を動かして、指と指の隙間から外界を見た。そこに立っていたのはシャロンの店員。ショートヘアで僕より背の低かったはずの彼女だ。
「いやですよ。せっかく捕まえたのに逃がすわけないでしょう?」
東は腰を落として下から何かを取り出す。彼女が片手で持てるくらいの大きさの虫かご。その中に。ミリと同じような大きさの小人が居た。
「コレ。一ヶ月くらい前に捕まえたんだけど。最近反応が悪くて。飽きちゃったの。今から処分しますね」
ミリは一層強く僕を抱きしめた。その光景を見せまいとした。そんな彼女の姿に、残酷な女神は明るく言う。
「恋人さんにも見てもらいたいな。じゃないと。先にアナタたちを磨り潰しちゃうかも」
ミリは小さく震えながら僕を解放する。その光景を見せようとする。東は満足げに頷いた。
「よろしい。よーく見ててねー?」
言うと東は虫かごに手を突っ込んだ。巨大な五本の指先が一切反応を見せない男性を捕える。その指先を僕たちを閉じ込める壁に近づけてきた。
悪夢みたいな光景だった。ゴマ粒のような人。それを摘まむ指先。上空から聞こえる「見える?」って声。
「頑張らないと、キミたちもこうなっちゃうよ♪」
巨大な指先に力が込められる。男の無の顔は苦悶の表情へと変わる。血がにじんで。腕があらぬ方向に曲がって。目が飛び出しそうになって。僕は思わず顔を背けそうになった。
「ちゃんと見ないと潰すよー」
その声に心を支配されて、僕はまばたきも出来なくなった。この男はミリと同じくらいの大きさだ。僕よりずっと大きいのだ。その相手を東を虫を潰すみたいに扱っている。僕なんてもっと簡単に殺されてしまう。言うことを聞かざるを得ない。巨大な小人を使った残酷なショーを、僕とミリはたった二人の観客として最後まで見届けた。
最後に東は指先を二回三回すり合わせた。たったそれだけで、そこにあった痕跡は消失した。
「もう一匹……」
虫かごにはまだもう一人いる。そちらは女性である。彼女も逃げようとはしなかった。東の言う通り、本当に心が壊れてしまったみたいだ。東は指先で動かない彼女をつまらなそうに見つめると。
「そうだ」
と何事かを思いついた。にやにやして僕たちを見下ろす。
「どうしてキミたちがそんなゴミみたいになったか知りたいよねー」
虫かごを無造作に放り投げると、指先に女性を捕えたまま離れていった。このまま消えてくれと願ったけれど、そんなものはどこにも届かない。東は部屋の奥から何かを取りに行っただけである。彼女にとっては短く僕たちにとっては巨大な杖だった。
「これはねえ。『神秘の杖』っていうんだよ。これに「ちいさくなあれ」ってお願いすると、なんでも小さくできるんだよ?」
言うと東は指先の女性を先ほど同様、僕たちに見えるように近づけた。もう片方の手に握る杖に祈る。
「ちいさくなあれ」
杖が光り出す。指先の女性がどんどん小さくなっていく。ミリよりも小さく。僕よりも小さく。遂には見えなくなって。そして。
「あーん」
東はひょいと大きく開いた口に女性を放り投げた。
「うーん。小さくしすぎた。何も感じないや。……まあいいか」
先ほど口に含んだ微生物への興味は一秒もせずに失せたらしい。今。巨人の眼は僕たちに向けられている。僕もミリも震えることしかできなかった。大きな顔が近付いてくる。
「ねっ。こうなりたくなかったら、精々……。あ、そうそうっ!」
東はポケットに手を突っ込んだ。取り出したものを雑に僕たちのいる空間に落とす。ミリは咄嗟に僕を抱きながら隅っこに寄って落下物に備えた。
「これって……」
僕はミリの手の中で見た。僕が見惚れていた時計と、僕がポケットに忍ばせていた指輪。いずれも僕やミリよりもずっと大きくて、まるで巨人の装飾品のようであった。
「よかったでちゅねー。大事なものだけは返ってきまちたよー?」
嘲るように言う巨人を見上げる。その瞳は僕たちを人間扱いしていなかった。そっか、と呟く。どうやら僕たちはもう帰れないらしい。