不幸な少年:ぱーとわん
人が人へ抱く感情には当然種類があって、その中でも他人へいきなり好意的なそれを持つのは難しい。相手がどうも苦手な相手ならばなおさらだ。
遠目にその少女の姿を捉えて、彼は放心するように息をつく。
その点彼は案外珍しい、能動的に相手を判断するならば、例え第一印象が最悪でも取り敢えずは受け入れることが出来る人間だった。
だからこそ、彼は驚く。
何せ初めてだったのだ。
その姿を見た時からなんとなく、「合わないな」、なんて漠然とした反感を持ったのは。
「ーーーー」
周囲の喧騒がやけにうるさい。
世界は魚眼レンズを通したみたいに、彼女を中心に歪んでいく。
実に勝手なことながら。その、今も自分とは目も合わせないでいる少女を直に見てから、少年は声を発せないでいたのだ。
その理由も、きっとわからないままに。
「あれ、甲助だ」
「………冬桐?」
硬直する彼を現実に引き戻したのは、振り返る様にこちらを見るもう一人の少女の声だった。
それは見覚えのある顔で、聞き覚えのある声だ。
冬桐鹿波。
同学年のクラスメイトで、何より、少年の数少ない友人の一人である。
「どうしたのさ、こんな所で。学食に来るのなんて珍しいじゃない」
「ああ、普段はお金がないからね………今日は、ちょっと用事があって」
「用事って。この子に?」
「うん。お時間あれば、マキシマさんに」
知り合いの顔を見て彼の顔から緊張が薄れていく。言いながら、彼はついと視線を動かした。
冬桐もその視線に流されるように、対面する少女を見た。その表情には微かな呆れが浮かんでいる。
彼女は小さな声で「そりゃまたタイミングの悪い……」なんて事を呟いて、
「ほら、あんたもいつまで睨んでるのよ。人が来てるじゃない」
「………………………」
冬桐に顎で示されて、彼女はようやく顔を上げる。静かに揺れたのは、上等な墨で出来た清流の様な黒髪だった。
出かかった言葉は、喉を通り過ぎたあたりで崩れるように消えてしまう。
彼を見る少女の視線はやけに厳しい。
まるで因縁の宿敵との逢瀬を邪魔されたみたいな、苛立ちと不快感の混じった黒い瞳だ。彼は急かされるようにその目を合わせて、
「ーーーーー」
そして、その瞬間。
少女は静かに瞠目していた。
目の前の少年を視界に捉えてから、彼女はまるで、何か美しいものでも見たような。先程までの剣呑とした雰囲気なんて忘れ去ってしまうほどの激震を、確かにその胸のうちに感じていたのだ。
(これは、何?)
困惑する。
自分の中で起こっている感情の波が把握できない。それは少女にとって未体験の、解明不能の未知による衝撃。
それ故に、彼女は恐れる。
何せ初めてだったのだ。
初対面の誰かの瞳の中に、言いようのない「気持ち悪さ」を感じたのは。
「ちょっと、マキシマ?」
とっさに目を逸らそうとして、それはダメだと心の声に止められる。殺気を飛ばし合っていた友人が異常に気付いて発した声すら無視して、気丈にも彼女は彼を睨みつけた。
………もっとも。
その睨まれた方の男は、特に気にした様子もなく。
「まあ、要件は一方的なものだから」
警戒心からくる硬直は理性でせき止める。
少女は自分を支配した。
自分でもどうしてそんな事をしているのか分からないままに、目の前のモノが今から何をしても大丈夫だと心を鎮めてーーー!
「はいこれ、お釣り。マキシマさん無視して行っちゃうんだもんな」
「ーーーー」
まいったまいったと。
すっかり固まったセカイに、コイン同士がぶつかる音が大げさに響く。
困った様に笑いながら、彼は机の上に小銭を置いた。
五百二十円だった。
「………………………………」
「ん、あれ。もしかして間違ったかな………すまない。まだ食堂で働くのは慣れてなくて」
何やらおかしな空気になった事を察してか。彼は愛想笑いを止めて、神妙そうな顔で小銭に手を伸ばした。
当然というか何というか。
その手が普通に、釣り銭を回収することなんてなかったのだけれど。
「えっと、」
「………………………」
少年の手には、重ねる様に少女の手が置かれていた。
「……い、甲助。察してあげなさ……ぶふっ、っ、ううん。察してあげなさい」
「察する?察するって」
どういうことだい、と言いたげな少年の顔である。
察するって。
彼としては、もういろいろと察した上で、こうなっているのだが。
「………わかったよ」
全然分かってはいなかったけれど、彼は取り敢えず了承する事にした。というのも、二人の少女の様子の異様さに気づいたからだ。
片方は何かを堪えるように肩を震わせているし。
もう片方は、顔を俯けたままこちらを見ようともしない。彼が手を退けると、彼女はそのまま硬貨を摺り取っていった。
「………………あなたの」
「え?」
「………貴方の名前を、聞いておくわ」
「名前」
反芻して、彼は得心した表情で手を叩く。
確かに相手の名前は何回も訪ねておきながら、自分だけ名乗らないなんて失礼だよなーーなんてズレた事を考えながら。
「ああ、八路甲助。遅れたけど、初めまして」
何が嬉しいのか、それは物を自慢する子供みたいに無邪気な笑顔で。
「そう」
対する声には抑揚がない。
彼女は依然として顔を俯けたまま、ささやくように。
「覚えておくわ。『八路甲助』………ね」
小さな音を反響によって耳が捉える。
瞬間。
自分の名前が呟かれるのを聞いた為作の背中に、酷く空寒い電撃が走った。
「!?!?!!!!?!」
冷や汗が吹き出す。
意識が遠のく。
最初に感じた違和感は確信へ向かって淀みがない。
………やはり、あの感覚は勘違いなどではなく。
ましてや目の前の少女を嫌ってではない。
そう。あれはもっと動物的な、体の内からくる、生命維持へ危険を知らせるシグナルだったのだーー!
と、少年が気づいた頃にはもう遅い。
「何、が……」
何が起きているかなんかは、正直どうでも良い事だったのに、彼の口から出たのはそんなつまらない言葉だった。
ニの句は告げない。
あった筈の体力は、そも動力源からの力がカットされたのだから意味がない。
かろうじて見える世界は水飴みたいにうねって落ち着きがなかった。視界どころか脳みそ自体が回されているのか、震える足元は狂った振り子を想起させた
「はあ………またアンタの悪癖が出たわね。ホント短気。正体バレたらどうすんのよ」
「別に…、この程度ならただの貧血でカタがつくわ。起きれば記憶もなくなっているでしょうし、周囲も気付かない」
だから、機能したのは聴覚だけ。
「それが甘いって言ってんの!ただでさえ人が多いんだから、あんたの人形だってそう上手くは行かないでしょうに」
彼は自らの終わりを受け入れる様に。
「その時はその時よ。全員の意識を落とせばいいだけ」
まるで眠りに着くみたいにあっさりと。
「流石に警察沙汰になるわよ………大半の生徒 が意識不明って、訳わかんないし」
意識を消していったーー
「そんなことより、冬桐。彼を運んで頂戴………どうせ私とは、会うこともないでしょう」
「うえ、私がやるの?面倒くさいなあ」
ーーだから、それはきっと何かの間違い。
彼の人間としての意識は確かにそこで落ちたのだから、その後の記憶なんてのは幻と断じて他愛のない空虚なモノ。
とうに五感は死している。だから、これは誰かが見た景色。
椅子の下には、誰にも気づかれない様に配置された兎のぬいぐるみが置いてある。上等そうな毛皮で作られたそれは、主の身を案じる様に天を仰いだ。
その先にあった光景に驚いたのは、果たしてどちらだったのか。
………被害にあった彼からすればたまったものではないのだが。水晶玉の様な黒の瞳が写したのは、きっと、羞恥に薄く頬を赤らめる、一人の少女の姿だった。