第9話「果実」
脳を蒸らす太陽か、寝不足から来る疲労なのか。
はっきりとした原因は分からないが、僕は公衆便所の便器に嘔吐物をぶち撒けていた。
Xデイ−X is the day−第9話「果実」
――原因は分かっている。円だ。彼女と話した途端、体の芯から不快な感情が溢れ出した。その感情は寄生虫の様に僕の体を支配し、僕に花腰円という女性を拒絶させた。
純粋すぎる彼女の笑顔を、僕の体は受け付けなかった。
「はぁっ……はぁっ………!」
錆びれた公衆便所には僕の苦い吐息と外界を走る車の走行音とが入り混じり、それが僕の気分を更に悪化させた。
「うっ……おぇっ………!」
――最早今の世の中には僕や岡本、安原の様な人間しかいないのだと錯覚していた。皆が皆犯罪を犯し、それを隠す為だけに試行錯誤しているような……自分は今そんな世界に生きているのだと思っていた。
……違った。円がいた。
今の僕に彼女を正面から見据える資格は無い。……腐った果実は、他のそれに悪影響を及ぼさない様すぐに切り落とされる。今の僕がそれだ。僕と接する事で花腰円という果実まで腐らせる訳にはいかない。
「はぁ……ぁっ……」胃袋の中身を全て吐き出したのでは無いかと思える程一通り吐き尽くすと嘔吐感は止んだ。
これは「決別」だ。少なくとも自分自身が納得の行く状況になるまで彼女との接触は止そうと決めた。心から愛する女性との接触を、一切断ち切ろうと決めたのだ。それは15年……20年になるかもしれないが、これが二人の命を奪った人間に課される十字架だと僕は受け入れた。
蛇口を捻ると水が流れ出し、僕はそれで口を洗い流した。殺人から来る最悪な気分、それが原因の嘔吐、その副産物である口の周りの汚れを洗い流す事で、僕は少し気が軽くなった気がした。
水を止め薄暗い公衆便所から出ると僕は太陽の光の直撃を喰らった。暗く涼しい場所から一転した事で僕は一種の目眩の様なものに遭う。視界がぼやけ少しその場でよろめき、すぐ傍の木に右手をつき体を支えた。視界がはっきりするまでには少し時間を要す。
とは言え視界は次第に晴れ再び目からの情報を脳が認知し始めた。その情報で、目の前には誰かが立っているらしい事が見て取れた。視界が少しずつ鮮明さを取り戻してくるに連れ、その人間の姿形が浮かび上がってくる。
自分と同じ位の身長に黒髪のスポーツ刈り…その男は僕に向かって何か呼び掛けている。
「……ろ……やし…………」
「…………?」
「しろ……! おいっ、社! 大丈夫か!? 聞こえるか!?」
僕を呼ぶその懐かしい声は、確かに宮内拓海のものだった。