第1話「2008,9,20」
2008年9月20日。僕の人生を大きく変えた日の、前日。
Xデイ−X is the day− 第1話「2008,9,20」
その日の僕は、濁っていた。頭、胸、腕や足、そして指先まで。 体のあらゆるところが一日中、ひんやりとした感情に埋め尽くされていた。その心情を表すような暗い部屋で一人、何を考えるでもなくベッドに腰かけていると唐突な頭痛に襲われ、僕は静かに瞼を閉じた。
1993年9月21日。その日、僕は近所の公園で友人と夕暮れまで遊んでいた。何も考えず公園中を駆け回る僕。わずか4歳の時の話だ。服を泥だらけにしながらいつまでも時間を忘れて遊び続ける、そんな無邪気な子供がそこにはいた。満足がゆくまで遊び尽くしたらシャベルやバケツを握り締め、疲れなど全く感じない足で帰り道を駆け抜ける。この時に辺りの民家から漂ってくる夕ご飯の香りなんてのがたまらなく好きだったのを覚えている。
家の前まで着くと、一段上がる度に後からついてくるカン、カン、カン、という音をあたりに響かせながらアパートの階段を駆け上がる。もうここまで来ると家に着いたも同然だ。扉の前まで進み、元気な声と共に家の扉を開ける。
純真無垢なその黒目に飛び込んだのは、変わり果てた母と妹の姿だった。
「…………」
既に頭痛は止んでいた。ゆっくりと瞼を開き、静かな目でただ正面を見つめた。部屋のカーテンは閉じていて、テレビも灯りもつけていない空間は本当に真っ暗だった。左腕の、暗闇でも時針と分針が蛍光色に光る腕時計に目をやった。時計の針は深夜の11時50分頃を示していた。
「あと10分か…」
あと10分。あと10分で、ある者は歓喜の咆哮をあげるだろう。とある人々はまた、絶望の淵に立たされることだろう。僕は後者。それも筆頭だ。何しろ、自分の母と妹を殺した犯人の公訴時効があとたったの10分で成立してしまうのだから。
犯人の逮捕はもうとっくの昔に諦めていた。事件は発生後すぐに迷宮入りし、警察は一応は捜査を続ける形をとり続けたものの、事実上は手を引いていた。ならば自らの手で報復を…と考えたこともあったが、警察の手に負えない相手の正体を自分1人で探し出すことなど不可能に等しく、ただただ自分の無力さを痛感させられるだけであった。
犯人が憎い。まだ確かな思い出すら残せないうちに母と妹の命を奪った相手に対する憎しみは、僕が成長するにつれて大きさを増していった。両手を大きく開き、ベットに仰向けに倒れ込んだ。
母と妹を失って以来、僕は父との2人暮しを続けてきた。父も相当なショックを受けていたであろうことは間違い無いが、僕を不安にさせまいと僕の前では常に気丈に振る舞ってくれた。僕が物心つくまではそんな事にも気付かなかったが、とにかく父には感謝していた。
その父は普段ならこの時間には家にいるのだが、今日は僕が頼んで一日出回ってもらっていた。時効が成立してしまうこの瞬間は一人で過ごしたかったのだ。それに、父にも僕と同様の思いはあっただろう。結果的に、父も一人ホテルのような場所で過ごすことになって良かったのかもしれない。この日は、残された僕と父の運命を変える分岐点となる日なのだから。
もう一度瞼を閉じ、大きく開いていた両腕を顔の上に置いた。
色々な感情が頭の中をうごめいている。
母と妹の命を奪った犯人はどんな奴で、今この瞬間をどんな気持ちで過ごしているのか……
なぜ母と妹が殺されなければならなかったのか……
父はその時どんな心境だったのか……
生まれてからたったの四年間だったが、そのたった四年間で作った数少ない母と妹との思い出に浸りながらそんなことを考えていると、自然に涙が耳に伝ってきた。
仰向けになりながら泣くと涙はここを伝うのか、と思った。
時針と分針が重なった。