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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

中の人 作品 『これが私だ!!!?』

懺悔

作者: 鬼怒哀楽の中の人


はじめに

私はどうしようもない。私がなるのは私でしかない。この文章は私の一生を振り返って生きるために不必要だった感情や心に向き合うために書いた記録だ。自己完結の私の私のために書いたと言っておく。


この投稿の内容は同情が欲しい訳でも共感されたいと思ったわけでもない。自分にとって価値が無いものだ。もう、どうでもいい。だが、感情や記憶はどうしようもなく、私の足を引っ張る。



まず、言っておく、この文章は単なる自己分析と自己満足のために書いた過去の話だ。だが、私という歪な存在が居ると知って欲しい、誰かに話して次に進みたいと思ったので文章にして投稿する事にした。誰かの重荷になりたくて記載したのではない。他人の感情に引っ張られ躓く様ではこのどうでもいい話は読まぬことだ。


次に私の説明をしよう。(自分の話をするのは好きだ)私は実を言うと若い。まだ尻にカラが着いた…言葉が悪いな。まだ、咲ききれずにいる花の蕾の様に若く、まだまだこれからだ。(初々しいのは良いことだ)とにかく若いということだ。(…言葉が纏まらないな)

こんな感じで(くそ面倒だが)行くぞ!

私は普通の一般家庭と(あまり)変わらない家で育った。(?)私の家は父・母・父方の祖父母と弟と私の家族構成だ。(ほら一般的だろう?)家族の仲は最悪。父方の家族と母との仲がダメだった。(どうしようもないほど)それで父と母との仲も悪くなってた。(後から知ったんだけど、あまりにも信じられない事に恋愛結婚らしい まぁー、だから私と弟が産まれたんだけど?)

物心がついた時、家の中は喧嘩が絶えなかった。ご近所さんにもおそらく丸聞こえな位、うるさかった。

私が小学3年ぐらいだったかな?自宅の敷地内に自宅と別に車庫(民家?倉庫?)があるんだけど、そこの2階が生活できる様に整えてあるんだよ。(整えられた理由がややこしいし私が産まれる前の話だからここは省かせてもらう)母が弟と私を連れて別居した。

まあ、そこで母対祖父母や親戚とのイザコザがあり、


私が小学5年の時、小学校に行ったら児童相談所にあずけられた。どれぐらい居たかわからない。(そんなに居た訳じゃないとは思うけど) 離婚した。

正直、ホッとした。家族の仲が最悪と言ったが子供としては可愛がられていたと思うし(特に祖父母から)、注いでくれた愛情も本当だと思う(ムシャクシャするしケッって感じだけど、絶対に認めるつもりは無いが母)。父はどちらかというと物を与える事が愛情の表現方法だと思っている。私は父の事は人の良いただ優しい人だと思ってる(コッチもムシャクシャするけど)。

私はかわいそうだと言われる子供だとは今も昔も思ってはいない。

ひどい人はもっと酷い。だから「これくらいで済んでまぁー良かったのかな。」と思ってる。


これは愚痴として受け止めて欲しい。

(私はカウンセラーと話した事がある。でも明確に精神科を受診した訳ではない。)私は何らかの精神的な病気なんじゃないかと思う。緊張したら指先がどうしても震えるし、あんまり酷いと言葉が出てこない時がある。小学生時代の酷い時は片仮名の「ヌ」と「ノ」が出てこず、「ヌ」と「ノ」を忘れていた。(過度のストレスで記憶障害になってたのかな…)平仮名の「ぬ」と「の」は何とかわかっていたけど、こんな感じで記憶の混乱が小学校時代に見受けられた。また、人格的なもので学校ではとにかく大人しく静かにしている方で家では怒りやすく弟にあたりやすくなっていたと思う。今でも弟には申し訳なかったと思う。本当に申し訳なかった!言い訳させてもらうと全て小学生の時の事だった。今思い返せば自分より弱い立場の弟にあたって少しでもストレスを無くそうとしていたんだと思う。それくらい切羽詰っていたし、無意識に私は母を怖がって、いたんだと思う。


「母が私達の事をどう思っているのか?」今でもわからない。「あの時の母は本当に私達を守ろうとしたのか?」私は母と交流を持つようになっても…仲良くなるにつれわからなくなる。いや、わかりたくないのかもしれない。「守られているつもりが真綿で首をジワジワじっくりと絞められていたのではと?」それを昔の子供だった私は身を守るため見ない様に見えない様にしていたのではないか?「嫌、むしろ心が壊れる事を望んでいたのではと?」嫌な方に想像してしまう。母には違和感があった…解いたら心が暴れ狂いそうな疑惑が多くある。話を美化したり盛り付けたりはしていない。憶測はあるが事実に基づき(私の記憶と私の周辺の家族・親戚・ご近所の反応・昔を振り返り人に話してみて、他人からの反応(→中学の不登校になった時、世話になった先生に))話している。注意しておくと母、本人に疑問を直接聞いた訳では無いので悪しからず。あくまで憶測の話。


環境も悪かったと思う。物心がついたら喧嘩ばかりだったのも。小3ぐらいから同じ敷地内で別居するのも今思えば、なぜ?

母はその時もう頭がおかしくなっていたんだと思う。女1人で子供を2人養う覚悟、家を出てやっていく自身が足りなかったんだと思う。でも、そんなものは後付けでしかない。今更もしもは無い。


冷静に考え客観的に見て誰かが明確に悪かったわけでもないと思う。ただ、運が無かった。それだけ。そんだけ。


でも、やっぱり感情はどうしようもない。理解はしても時間が流れて記憶が薄れてもこの怒りはおさまらない。


母は…、母の家と父の家は考え方や価値観が違ったのだと思います。最初は些細な事だったのかもしれません。それで何かを明確に違えたんだと思います。


ココから少し私怨も混じります。

前の文に“交流を持つようになっても…仲良くなるにつれわからなくなってくる。”と書きましたが、それは高校の時の事でした。中学で不登校になり、「もういいかな。」と割り切る様になり(悟ったとも言う)、高校生活を送り、充実した部活生活!で、高校に入ってから会うようになって仲良くはなったけど、“親子になろうと努力はしたけど、理解はしようとした。こんな感じだけど自分を産んでもらった親だし、今、生きてる内しか親孝行は出来ない。”私なりに頑張って向き合って認めようと認められようと努力した。でも、結局、「努力しないと家族になれない。それは家族なのだろうか?」こういう形の家族の形もあって良い。そう、思っていた。今でも“なれるなら”あって良いと思う。“なれるなら”。結論から言うと友達にならなれた。だけど、決定的な事が起こった。高校卒業前に祖父が亡くなった。もう、寿命だったんじゃないかな…。一度、脳卒中で倒れて、それから痴呆が酷くなって、寝たきりになって、風邪を引いて、治らなくて、もう、免疫も多分、下がってたんだと思う。誠に恥ずかしい話、介護は祖母に任せっきりだった。最後は病院で家族と祖父の兄弟、姉妹が集まって看取った。

意気消沈してる時、母が会いたい。という事で本当は家に居たかったけど、出て来て会って、「家に来て線香をあげたい。」とか「祖父には何だかんだ世話になったから」とか言って、私が母に会うのに祖母も叔母も嫌な思いをしてるのに、よく、本当によく言えたね。

私は会うと今の祖母は母を刺しかねないのではと、父や弟以外に会おうものなら何か取り返しのつかない事が(喧嘩?乱闘?流血沙汰?)起きるのではと思い必死の思いで母を傷つけないように言葉を選んで説得し、思い留まらせました。私の居ない間に勝手に家に来ないよう話して、ホッとしてそれから悪夢を見ました。最初は和やかだったのに説得やなんやしていい感じで話をまとめられた。何だかんだちゃんと通じあえたと思った矢先に父の良い人?(恋人?)の話になって私が知らないという話をして、お土産貰って家に帰って、変な違和感は合ったけど良かったと思っていたけど、後日、電話で「あの人は誰だったの?」と私が私だと思われなかった。父の恋人だと思われていた。だから、あの時、父の話をしていたのか…疑われていたのか…娘がわからないのか…なぜ、父の恋人だと思うのか?

ハッキリ言って初めて母に殺意を覚えた瞬間でした。そして小さい頃を思い出しました。母は修羅か何かに魅入られてるのかと人の心を踏み躙って面白い事でもあるのかと本気で一瞬思いました。結局、あの時が私なのだと理解して頂けず、終いに親戚のお姉さんという事に娘が父の恋人を認めていないみたいな話の流れに。どうしようもない理不尽と屈辱でした。母は昔から理不尽でした。自分の思い通りにならない事が嫌いで…嫌な思い出です。


話の続きはまだあります。ここまでなら仕方ない。この気狂いが自分の母だと理不尽なら理不尽なりに諦めたのですがまたまた後日、母に呼び出されました。会うのが嫌だったのですが、誤解を解こうと奮闘して「親戚のお姉さんにご馳走した」だの(勿論、私です)ちゃんと「親戚からお土産もらった?」など聞いてきて奮闘した結果また、私が私じゃない人だと疑われ?もう、その時はとにかく早く離れたかったのですが少しくらいいいじゃないかと食事に誘われ、ハンバーグ定食?を奢って貰ってたんですけど、全く味がしませんでした。私と弟が別居時代に食べに連れてって貰ったお店でそこのハンバーグが本当に美味しくて好きだったけど、食べながら「もう、この店には来れないだろうな。」と母の何故かとてもニコニコしてコッチを見ている顔を見て思いました。もう、外食に恐怖を感じるレベルです。裁判なら私、圧勝だと思いました。(絶対にやりませんが…)ココに居る私も娘だと思われてるんじゃないか奢ってあげたとでも思ってんじゃないか疑心暗鬼に陥りました。


で、帰ってからは流石にもう、会いたくない。という心境ででも、電話には出たんですね。放置するとどうなるかわからないと思ってその日はご近所で小さなお祭りがあっていました。私は家に居て、最初は母から一緒にご飯食べに行こうと電話があって、私の携帯は無視してて、で、父の所に電話来て流石にもう、会いたくないので父に行って来てもらって断ってもらおうとしていたのに父の携帯を借りて母が私に電話してきて、もう、後は口喧嘩です。色々言い合って1番残った喧嘩での言葉が私が「母 から生まれてくるんじゃなかった!!」と言ったら母が「コッチだって娘は選べない」みたいな事を言ってもう、記憶も曖昧なんですけど、むしろ忘れた方がいいのですが…その時、強く(子供は親を選べないけど、親はおろせば済む話じゃん!)と激昂したのを覚えてます。それと後から考えた事なのですが、私と弟の間に実は産まれてこなかった弟か妹が居たらしいんですけど、その時は本当に「こんな親から産まれてこなくて良かったね」って思いました。


私が今でも心残りは私と弟の持ち物です。

私と弟は親が離婚する前、小学校に行こうとして、そのまま児童相談所に預けられました。だから、その時の荷物はランドセルと丁度、その時、雨が降っていて長靴を履いていました。だから、私と弟の持ち物は学校の道具だけです。

そのまま家に帰る日、祖父が迎えに来て「どちらの家がいい」と聞いてくれてありがとう。選ばせてくれてありがとう。

勿論、祖父の家に引き取ってもらって本当に良くしてもらいました。本当に心配かけました。

で、離婚して親権の調停があって親権をとろうと祖父が裁判にいったらしいです。私にはよくわからなかったのですが母は裁判所に来なかったそうです。まあ、そんな感じで離婚して家に帰って来たわけです。ランドセルと長靴持って、で、帰ったら別居してる家の中のもの全部、無くなってて私のお雛様も七五三の時に着けてた髪飾りもぬいぐるみも全部、私のお気に入りのバックも(勿論、子供が使うバックですよ?)弟の持ち物や弟が駄々こねて買ってもらってたおもちゃもですよ?あまりに酷くありません?

私、親戚の子の服着てたんですよ持ち物も善意で貰って、良くしてもらって、中学の時は本当に色々、迷惑かけたし、今も掛けてますけど。色々、融通してもらって、仲が良かった幼馴染(勿論、同性ですよ)とも関係がギクシャクして全く会えませんし、いっぱい傷つけてしまった。私は今でもご近所さんが怖いですし(昔を知ってるから)、引き篭りです。外に出るのが怖いです。でも、生きる上では人と関わらずに生きる事は難しいです。だから最低限、少しずつ前へ他人から見たら何に躓いてるのはわからないと思います。人より歩みは遅いです。それでも私は生きていきたいです。自分のペースを知って、今度こそ踏み躙られないように力強く生きていこうと思います。



怒りがおさまらず文章がまとまりませんでした。言葉として変な所もあるかもです。読みずらかったら申し訳ありません。

私怨タップリ配合の夜中のテンションで書いたものです!

なるべく爽やかに書いたつもりです。(ベタつき無し)



お付き合い頂き、ありがとうございました(_ _)!!

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