僕は僕を殺した
いまだに僕は自分と戦っています。強く生きよう。強く生きよう。強く生きよう。
2015年6月僕は僕を殺した。薬の大量服用だ。失敗した。
死ねなかった。でも、僕はもうとっくに死んでいたのかもしれない。
先天的ADHD、うつ病、パニック障害を患った僕の真実の話だ。
小学校のころから少し周りの子どもとは違った。
先生にも嫌われた。周りからはいじめられた。親には怒られた。
それでも普通で居ようと思った。普通になる努力をした。
小学校3年生のとき、うっかり学校のパソコンの電源をシャットダウンする前に消してしまった。先生は一方的に僕を責めた。
言い返さない僕はいいストレスのはけぐちだっただろう。
中学に入っても「それ」は変わらなかった。
いつの日か学校に行かなくなった。
でも、音楽の先生は僕を責めなかった。
僕は音楽が好きになった。
ミュージシャンになるのが夢になった。中学2年だった。
初めて将来に希望をもった。
お父さんが借金をつくった、1000万円。
お父さんはギャンブル依存性だった。
両親は離婚、貧しい生活になった。中学3年生だった。
高校は就職率が高い高校に入った。
行きたくない高校だった。
「空気が読めない」「何を考えているかわからない」
よく言われた。辞めたかった。
親に相談した。僕の意見は一ミリも届かなかった。
しぶしぶ学校に行こうとしたときに、呼吸が出来なくなった。
「パニック障害」そう診断された。
でも、3年間高校に行った。嫌なことばっかりだった。
同じ時期に、妹が中学でいじめを受けた。引きこもりになってしまった。公立高校は無理だと聞いた。
「僕が働かなければ」
そう思った。必死で勉強を頑張った。成績はよかった。就職なんてしたくなかった。音楽がしたかった。
自分が、犠牲になれば家族は喜ぶ。
僕は僕を「殺した」
感情なんてなかった。
優良企業に高卒で合格した。僕は嬉しくなかった。
でも、家族は嬉しそう。それでいいのだと言い聞かせた。
自動車免許を取れる年になった。取りたくなかった。
でも、僕の反対を押しきり僕は自動車学校に入れられた。
地獄だった。他の人が出来ることがてきなかった。教官の先生に毎日怒られた。限界だった。
僕は自殺未遂をした、今でも生々しい傷が右手首に残っている。
死ねなかった。2015年4月のことだった。
今度は「うつ病」と診断された。
精神科の先生は、冷たかった。「死にたくなる年頃ですから」
そう言われた。
うつ病の薬を飲んだ、気分が晴れることはない。
会社を辞めた。ストレスで吐血してしまった。
2015年6月、薬を大量に服用し、自殺を図った。
目を覚ましたとき、「また、死ねなかった」そう思った。
病院を変えた。心療内科だ。
「ADHDの可能性が高いです」そう言われた。
自律神経にも問題があるらしい。
すぐに治療が必要だった。
でも、家にはお金がない。
何よりも母が受け入れていなかった。
「一緒に死ぬ?」と聞かれたこともあった「いいね」と答えたこともあった。
先生が母を説得した。母は僕がどれだけ危険か理解した。
「ごめんね」と言われた。泣いていた。
母を泣かせてしまった。
僕は自己嫌悪に陥った。
自律神経の問題で長時間労働ができない、ADHDのため人が当たり前に出来ることができない。自分を責めた。
死ぬほど努力をしても、ダメだった。
僕はどうしようもないダメ人間です。社会のお荷物です。
先生に言った。
だけど、それがあなたの個性です。できることから焦らずやりましょう。
先生は言った。
母は好きに生きなさいと言ってくれた。
初めて言ってくれた。
小中高苦しめられてきたものがすこし楽になった気がした。
「だから、僕は強く生きよう。人より、強く」
世間は精神疾患や、発達障害についてまだまだ偏見や理解がありません。
最後に、みなさん辛いことはたくさんあります。悲しいときも、落ち込むときもだくさんあると思います。
そんなときは、「無理しないで下さい」
若僧が偉そうにすいません。
もう、頑張らなくていいときもあります。
命は大事です。綺麗事かもしれませんが、死なないで下さい。
少なくとも、僕はあなたの味方です。
大丈夫、一人じゃないから。
最後まで読んでいただき、誠にありがとうございます。
全て、僕の実話です。
それではまた。
理解をしてもらうのが難しい病気です。
しかし、理解者が居てくれたらとても楽です。
一人で悩まないで下さい。無理しないで下さい。
あなたは一人じゃないから。
偉そうにすいません。