5.
その夜、みなが寝静まったあと、アンジェロは大切なことを話したいと言って、ロザリオとジョヴァンニを近くに呼び寄せた。
「伝えなきゃいけないことがある」アンジェロが少し息をのんでから、ため息と一緒に言葉を吐き出した。「ピエトロが死んだ」
ジョヴァンニが目を閉じ、がっくりと頭をたれて歯を食い縛った。ロザリオは体の一部をちぎられたように呻いた。
「どっちの?」
「両方だ」
「どうして?」ロザリオはやっとのことでその言葉を絞り出した。
「それはおれがここにいる理由でもある」
アンジェロは説明した。それは今、この世界のあらゆる場所で繰り返されている不条理の物語だった。
「二人のピエトロはおれと同じ連隊の工兵部隊に配属された。当時、その連隊は湾曲地を包囲していて、鉄条網に囲まれた小要塞を攻略中だった。連隊長は味方に要塞目がけて無謀な突撃を強いていたが、一向に効果が上がらなかった。みんな鉄条網の前で機関銃にやられたんだ」
アンジェロは続けた。癇癪を起こした連隊長は(アンジェロはその男をゴキブリと呼んだ)一人の工兵にペンチを渡して単身鉄条網を切りにいくよう命じた。
ロザリオやジョヴァンニ、そして毛布に包まり話だけ聞いていたカルロにもそれの意味するところが分かった。よく晴れた真昼の十一時、遮蔽物のない無人地帯、機関銃の射程内で一人鉄条網を切ってこい。それは自殺攻撃だ。もう何度も見ていたし、参加もさせられた。
「一個中隊が全滅したのにゴキブリはそれでも満足しなかった。敵の小要塞には機関銃が二丁も備えつけられていたし、十字砲火できる塹壕と迫撃砲もあった。もし鉄条網を切りにいけば確実に殺られる。その工兵はずっと渋い顔でゴキブリの命令を聞いていた」
ずっと黙っていたカルロが初めて口をはさんだ。
「その工兵には子供がいたか?」
「誰だよ、あんた」アンジェロが不審そうに言った。
ロザリオが答えた。「カルロ・イッポリト。おれの戦友だ」
アンジェロは続けた。子供は二人いた。五歳と一歳七ヶ月。下の子は戦争中に生まれたからまだ一度も抱いたことがなかった。その工兵は家から送られた子供たちの写真をみんなに見せて自慢していた。アンジェロも見た。半ズボンに毛糸の靴下をはいた少年とふわふわした服にくるまれた赤ちゃんの写真だ。
「そいつは家に帰りたかったんだ」カルロが悲しげに断定した。
「そうだ」アンジェロが言った。「絶対に生きて帰るって言っていた。でも、ゴキブリの命令は絶対だ。逆らったら銃殺される。だが、命令どおりに動いても殺られちまう。どうしようもなかったそのときだよ。ピッピとピッポが名乗り出たのは」
二人は自分たちが代わりに志願すると言った。だが、強情な連隊長はあくまで子持ちの工兵にこだわった。自分の意志を一兵卒の進言で曲げるつもりはなかったのだ。そして、その工兵が死んだら二人の番だと命じた。逆らったらこの場で銃殺するとつけ加えるのも忘れなかった。我慢できなくなった二人は連隊長に真っ向から反論した。
「ピッピは法律で、ピッポは例の科学的手法でゴキブリを完全にやりこめてやったんだ。ゴキブリはぐうの音も出せず、ずっと黙っていたよ。ピッピは陸戦法規を全て暗記していたから、ゴキブリ連隊長に部下の兵卒を裁判なしで銃殺する権利がないことを証明してみせるくらいお手のものだった。ピッポはもっとすごかったぜ。あいつは敵が撃ってくる機関銃のリズムを分析して、冷却機構の弱点をつかんだんだ。安全な塹壕から挑発して機関銃を連射させれば、三分十七秒後には銃身が焼けついて撃てなくなることをつかんだ。工兵隊の作戦に塹壕からの効率的な援護射撃を組み込めば、鉄条網を切るのに十分な時間を稼ぎだせることを証明したんだ。二人のピエトロは完璧な作戦を立案したんだ。おれにはピッピとピッポが宝石で糸を紡いでるのが見えたよ。その糸をたぐっていけば子持ちの工兵もおれたち歩兵もみんな自殺突撃から解放されて助かるはずだったんだ。それを……あの、ゴキブリは……」
連隊長は自分のピストルを抜くと、ピッピとピッポと子持ちの工兵を虫けらのように射殺した。そして演説した。アンジェロはそれを一字一句違えずに覚えていた。
諸君は勘違いしている。前線において観察、分析、考察は指揮官の仕事であり、諸君らには一切許されていない。この見当違いの兵卒は――そういいながらゴキブリは倒れているピッピを足蹴にした!――指揮官に対し正義とは何かを説こうとした。正義とは忠誠と勝利である! 兵士たる諸君に市民権はない。諸君の正義は人道と法律ではなく、ただ忠誠と勝利、忠誠と勝利のみなのである。さらに、このうぬぼれた兵卒は――そういいながら今度はピッポを足蹴にした!――指揮官に対し作戦とは何かを説こうとした。言語道断である! 諸君は休暇もなくずっと前線で任務に就いている。それは真に偉大なことだが思いあがってはいけない。前線の諸君が聞くことのできる機関銃の発射音は目の前の一丁だが、司令部の連隊長は電信装置を通じて、受け持った前線全てで発射される機関銃の銃声を聞くことができる。つまり、兵士よりも大局を見ることができるのだ。諸君の義務は戦うことであり、作戦を論じることではない。それを勘違いしてはならない。そして、最後にこの工兵は――そう言ってゴキブリは生まれてきた娘に一度も会わずに戦ってきた工兵を足蹴にしやがった!――この男がもっとも悪い。家族に会いたいのはみな同じなのだ。それを理由に一人が軍務を拒否すれば、たちまち軍紀が弛緩し、ひいては軍全体の溶解を引き起こしてしまう。だが我輩は諸君を信じている。我輩はイタリア王国に忠誠を誓う諸君の勇気に対する信頼が一部の例外のためにゆらぐことは断じてないと宣言しよう。
連隊長が一通り論じきると、アンジェロは連隊長を虫けらのように射殺した。六発撃ちこんだが誰も止めなかった。
「観察、分析、考察は禁止されたがゴキブリ殺しは禁止されなかったからな」
そこまで言うと、アンジェロはぼろぼろと大粒の涙をこぼした。ロザリオも泣いた。ジョヴァンニも泣いた。石の床に血が出るほど強く爪を立てて、声を出さずに泣いた。
また世界が失われた。
二人のピエトロ。
ピッポとピッピ。
ピエトロ・ポレロとピエトロ・ディ・ピエトロ。
永遠に失われてしまった。
少年時代に煌いていた世界とともに永遠に失われてしまった。