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ロザリオ・ロゼッティ  作者: 実茂 譲
4/9

3.

 丘の上は監獄というよりは小さな荘園に近かった。南向きのバルコニーがある屋敷、農具の修理小屋、石垣で四つに区切った果樹園の段丘、オークの木陰に置かれたテーブル。

 だが、レモン鉢置き場には真新しい棺桶が並べられていた。修理小屋には寝袋とライフルが積み重なっている。木陰のテーブルにはティーポットではなく、タイプライターが置いてあった。タイプされた報告書は山と積み上がり、その頂上には重石がわりの自動拳銃が鎮座している。風が吹くたびに報告書がめくれて銃の尻をひっぱたいていた。

 ローマ時代の城壁が円錐屋根の監獄塔から果樹園のほうへまっすぐ伸びていた。ちょうど五十人が並べる高い壁で、心臓の高さに残った弾痕が壁の使用法を物語っていた。歴史的建造物をこんなふうに使っても文部省は文句を言わないのだろうか? ロザリオはふとそんなことを考えた。

 ロザリオはすぐにも銃殺されるのではと思っていたが、その疑念は間もなく晴れた。監獄塔から五十人の囚人がぞろぞろと現れて、壁の前に並ばされたからだ。彼らが先に銃殺され、その後釜としてロザリオたちが監房に押し込まれる。そして一週間後にはローマの壁に並ばされるのだろう。

 壁に並ばされた男たちは無関心の中に沈んでいた。彼らもロザリオと同じだった。塹壕でオーストリア兵を殺し、その倍の数の戦友を看取っていくうちに死を与えることや受け止めることに慣れてしまった人間だった。

 大佐の肩章をつけた刑務所長が壁に並ばされた男たちを一瞥した。すでに銃殺隊が配置についている。刑務所長は書記を相手に甲高い早口でしゃべり始めた。

 刑務所長が処刑報告をえんえんと口述筆記させている間、脱走兵たちは自身と法律の関係に折り合いをつけようとしていた。法律は人を守り、悪をこらしめる。もし子供が悪漢にキャンディをとられたら、お巡りさんが悪漢をこらしめてくれる。自分たちは銃殺刑を宣告された。子供のキャンディをとったことでお巡りさんにこらしめられ、銃殺されるのだ。でも、待てよ。キャンディはどこだ?

 そこにいた全員がその疑問を共有し、一斉にポケットをまさぐった。キャンディはなかった。ずっと会えなかった家族や恋人との時間を過ごすためにキャンディをなめてしまったのだ。

「おれたちは軍から時間のキャンディを盗んだ罪により処刑される」

 ロザリオが結論をしめくくったそのときだった。

「女の子だあ!」プレスティフィリッポが歓声をあげた。「ねえねえ、こっちむいてよ! ねえってば!」

 みなプレスティフィリッポが狂ったと思った。だが壁に並ばされた男たちのなかに、すらっと背が高く妖美な顔立ちの女性兵士が確かにいた。山猫のように吊りあがった大きな眼、オリーブ色の軍用セーターは豊かな胸ではち切れそうになっている。色めき立ったプレスティフィリッポは女性兵士目がけて突進しようとし、その度に憲兵が突き出すライフルの銃床で列に押し戻されていた。

 兵士の一人がこの島の気候は蜃気楼の発生条件を充たしていないとぶつぶつつぶやいた。ロザリオは女性兵士を一目見るなり愕然とした。

「アンジェロ!」

 ロザリオは横にいたジョヴァンニの肩をつかんだ。

「おい見ろ、ジョヴァンニ! アンジェロが立たされてる! おい、アンジェロ! アンジェロ!」

 生き埋めにされかけている人間を目覚めさせようとするような必死の呼びかけで女性兵士が無関心の渦から引きずり出された。女性兵士はロザリオたちに気づくと、信じられない様子で目をぱちくりさせた。

「ロザリオ! それにジョヴァンニもか!」容姿と同様に中性的で美しい声だった。「ちくしょう、なんてこった」

 ロザリオは目をそらしそうになった。最後に会ったのは十九のときだ。あのときのアンジェロは漆黒の美しい髪をしていたが、今では肩にかかる髪は潮にべたつき、使い古したホウキのようにボサボサになっていた。

 アンジェロは苦笑した。「できればこんなところで会いたくなかったな」

 その微笑がロザリオに向けられたと知ると、プレスティフィリッポが喚きたてた。

「ずるいよ、ロザリオ! ぼくが先に声をかけたのに!」

 アンジェロはプレスティフィリッポに軽蔑のまなざしを放ちながら、

「おい、ロザリオ。そのクソバカ野郎に教えてやれ」

 ロザリオは鎖を引っぱってプレスティフィリッポを列に引きずり戻すと、宣教師のような態度で言って聞かせた。

「プレスティフィリッポ。よく聞くんだ。あいつの名前はアンジェロだ。胸が大きくて女みたいな顔してるが、れっきとした男だ。股にはお前と同じものがぶらさがってる」

「そんなまさか! あんなにかわいくておっぱい大きいのに」

「そういう奴なんだ」

 プレスティフィリッポは泣きそうな顔で天を仰いだ。「うう、ひどいよ、神さま」

 ロザリオ、ジョヴァンニ、アンジェロの三人はプレスティフィリッポを無視してお互いの情報を交換した。

「お前は大丈夫だと思ってた」ジョヴァンニが悲しげに言った。「軍はお前まで徴兵したのか」

「けっこう頑張ったんだけどな」アンジェロは肩をすくめた。「プライドを捨てて女に化けたんだ。髪を伸ばしてスカート穿いてタイピストの仕事まで見つけたんだぜ。でも、一杯ひっかけた帰りに教会の壁に立ち小便した現場を押さえられて、そのまま戦地大隊に放り込まれた」

「どうしてここに?」

「おれはもう銃殺される」アンジェロは話題を変えた。

 それは一目瞭然だった。だが、アンジェロの口から改めて聞かされるのは辛かった。アンジェロはサッカーのローカルルールを聞かせるみたいに淡々と説明した。

「この刑務所の定員は五十名だ。毎週五十人ずつ新しい囚人が補充されて、古いやつから五十名ずつ銃殺される」

「おれが代わるよ」ロザリオが言った。

「どのみち一週間後には殺されるんだぜ」

 アンジェロは苦笑し、身がわりになるくらいなら遺言を聞いてくれ、と頼んできた。

「おれの人生ったらねえよなあ。こんな体で生まれて不便なことだらけだったし最後は銃殺されるんだぜ。でも、おれを産んでくれたこと、母さんには感謝してる。感謝しきれないよ。生きるってのは最高に楽しかったよな。皮肉でも負け惜しみでもない。辛いことと楽しいことを差っ引いたら、やっぱり人生は素晴らしかった」

 将校たちは議論を始めた。書類が交わされ、ロザリオたちの身分は脱走兵から囚人へと変化しつつあった。刑務所長は憲兵から渡された名簿を手にすると、乗馬鞭でサーベルの吊りバンドを軽く打ちながら新しい囚人たちの点呼を行った。刑務所長の口は子供服のボタンホールみたいに小さかったが、機関銃のようによくまわった。点呼の間、脱走兵たちは気をつけの姿勢をして腿をつねり、噴き出すのをこらえなければならなかった。刑務所長があまりにも早口なものだから、名前と名字が一つに融け合ってオッペケペーと聞こえてしまうのだ。この所長にかかれば、グイード・オットレンギもチェーザレ・ロッセリーニもロザリオ・ロゼッティもみな全てオッペケペーになってしまう。ロザリオは自分の名前が呼ばれたか自信がなかったが、とにかく返事はした。脱走兵たちは刑務所長の正気を疑ったが、刑務所長はこの仕事において極めて有能な男だった。彼は三十秒足らずの点呼でカラブリア出身の一等兵マルチェロ・コスタが姿を消したことに気づいたのだった。

「なぜ四十九人しかいない? マルチェロ・コスタをどこへやった?」

 刑務所長の口ぶりには、まるで脱走兵たちがマルチェロ・コスタを食べてしまったかのような響きがこもっていた。

「彼は自殺しました」

 ロザリオは明瞭かつ簡潔な軍隊式の返答で、仲間の名誉を人食い疑惑から守った。ロザリオはカラブリア出身の兵士がどんなふうにして命を絶ったのか口頭とシャツに手を突っ込む動作で説明したが、刑務所長はそのドラマチックな最期を容易に信じようとしなかった。

「なぜその男は銃殺されるまで待てなかったのだ?」

「その兵士の口癖は『なにもかもうんざりしたぜ』でした。おそらくうんざりしたのでしょう。加えて発言するなら、あの海は死ぬのにもってこいの美しい海でした」

 刑務所長は口をすぼめ、ボタンホールはピンホールサイズにまで縮んでしまった。彼が陸軍省から受けた命令は、監房を常に五十人の囚人で満たすことだった。彼は命令を忠実に遂行するため誰か一人に処刑猶予を与えなければならなかった。こうして官僚機構の帳尻合わせと刑務所長の気まぐれからアンジェロが壁の前から引っぱり出され、ロザリオたちの集団へ放り込まれた。

「確かに海は美しい。そして素晴らしい」

 刑務所長は持ちうる忍耐の全てを費やし、大学教授のようにゆっくりと語った。

「海はそれ一個で世界として完成されていて、生物を構成する元素の全てが海に含まれている。海は生命の故郷なのだ。人が海に恋焦がれるのはそのためだ。諸君は、願わくば顔を空に向けたまま海に沈み、エメラルドグリーンの中で死にたいと思っているのだろう。だが、それは叶わない。よく見ておきたまえ。これから起こることこそがきみたちに残された唯一の未来なのだ」

 ドラムが細かく打たれ、ロールが始まる。

 銃殺隊長が号令した。

「小隊整列!」

「装填!」

「狙え!」

 壁に並ばされた男たちは目を閉じ、神に祈った。

 どうか、残していく家族をお守りください。

「撃て!」

 ロザリオの目は発射された銃弾以外の全てを静物画家のように捉えつくした。

 壁を背にして立つ四十九人の脱走兵。

 その心臓をライフルで狙う銃殺隊。

 微動しない陰影。

 生から死へと変じていく人間の質感。

 身体を離れた生命が硝煙よりも高く昇る。

 そして、海へ帰る一瞬のきらめき。

 それは美しかった。だが素晴らしくなかった。

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