表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ロザリオ・ロゼッティ  作者: 実茂 譲
2/9

1.

 一九一七年七月二十三日。

 それは大空とアドリア海が青さを競いあう夏らしい日だった。

 水平線の向こうから巨大な雲のかたまりが現れた。ずっと南で生まれた若い雲だ。

 雲は南風に運ばれ、人口一万人の孤島を少しずつ影に浸していった。大きな入り江、遠浅の海、閉鎖された遊歩桟橋、白い砂浜、帆かけ漁船の連なり、白い街路とオレンジ色の瓦屋根、果樹園と蔓草のアーチ、羊がちらばった牧草地、蛇行した上り道、丘の上にある監獄の円錐屋根。

 三十分後、小さな島の全てがすっぽり影に包まれた。島の住民は束の間の涼しさにほっと息をついた。雲はそのまま北に広がる静かな海原へ流れていき、島は少しずつまばゆい輝きを取り戻していった。


 雲とすれ違うように一隻の貨物船が現れた。本土から来た船だ。貨物船は風のない海の上で嵐の到来を恐れるかのごとくゆっくり進んでいた。実際はどこに潜んでいるとも知れないオーストリアの潜水艦を警戒し、エンジンの音をあまり立てないようにしていたのだ。貨物船はそのままドルナ島へ向かって南下していく。一時間後、貨物船は島の西側を大きくまわりこんでエンジンをとめ、慣性の力だけで南の入り江に滑り込んだ。船長は入り江の真ん中で投錨するよう水兵たちに命じた。錨が海底をひっかけると、貨物船の『積荷』たち――銃殺刑を言い渡された脱走兵五十名が船倉から現れた。全員が徽章のない軍服を身につけていた。彼らは港町の裏手にある丘の監獄に連行され、そこで刑を執行される。そのために航海をしてきたのだ。前甲板に集められた彼らは兵隊暮らしで身についた機敏な動作で方陣形に整列しブリッジを見上げた。彼らを護送する任を受けた大尉がブリッジに現れたからだ。

「このなかで泳げないものは手をあげろ」

 大尉の声が真夏の気だるい空気を裂いて聞こえてくる。誰も手を上げなかった。大尉はほっとした。もし泳げないものがいたら、その場で銃殺するよう通達されていたのだ。この大尉は妻を愛していたし、目に入れても痛くない娘が二人いた。脱走兵の半分は二十歳前で、残り半分は妻子がある三十代の予備役だった。

 大尉はデッキを埋め尽くす脱走兵たちに告げた。

「諸君を港町へ輸送するためにボートが使われることはない。全員服を着たまま海に飛び込み、町外れの遊歩桟橋まで泳げ。泳いで逃げることは考えるな。常にブリッジから機関銃で狙っている。飛び込んだら二十五名ずつ方陣をつくり、二つの正方形となって平泳ぎするのだ。遊歩桟橋で諸君の身柄はドルナ島憲兵隊に引き渡される」

 誰かが質問の許可を求めた。

「服はいつ乾かせるんですか?」

「歩いているうちに乾く。道はオーブンみたいに熱いはずだ」

 海と同じエメラルドグリーンの眼をした若者――二十一歳のロザリオ・ロゼッティが手をあげた。

「海に潜って魚を見てもいいですか?」

 大尉は無視した。脱走兵たちは五人ずつ舳先から船べりを乗り越え、両手を空に投げ出しながら飛び込んだ。その度に派手な水柱が上がる。ロザリオの番が近づいてきた。幼馴染のジョヴァンニとあんず色の髪の美男子プレスティフィリッポが一緒に飛び込むことになった。

 三人で船べりをまたぐと、大きく息を吸ってエメラルドグリーンの海へ飛んだ。ロザリオは少しでも多くの空気を道連れにしようと両手を左右にひろげた。身体が水に叩きつけられる。空気が海に引き込まれて細かい気泡となり日焼けした肌をくすぐった。目を開けると、ジョヴァンニが体を魚のようにくねらせながら彼より深いところまで潜っていくのが見えた。体を棒のようにして飛び込んだプレスティフィリッポも深いところまで潜っていた。ロザリオも体を曲げると頭を海底のほうへ向けて水を蹴った。

 エメラルドグリーンの海を三人は並んで泳いだ。明るい白砂に水面で分解された陽光が降り注いでいた。三人は砂に隠れるカレイを捕まえようとしていたが、そのうちがっしりした体躯の、先に飛び込んでいた大男が三人のそばまで潜ってきて、しきりに上を指差し、はやく水面に上がるよう促した。三人とも首をふった。まだ息苦しくなかったし、プレスティフィリッポが藻に包まれた宝箱のようなものを見つけたので三人がかりで引き上げてみたかったからだ。

 機関銃から連射された弾が白い泡を引きながら、彼らの目の前を通り過ぎた。何人かは驚いて泡を吐き出した。潜っていた全員が慌てて水をかき、浮上した。

「大尉がカンカンだ」がっしりした大男が不平がましく言った。「お前らが脱走したと思ったんだよ」

「海の底を眺めたかったんだ」ロザリオは掃除をサボってサッカーをした小学生みたいに悪びれもせず言った。「あんたも見ただろ?」

「今度は威嚇じゃすまないぞ」

「かまわないよ。どうせ銃殺刑だもん」プレスティフィリッポがぽそっと言った。

 がっしりした大男カルロは今にも噛みつきそうな顔をした。三十六歳の彼は故郷に妻と六人の子供を残していて、簡単にあきらめることができなかった。

 横で立ち泳ぎしていた男が妥協案を出した。

「あと五十メートル泳いでから潜ろうぜ」

「どうして五十メートルなんだ?」

「あの機関銃は旧式だ」立ち泳ぎ男は元機関銃兵だった。「おまけに水兵たちは照準を調整してなかった。あれじゃクジラが目の前に浮かんでいても命中しない。五十メートル先を泳ぐ人間の頭を撃つなんて論外だ」

 脱走兵たちは大尉の指示通り、二十五人ずつの方陣隊形で泳ぎ始めた。水の中ということもあり隊形を維持するのに少し手間取ったが、慣れると簡単だった。目の前の尻のことだけを気にして泳げばいいのだ。

 ロザリオ、ジョヴァンニ、プレスティフィリッポ、大男のカルロ、元機関銃兵は二番目の方陣の最後列を平泳ぎで進んでいた。五十人の脱走兵は頭を上げたり下げたりしながら手と足を交互に動かし、着衣の中で渦を巻く水をうまくさばいて器用に進んだ。目指す遊歩桟橋は二百メートル先にあり、眩く光るガラスドームが目印だった。

 海は冷たくて気持ちよかった。水を大きく掻いてから力をぬくと、浜へ寄せる潮流が兵士たちの体を前へと運んでくれた。ときどきクラゲにぶつかったが、クラゲは彼らを刺すようなことはせず、ただゼリーのような体でふんわり肩をくすぐった。脱走兵たちはカタクチイワシの大群の上を静かに泳いでいった。

「そろそろ五十メートルだ!」左のほうを泳ぐ元機関銃兵が叫んだ。

 脱走兵たちは一斉に潜り、カタクチイワシの大群へ頭から突っ込んだ。イワシたちは降りそそぐ陽光を銀の腹に閃かせ、統一的な光の動きで脱走兵たちの目を楽しませた。左右に分かれて泳ぎぬける銀色のまばゆさ。まるで流れ星のなかを泳いでいるようだった。

 脱走兵たちは水面から顔を出した。遊歩桟橋まであと二百メートルもなかった。桟橋では憲兵隊が彼らを待ち構えている。憲兵の持ち物――つばを折り曲げた二角帽の留め金やカルカノ銃に装着された銃剣が太陽の光を跳ね返していた。

 五十人の脱走兵は海を見納めるためにもう一度潜った。今度は底一面に水草のベッドが広がっていた。ロザリオとジョヴァンニは微笑んだ。海育ちの彼らは水草に隠れた小魚やエビをオリーブオイルの空き瓶へ追い込む方法を三十通りは知っている。

 そろそろ海面へ上がろうかと思ったそのとき、椿事が起きた。

『なにもかもうんざりしたぜ』が口癖だったカラブリア出身の兵士が隊列を離れたのだ。彼はみんなから見える位置まで泳いで仲間のほうへ振り返り、水中で出来うる限りの礼儀を尽くして別れの挨拶を送った。そして、シャツの中に手を突っ込み、ためらうこと無く自分の心臓を握りつぶした。

 兵士は真っ赤な泡を吐きながら、海草の絨毯の中へ沈んでいった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ