岡山の月
彼が逢いに来てくれたあの帰り際‥
切ない瞳を投げ掛けてきた彼の姿が脳裏に焼き付き 私の心は晴れなかった。
逢いたさは募るばかり、この気持ちをどう抑えらばいいのだろう。
何をしていても彼を思わぬ時などなく、完璧に重症。
あの日、新幹線の時間までの儚い恋の幕開けは‥
注文をとった女将が、そそくさと出て行った後だった‥
彼は私を凝視したかと思うと、
「ゆき、時間が経つのがこんなに早いとは思わなかったよ」
そう言って俯き黙ってしまった。
「そうですね。あっという間に終わってしまいますね‥」
俯いていた顔を上げ
「ゆき、俺‥」
彼の頬には一筋の涙が光っていた。
「帰りたくないよ。ゆきと このまま一緒に居たい」
私は、何をどうすればいいのか、どう応えてよいのか分からず
「孜さん‥、そんなこと言わないで。孜さんが、そんなことを言うと、私は、どうすればいいのか分からなくなります」
「ごめんね、ゆき。本当に済まない。どうかしてるな、俺は」
「私だって‥母さえ居なけりゃ、孜さんの傍に行きたいんです」
「ごめんよ、ごめんよ。ゆき」
「親不孝は出来ないと思って‥」
「そりゃそうさ。お母さんが悲しむことはしちゃいけないさ!!ゆきに逢いたくなったら逢いに来るさ」
「うん」
私たちは、あれほどまでに楽しみにしていた目の前に並べられた鰻すら口に出来ないほど別れを惜しんでいた。
夕暮れ、彼は新幹線へと乗り込んだ。
私は、その彼の乗った新幹線に飛び乗ってしまいたいそんな思いに駆られた。
別れ際の切ない愛しい彼の瞳は、私を益々 彼を虜にしたのだろう。
この時のことが思い出され
思い出せば思い出すほど‥彼に逢いたくなるのでした。
秋も深まり あちこちで祭りのお囃子が聞こえ出した。
『ゆき、来月も会えそうだ!!視察旅行で岡山に行く。突然の話で、僕も びっくりだよ』
『えっ、岡山へ お仕事ですか?岡山は、先日行った赤穂と隣合わせです。逢えるといいですね』
『今回の視察団は、それぞれ自分の仕事を持っている方ばかりなので、たぶん、現地集合になると思うんだ』
『そうですか、楽しみに待っています』
そして、10月の末。
私は、彼が乗っている新幹線に飛び乗った。
一駅だけの旅でしたが‥
なぜか、スリル満点。
「ゆき、本当に不思議だよね。僕は、これまで出張で西方面は、ほとんどなかったんだよ。ゆきと知り合ってから‥西日本への話が次々とあるんだ〜本当に不思議だ」
と、彼は陽気に話した。
「神さまが仕組んでくれているのかもね。そうなら嬉しいなぁ〜」
「でも‥今から明日の朝までしか ゆきと居られないんだよ」
「それで、十分ですよ。あなたは遊びで来てるんじゃないのですから」
「うん、明日の朝、みんなが来るまで ゆきをずうっと抱き締めていたいよ」
一駅の会話は弾む前に到着です。
私たちは、駅前でレンタカーを借りて倉敷美観地区に行った。
倉敷には数々の思い出がある。
一番最初に訪れたのは高校時代のクラス見学旅行。
と言っても日帰り旅行で二時間の電車の旅でした。
早朝、母はお弁当を拵え 私に持たせてくれた矢先、
中庭の芝生の上で パターの練習をしていた父が、素振りのクラブが頭に直撃し脳震盪で倒れた。
母は、そのまま救急車で運ばれたのだ。
父は、私に
「いってらっしゃい」
と一言残し、救急車に乗り込んだのだった。
私は、母のことが気が気じゃなく後ろ髪を引かれながら電車に乗った。
当時は、もちろん 携帯もなく連絡を取る術もなく‥
心配で心配で。
その日の見学旅行は、一日中 ぼんやり倉敷の景色に同化していたような思い出がある。
帰りの倉敷の駅構内の公衆電話で自宅に電話をした。
電話口には母の元気な声がした。
良かった!!
そんな衝撃的な思い出もあれば、
写真部の男子に写真の被写体になって欲しいとせがまれ 渋々着いてきた美観地区。
また、美大生だった頃、ゼミの皆で来た美術館巡りの一泊旅行。
そして、妹の傷心旅行に母と三人で訪ねた雨の倉敷。
大阪で就職していた彼女は上司に恋をし、ボロボロになった心を癒すため地元に戻ってきた。
母と私は、そんな妹を倉敷の旅に誘った。
宿泊したアイビースクエアの青々した蔦が降り頻る雨に濡れ、
妹の涙が枯れることがなかったことを思い出した。
そんなことを彼是 思い出しながら
この日、私は、彼と腕を組んで歩いた。
白壁の町並みを抜けると掘りが見える美観地区のメインストリート。
世界の有名画家たちの作品が並ぶ大原美術館は日本でも屈指の名だたる作品が展示されている。
「孜さん、観賞します?」
「あぁ、ゆきが観たいだろうから、付き合うよ」
彼は、冗談ぽくそう言った。
私は、にっこり笑って足早に美術館へ入って行った。
「ゆきが回りたいように回ればいいよ。後から着いていくから」
「一緒に‥ね!!」
私は、彼の手を取って腕を組んだ。
お互いの知らない地では、どちらともなく大胆になれる。
ピカソ、グレ、モネ、モガに、ルオー、ゴーギャン、
「僕は、裸体に興味あるけど‥ゆきの好きな画家はいるの?」
「そうみたいだね、さっきから裸体画の前では立ち止まるもんね〜。孜さん、知ってるかしら?」
そう言って、彼を引っ張りユトリロの前に連れていった。
「彼は、呑んべぇだったようだけど‥素敵な景色を描くのよね〜」
「ほほう〜そういえば箱根の美術館にもあるよ。今度、行こう」
「はい、連れていってね!!」
「了解!!」
そして、私たちは岡山市内に戻った。
お寿司屋で夕飯を済ませ、駅前のビルの狭間に見える月を見つけた彼は、嬉しそうだった。
「ゆき、見て見て」
「どこ!?どこ!?」
「ほ〜らね!!俺は、嘘なんてつかないさ。満月は、ゆきと肩を並べて見るって言ったろ」
そう言って、彼は べったりくっついてきた。
雲に掛かることなく くっきりと青々とした大きな満月は岡山の空に耀いていた。
私たちは、肩を並べ、しばらく眺めていた。
そして駅前のホテルへと向かった。
ドアを閉めた途端に、彼に、いきなり唇を奪われた。
「どうしたの?」
「ゆきを抱きたくて抱きたくて‥どれほど我慢したのか分からないだろ?」
「分かってます。私だって同じ!」
「ゆき、ゆき、ゆき‥」
「分かったから、孜くん、少しは落ち着いて」
「落ち着いてるよ。ゆきが欲しいんだよ」
窓から月が覗いてる。
これから始まろうとする逢瀬に、私は娼婦になれるのだろうか?
彼が望むのならば‥
自ら、彼を誘おうか。
一夜の逢瀬に彼に委ねるだけでは、勿体ない月夜でもある。
岡山は、清々しい秋晴れの朝となった。
「いいお天気ね」
「あぁ、そうだね」
「どうしたの?孜さん、元気ないのね。分かった!もう、お別れだからでしょ」
「あぁ!」
「お仕事だからね。仕方ないでしょ?」
「うん!」
「行きたくないな!」
「今日は何なの?」
「今日は、教育現場の視察だよ」
「大学教授さんたちと‥」
「そっ!!僕が行っても話が合わなくてさ」「嘘ばっかり、あなたこそ流暢な会話を巧みに話せる方っていない筈よ。誰とでも話せるくせに」
「いやっ、本当は、辛いよ。畑違いだからね」
「そうね。生業も忙しいのに大変ね!でも、貴方だから大学教授とでも張り合えるのよ〜」
「今回は視察だから‥緊張感は無いが、会議ともなるとドギマギするんだよ」
「大丈夫!!ゆきが着いてるから!!」
「ゆきは、能天気だな〜、そんな ゆきを見てるとホッとするよ」
「それは、ありがと!?」
「ゆき、もう一度 抱いていいかい?」
「ダメ!!もうダメです。着替えちゃったし‥」
私の口を彼は塞いでしまった。
朝の陽射しを浴びて私は再び 彼の愛撫に悶え淫らになって往く‥
「昼間は淑女にって言ったのは‥あ‥なたぁ~ょ‥」
「いいさ。朝っぱらからでも‥俺は、ゆきが抱きたいんだ!ゆきの肌に吸い込まれそうなんだよ。ゆき、大好きだよ」
そう言って耳許に囁き掛け、私の上着を上手に剥ぎ 再び ベッドへと倒れ込んだ。
そして、時間通り駅構内で彼と私は別々の階段を進んだ。
これが暫しの別れとも知らずに。




