愛慕の念
夕刻、三島へと到着した。
彼が待っていた。
ほんの半月前と同じ光景。
そこには、子どもたちの姿が無いということと‥
お互い愛慕の情に駆られていたことが違っていた。
そう、私たちの間に憚るもの等ないのである。
私は、彼に駆け寄り彼の胸に飛び込んだ。
彼は、私を強く抱き締め言った言葉が、
「このスーツにして正解だったよ」
と、照れくさそうに笑った。
この半月、彼に逢いたかった思いが感窮まっている私。
映画のワンシーンを演じているのに、彼の一言でぶち壊しだ!?
「どういう意味?」
「ゆきが抱き付いてくると思って!今朝、スーツを着る時に、考えたんだ!ファンデーションが目立たないようにって」
「バカね。本当にデリカシーがないんだから」
「そう言うなって。嬉しいよ、ゆき」
彼はベージュのスーツに身を包んでいた。
私を乗せて彼の車は、御殿場への真夏の薄暮に包まれていく。
「ゆき、少し早いが夕飯にしょうか?予約してるんだ」
車が停車したのは、丸材で組まれた丸木小屋風のレストラン。
御殿場でのゴルフの帰りに よく利用するらしく 入口を入ると店内を横目に彼は左に折れ 奥に続く細い丸太の廊下を歩き出した。
三歩下がって後に着いて歩く私の目に飛び込んできたのは‥
アットホームな懐かしさが漂うステーキハウスでした。
こじんまりとした店内には小さなアーム状になった鉄板。
その鉄板を挟むように並べられた椅子を彼が引いてくれた。
私の父は、家業をそっち除けでいろんな副業に手を出していた。
その中で小さなステーキハウスを開店した。開店して五年目で閉店してしまったお店だったけど‥
私は、そのお店の雰囲気が大好きで高校生の頃は、進んでアルバイトに精を出したものだ。
その店内と雰囲気が似ているのだ。
懐かしい匂いに囲まれた私は上機嫌だった。
そして、また 父のお店と同じように鉄板を挟んで私の前では、コックチーフがパフォーマンスを見せてくれた。
マジックのような手捌きは、私たちの会話を無にしていった。
「胃の具合どうですか?」
「随分良くはなったが、本調子ではないんだ」
「お肉は大丈夫なの?」
「いやっ、今日は少な目にしておくよ。ゆきは、沢山食べなさい」
「あなたが戴けるもので良かったのに‥」
「いいんだよ!ゆきに、此処のお肉を食べさせたかったんだよ」
一口食べて、彼がそう言ったのも解るような気がした。
一口食べると口の中で溶けていく上質のお肉に感激した。
しかし、彼は私の半分も食べなかった。
三鷹に営業所をオープンするために忙殺の日が続いているそうだ。
そんな大事な時期に、我が儘で彼を振り回してしまっていることに猛省した。
「ゆき、何かデザート食べようよ」
彼は、全く お酒を頂けない代わりにスイーツが大好きだ。
私たちは、丸太の橋を戻りホールに入った。
ラタンのテーブルがバランスよく配置され、椰子の木で仕切られた店内は、まるで南国ムードだった。
しかし、聴こえてきた生演奏は、確かロシア民謡だった。
マラカスとコンガの軽快な音楽が店内を和ませた。
「ゆき、素敵だろ~この音楽」
「ロシア民謡ね」
「よく知ってるね。ロシアでは軍歌とか労働者の歌だと聞いたよ」
「そうなんだぁ~こんなに軽快なメロディーなのにね」
そのとき、聞き慣れたメロディーが流れてきた。
「カチューシャですよね」
「そうだね。そのうち、トロイカや、ともしびも聞けるよ」
「私、大好きなんです」
そんな哀愁帯びたロシア民謡が、今の心境に心地好かった。
すると、彼が
「ゆき、この前 こちらへ来た帰りに隆正君と相沢さんに手紙を渡したんだって!?」
突然、聞かれたので、
「すみません、余計なことを‥」
「いやぁ~嬉しかったよ。ありがとう。相沢さんが大変喜んでいたよ」
「そうでしたか、お世話になっていながら何のお礼も出来なくて!」
「それにしても、ゆきは達筆だね。隆正君も感心してたよ。なんだか俺は、気分が良かったさ!!」
「私が達筆?孜さんほどではありませんよ」
いつも、メールのやり取りでは気がつかないことですが、
彼の字体は、女性らしく優しい美しい文字を書かれます。
その反面、芯が通っている感がします。
それに繊細さが漂ってくるのです。
私の文字は?と言うと、流れるような崩し文字で荒々しく強さを感じるのだと思います。
よく、存在感がある字体だと言われます。
文字とは人の性格を表すのかもしれません。
「ねぇ、孜さん、その手紙を読まれました?」
「ごめんよ。相沢さんに頼んで見せてもらったんだ」
「いえっ、でも‥気を悪くなさらないでくださいね」
「いいんだよ。俺を心配してるのが分かったよ。ありがとう」
その手紙には、お礼を述べた後に、彼に何かあったら連絡して欲しいと、私の住所と携帯番号を添えていたのだ。
彼が元気なら、いつまでも繋がっていられるが、彼に何か異変があると、音信不通になってしまうのが怖かったのだ。
「もし、僕に何かあれば相沢さんか専務が連絡してくれるようだ。安心するといいよ」
「はい!!」
「子どもたちは元気かい?」
「えぇ、今日は海遊館に行っている筈です。大阪駅で別れた時なんて‥バイパイって振り向きもせずに行っちゃったのよ!」
「そっかぁ~英君には、何か御礼しなきゃね」
「多分、彼も寂しいんだと思うの」
「そう、英君は、ずっと一人暮らしなの?」
「近所に母親がいるよ。時々、会っているようだけど‥昔から仲が良くないんだ。弟だけを可愛がっていたから」
「親は、出来が悪いほど可愛いと言うよ。親の愛は親バカって言うほど深いもんなんだけどね」
「親になれない40男には解らないのかもしれないよ」
英のことに関心を寄せている彼に、英は、男じゃなく女だなんて言えなかった。
従兄の中で、小さい頃から一緒に育ったとだけ伝えていた。
「ゆき、9月には、なんとか時間を作るつもりでいるんだよ」
「私ね、あなたが懸念していた意味が、今、分かったの~」
「何が?」
「あれから、あなたの事ばかり考えてて‥逢いたくて逢いたくて苦しいの‥」
バカな私!!
これ以上 彼にどうしろと言うのだ。
彼を困らせて何を考えているのだ。
何を求めていたのだ。
不安という重圧感を彼に逢うことで取り去りたかったのかもしれない。
それに、彼は言った筈だ!!
“僕たちが、一線を越えるということを‥ゆき、覚悟は出来てるね”って。
「ゆき、俺だって同じだよ!!仕事をしている時も、家にいる時も、ゆきのことばかり考えていてさ。この前、家内にゆきって呼んでしまったよ」
「えっ、本当?どうしたの?」
「怪訝な顔して裏口から出て行っちゃったよ~」
彼も彼なりに苦しんでいるのかもしれない。
私たちの愛慕の念は、お互いの生活を より豊かな気持ちにするために我慢の念へと切り換えねばならないのだ。
そう思うと、お互いの良識ある理解が必要だと‥そう思った。
私たちは、御殿場から想い出の河口湖へと向かった。




