淑女と娼婦
私は、この日の為に用意していたツーピースに着替えた。
それは、彼の好きな色 モスグリーンのタイトタイプ。
時計の針は21時を回ろうとしている。
私の心は、晴れやかである筈なのに‥
駐車場に向かう私の足取りは、決して軽やかなものではなかった。
それは、私の十年足らずの結婚生活に遡る。
DVに悩まされながら、
性行為といえば強姦同様の扱いで、恐怖の中で行われていた。
あの行為自体が愛の営みなどとは思えぬ日々が続いていた。
夜になると怯える毎日、深夜に跨ぐ喚き声が静まりかえった住宅街に響き渡る。
寝不足の日が重なると精神的にダメージも大きく疲労困憊の体を引き摺り 子育てに翻弄していた日々。
今、こうして 彼と出逢って彼を愛し彼に抱いて欲しいと思っても‥
その行為に及ぶことに自信がないのである。
私の生涯で こんなに人を愛したことは初めてのこと。
彼と一つになれるものならばと考えると過去に捕われず前を向こう。
既に過去を切り捨てた私ではあったが‥
こと、これに関しては、体の問題であるわけでして
なんだか、バージンを失う前の女子が彼是と想像するのと似通った心境であった。
「ゆき、愛してるよ」
彼は私を抱き寄せ瞑った
瞼に、そっとキスをした。
背中に回した手に力が心持ち加わり~
唇へと。
優しく‥口づけが交わされた。
ここは彼と初めて満月を眺めた湖畔の公園。
一昨夜の耀いた満月に、星屑の小路は無い。
今夜は、雲に覆われて月も星も見えない。
「真っ暗ね~月も見えないね」
「どうやら、明日は雨の予報だよ。残念だな~
静岡周りを考えていたんだが‥」
「帰りたくない‥」
私は彼の胸の中で呟いた。
すると、再び 唇を重ね合わせ、
鼓動も激しく打ち出し、
顔が紅潮し、
体中が火照り、立っている足から力が抜けそうになった。
「俺だって、ゆきを帰したくないさ‥
ゆき、
ゆきを抱きたい」
彼の車は湖畔の岸を離れ 山道を上り始めた。
「ごめんね、ゆき。こんな所で」
私たちは一軒のラブホテルへと入った。
地元では、二人になれないことは承知の上、
ですが彼の自尊心が、私に申し訳ないという気持ちでいっぱいだったようだ。
このドアを閉めれば、密室である。
扉が閉ざされた途端、彼は急変した。
そこには、社長の顔も、名声も、プライドも自尊心も全てを脱ぎ捨てた彼がいた。
彼は、彼の中に潜む少年の目で私を見た。
そして、彼の中の少年が私と向かい合った。
「俺たち、こうなって良かったんだよね」
「うん」
私が頷いた。
何度も何度もキスをして
何度も何度も愛を囁き
彼の中の少年の目はキラキラ耀いていた。
「俺さ、ゆきに出逢って本当に幸せなんだよ。
これは、ずっと前から思っていたことさ。
毎日、ゆきとのメールで
どれほど救われたかしれないさ。
疲れきった日、不思議とゆきから、お疲れさま!頑張ったね!!って。
メールが来るんだよ。
回りは皆んな、俺は出来て当たり前と思っているさ。
常に努力して邁進して、また努力して積み重ねていることを知りゃしないさ。
社長としての威厳、家長としての威厳。
もう、疲れたよ。
ゆきだけさ、俺を認めてくれるのは。
ゆきと、ずっと、こうしていたいよ。
ゆきとは見えない何かで繋がってるのかと思うほど不思議なんだぁ」
「あらっ、孜さんは、目に見えないものは信じないと言ってたはずなのに~」
「段々、分かってきたのさ。ゆきと俺は、信頼と愛情で繋がっていることがね。体も‥?」
「ねぇ、孜さん」
「なに?」
「私、自信ないの?」
「なにが?」
「男の人との体の関係に‥」
「怖がってたらダメだよ!!
ゆきが、性交に脅えていたことは聞いていたけど‥
心配しなくて大丈夫さ。
」
「うん」
「あのね、気になってたんだけど‥孜さん、僕って言ったり俺って言ったりしてるけど、どっちなの?」
「俺って家の中だけだよ。ゆきの前で、俺って言ってる?
気がつかなかったよ」
「言ってるよ」
「言ってるとしたら、ゆきの前ではリラックスしてるんだな」
「リラックスし過ぎじゃないの?」
いつもの彼とは別人のようです。
そして、彼は私を優しくベッドへと誘い入れ
あの行為の前の長い長い気が遠退くような愛撫が始まった。
彼の細くて長い指が、彼の柔らかな口びるが、私の体を滑り行く。
その指が滑らかな動きの中で‥
秘部へと差し掛かった時
私の体に異変が走った。
全身の震えが止まらない。
「ちょっと待って」
私は彼の体を制止した。
「ゆき、大丈夫。怖がらないで僕のことだけを考えてごらん」
そして、私の方から彼にしがみついた。
私は、ゆっくり、ゆっくりと彼を招き挿れた。
すると、これまで感じ得なかった快楽が私を襲った。
「ゆき、綺麗だ。とても綺麗だ。
ゆき、愛している‥
ゆき‥」
彼と一つになっている悦びが、一層 私を不埒にさせ、小さく声が洩れた。
「ゆき、ここには、ゆきと俺だけさ。
何も恥ずかしがらずに声を出してごらん。
おもいっきり出していいんだよ。
そう、もっと、もっと出してごらん」
そう言われて、初めて喘いだ。
私は、初めて この日 女になったのかもしれない。
愛し愛される女の快楽を初めて体感したのである。
「泣いてるの?」
「うぅんうん、嬉しくて‥」
彼は、私をそっと抱きしめ髪を優しく撫でた。
「ゆき、大丈夫だったろう~きっと、臆病になっていただけさ」
そう言いながら、彼の細くて長い指が私の髪を
ゆっくり掻きあげる。
もう、それだけで子宮の奥まで波が澱んできた。
「私‥初めて感じたの」
「えっ!?」
「初めて快楽が‥」
「そうだったのか‥」
彼は、私をぎゅうと抱き寄せて
「嬉しいことを言ってくれるね!」
そう言って彼は、そっと、口づけした。
ゆっくりと出来ないことに彼は残念そうで、随分と我慢していた煙草に火を点けた。
そして、
「ゆきは、まだ若いんだから‥
この先、どんな幸せが待ってるか知れない。
もしかすると、再婚も有り得るかも知れない。
その時の為に、夫婦間のご法度を伝授してあげる」
「何、言ってるの?こんな時に‥そんなの教えてくれなくていいよ」
「これは、大事なことだよ」
「女に生まれた限りは、昼間は淑女に夜は娼婦に!!
そうすりゃ、家庭円満なのさ」
「夜は娼婦にねっ、そんなの男のエゴだよ」
「エゴ?!そっか、それは男のエゴなのか~。エゴでも何でもいいさ。俺は、ゆきが大好きだぁ~」
彼は、子どものように言った。
この日の昼間には、彼とこのような砕けた会話が出来るなど想像もしていなかった‥
私は、自然の流れに逆らうことなく心向くままに愛し合えた悦びを噛みしめ
子どもたちの処へと帰って行った。




