保守契約は今月末で終了です。王城の灯りが消えても私の仕事ではありません
王城の北塔、魔道具管理室。
私が辞表を提出したのは、朝の鐘が三つ鳴った頃だった。
「保守契約の終了届、確かに受け取りました。契約満了は今月末です」
そう告げると、書類を受け取った王太子殿下は、きょとんとした顔をした。
「契約? 何のことだ、セレナ」
セレナ・カルディア。魔道具保守係の伯爵令嬢にして、殿下の婚約者――だった人間である。
「王城全域の灯り、暖房、水路の浄化装置。それらの魔道具の点検と調整を、私が七年間、お引き受けしてまいりました。その保守契約が、今月末で終わります。更新はいたしません」
「待て待て。そんなものは、勝手に動いているものだろう?」
私は手元の書類をめくった。
「勝手には動きません。魔石の交換、回路の洗浄、出力の調整。月に四十二か所、年に五百件の作業があります。点検簿はこちらに」
分厚い点検簿を、殿下の机にどんと置く。
殿下は目を泳がせた。
「だが、君は婚約者だ。婚約者が王城の面倒を見るのは、当然のことで――」
「その婚約も、先週、殿下から解消のお話がありましたよね。新しい婚約者として、ご友人のマリエット様をお迎えになるとか」
一週間前、殿下は夜会の席で、公衆の面前で宣言した。
――セレナ。君は地味で面白みがない。マリエットのように、華やかな女性こそ王妃にふさわしい。
地味。面白みがない。
それは、構わない。
けれど、その直後に殿下はこう付け加えたのだ。
――ああ、保守の仕事は続けてくれたまえ。君の取り柄は、それくらいだろう?
取り柄。
その言葉で、私の中で何かが静かに切れた。
「婚約者でなくなった以上、私は王城に対して、ただの保守契約者です。契約には更新の意思確認が必要で、私は更新しないと決めました。ですので、今月末をもって、すべての保守作業を終了します」
「そ、そんな勝手な。城が止まったらどうする!」
「ご安心ください」
私は、さらに一冊の冊子を差し出した。
「引継書を作成しました。作業手順、交換周期、緊急時の対処法まで、すべて記載してあります。後任の方が読めば、問題なく運用できます」
「後任? 誰が」
「それは、王家でご手配ください。私は、あと三週間、契約どおり勤めます。三週間の間、後任の方がいらっしゃれば、きちんと現場で引き継ぎます」
殿下は黙り込んだ。
けれど、私は知っている。
この人は、冊子を開かない。
◇
引継書の期限は、三週間。
その間、後任は誰も来なかった。
殿下は「そのうち誰かが来るだろう」と言い、侍従長は「予算が下りておりません」と言い、財務大臣は「保守係の給金がそもそも高すぎる」と言い続けた。
私の給金は、他の魔道具師の三分の一だった。婚約者の務めだからと、七年間、抑えられてきたのだ。
最終日。
私は北塔の鍵を、返却箱にそっと置いた。
廊下の灯りが、ふっと明滅する。魔石の寿命が近いのだ。交換周期の表では、来月の頭が期限になっている。
私は何も言わず、塔を出た。
もう、私の仕事ではないから。
◇
辞めて十日後、王城の灯りが、北翼から順に消え始めた。
最初は、廊下の端だった。次に、書庫。その次に、厨房の井戸の浄化装置。
魔石の交換期限は、私の点検簿に細かく書いてある。けれど誰も読まない。読めと言われた記憶さえ、誰にもない。
王城の使用人たちは、てんてこ舞いだったという。
らしい、と言うのは、私が現場を見ていないからだ。
私は王都の下町にある小さな魔道具店で、見習いとして働いていた。
「セレナ嬢。この回路の修理、頼めるかい」
店主のゲルハルトさんは、白髪頭の老人だ。腕は確かなのに、手が震えて細かい作業ができなくなり、店を畳もうとしていたところだった。
「承ります。納期は明日の昼でよろしいですか」
「早いな」
「今は、時間だけはありますので」
七年分の技術は、私の手にある。誰にも奪えない。
ゲルハルトさんは、私の作業を黙って見守り、やがて呟いた。
「あんた、王城でこれを、ただ同然で……」
「ええ。婚約者の務めだと思っていましたので」
「馬鹿げてる」
彼はきっぱりと言った。
「いい仕事には、いい値がつく。それが商売の当たり前だ。今日から、あんたの腕に見合った給金を払おう」
その言葉は、七年ぶりに聞く言葉だった。
◇
一ヶ月後。
王城の暖房が止まり、水路が濁り、夜は暗闇で歩けない状態が続いていた。
王家は魔道具師を急募したが、「王城の魔道具は構造が特殊すぎる」と、ほとんどの職人が断った。
特殊なのではない。
七年間、私が手を入れ続けた結果、私以外には全体が見えなくなっていただけだ。
引継書は、読めば分かるように書いてある。それを読む者がいなかったから、誰も分からないのだ。
そしてある日、殿下が下町の魔道具店に現れた。
護衛を二人従え、泥だらけの靴で。
「セレナ!」
私は作業台から顔を上げた。
「いらっしゃいませ。ご依頼ですか」
「依頼……そうだ、依頼だ。王城の魔道具を、また見てくれ。頼む」
「保守契約の再締結ですね。ご条件を確認させてください」
私は帳面を開いた。
「まず、報酬は他の魔道具師の標準料金で。それから、作業時間は日の出から日の入りまで、休日は週に一日。そして最も重要な点として、これは婚約者の務めではなく、純粋な業務契約です」
「そ、そんな……君は、僕を愛していたのではなかったのか?」
「愛情と、業務は別のものです」
かつて、私は殿下を好いていた。
けれど殿下は一度も、私の仕事を見ようとしなかった。灯りがつくのは当たり前、水が出るのは当たり前、と。
当たり前の裏に、毎晩の作業があったことに、気づこうともしなかった。
「契約書は、こちらにございます。署名をお願いします。ちなみに料金は前払いです」
「前払い……」
「七年間の未払い分は、今回はご容赦いたします。ただし次回、同じことがあれば、それも請求させていただきます」
殿下は羽根ペンを握り、手を震わせたまま署名した。
その背後で、ゲルハルトさんが、満足げにうなずいていた。
◇
契約は成立し、私は王城へ出向した。
七年ぶりの北塔は、驚くほど埃だらけだった。けれど魔石の回路そのものは、私の手入れの跡を残していた。
一つ一つ交換し、洗浄し、調整する。
三日で、城の灯りがすべて戻った。
最後の灯りがともった夜、私は塔の窓から王城を見下ろした。
金色の光が、中庭を満たしている。
背後で、足音がした。
「見事なものだな」
ゲルハルトさんだった。護衛もつけず、杖をついて、塔まで上がってきたのだ。
「ゲルハルトさん、お体は」
「なに、あんたの顔が見たくなってな。店を継ぐ話、考えてくれたか?」
「……はい」
私は、深呼吸した。
「王城との契約は、期間限定の臨時契約にしました。それが終わったら、あなたの店で働かせてください。その、将来的には店主として」
「そりゃあ嬉しいが、いいのか。王家の魔道具師の肩書きなら、もっと稼げるぞ」
「肩書きではなく、いい仕事に、いい値がつく場所がいいんです」
ゲルハルトさんは、豪快に笑った。
「ならば決まりだ。店の名前は、あんたの名前を足そう。『カルディア・ゲルハルト魔道具店』」
「長いですね」
「看板屋に怒られるな」
二人で笑い合っているうちに、中庭の灯りがひとつ、ちらりと揺れた。
まるで、七年分の拍手のようだった。
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