婚約破棄されました ~捨てられた王子の悲壮感にも手続きがございます~
「アルベルト王子。わたくしはあなたとの婚約を破棄いたします」
王宮の大広間に婚約者であるリディア公爵令嬢の声が通った。夜会の真ん中で楽団はちょうど二曲目の前奏に入ろうとしており、料理係は焼き菓子を銀盆に載せている。俺は葡萄水の入った杯を片手に父上から「今日は余計なことをするな」と言われたばかりだった。
少なくとも俺は何もしていない。本当に何ひとつしていないのに婚約を破棄された。
「……理由を聞いても?」
王太子としてはここで膝をつくなり杯を落とすなり天を仰ぐなりして、捨てられた男の悲壮感を見せるべきなのかもしれない。だが残念ながら手にしている杯は高価である。落とせば失恋を嘆くより先に侍従長から叱られる。
リディアは背筋を伸ばしてまっすぐ俺を見ていた。いつもより頬が赤いのは大広間に集まった視線のせいだけではなさそうだ。
「わたくしは真実の愛を見つけました」
出てきたのは真実の愛だった。王族の婚約破棄を告げる場で使う言葉ではないし、どうしても使うなら事前に議題へ入れておいてほしい。
「相手は?」
俺が尋ねるとリディアの隣にいた男が一歩前へ出た。若い騎士でも隣国の王子でもなければ、舞踏会で令嬢に詩を捧げる吟遊貴族でもない。そこに立っていたのは濃紺の上着を着た地味な男だった。
年は三十の手前で髪はきっちり撫でつけられ、靴もよく磨かれている。派手さはないが姿勢だけはやたらとよかった。
「バルト男爵家当主オーウェン・バルトです」
男爵と聞いた途端に会場の誰かが咳き込んだ。その反応は分かるし俺も喉に葡萄水が入りかけた。
「男爵……?」
「はい」
「君が俺からリディアを奪った男爵?」
「人聞きが非常に悪いですが、結果だけを見ればそうなります」
返事は堅く俺の婚約者を奪った男とは思えないほど事務的だった。まるで役所へ戸籍の訂正を申し出に来た人間のような顔である。
リディアは胸元で両手を握りしめてから口を開いた。
「オーウェン様はわたくしが黙っている時にも返事を急かしませんでした」
妙に具体的で地味に効く言葉だった。
「リディア。俺は君に返事を急かした覚えがあったか?」
「急かされませんでした。けれどあなたは待つ時まで完璧でした」
「褒められているのに振られている。どういう構造だ」
近くにいた伯爵が肩を震わせた。今の俺は捨てられた王子なのだから笑うより先にもう少し傷物として扱ってほしい。
リディアは一度床へ視線を落としたがすぐに顔を上げた。
「あなたといるとわたくしは公爵令嬢でいなければならないのです」
「まあ、公爵令嬢だからな」
「そういうところです」
何もしていないつもりだったが今の返事に限っては少し余計だったらしい。父上は上座でこめかみを押さえており、母上は扇の陰から「余計なことをするなと言ったでしょう」と目で訴えている。
オーウェン男爵は俺に向かって頭を下げた。
「殿下。リディア様との婚約を解いていただきたい」
「簡単に言うな。王家と公爵家の婚約だぞ」
「承知しております。慰謝料と契約違反金に加えて、婚約発表時に王家から贈られた宝飾品の返還と今後三年間の領地間取引に関する調整案はこちらに」
男爵は懐から書類の束を取り出した。真実の愛にしては厚すぎるし、どう見ても監査資料の類いである。
宰相が音もなく男爵の隣へ移動した。獲物を見つけた鷹のような動きだった。
「見せてください」
「どうぞ」
二人はその場で書類の確認を始めた。夜会の中心で俺の婚約破棄が事務処理へ変わっていく。
「待て。俺の悲壮感は?」
「殿下。悲壮感にも手続きがございます」
書類から顔を上げないまま宰相は言い切った。そんな手続きがあってたまるか。
リディアは唇を引き結び先ほどまでの勢いを失っていた。男爵が差し出した書類の角を指でつまんでいる。
「リディア」
「はい」
「君は本気か?」
「本気です」
「王家との婚約を解消すれば社交界でしばらく面倒な噂が立つ。公爵家も黙っていない。男爵家に嫁げば今より不便も増える」
「分かっています」
「分かっていない顔だぞ」
「分かっています」
二度も同じ答えを返したところを見ると、実際にはすべてを分かっているわけではなさそうだ。俺はリディアからオーウェンへ視線を移した。
「男爵。君は?」
「私も本気です」
「公爵家から恨まれるぞ」
「すでに昨日リディア様の兄上に庭で殴られました」
「早いな」
「右です」
男爵は自分の右頬を示した。言われてみれば皮膚が薄く青くなっている。
「左は?」
「公爵閣下に」
「順番を守れ」
俺はこらえきれず頭を抱えた。大広間のあちこちで貴族たちが耳を寄せ合っており、もう誰も踊っていない。楽団のヴァイオリン奏者も弓を持ったまま固まっている。
父上が上座から低い声で呼びかけてきた。
「アルベルト」
「はい」
「お前はどうしたい」
王太子としては侮辱されたと宣言して男爵を捕らえ、リディアに謝罪を求めるべきなのだろう。俺に瑕疵がない以上はそれが一番分かりやすい決着になる。
ただリディアの手元を見ると握られた書類の角が曲がっていた。彼女は男爵の後ろへ隠れず俺と父上を順に見たあと、大広間の全員から注目されていると承知した顔で立っている。
俺は杯を近くの侍従に渡した。受け取った侍従の手が一瞬止まったが今ここで割れ物まで増えれば、俺の立場がさらにややこしくなるので落とさないでほしい。
「婚約破棄の申し出を受け入れる」
俺の返事を聞いた大広間が一斉にざわついた。
「ただし条件がある」
リディアの肩がわずかに上がった一方でオーウェン男爵は表情を変えない。宰相だけは嬉しそうに書類から紙を一枚抜き出した。おそらく条件を追加するための用紙だろうが用意がよすぎて怖い。
「ひとつ。正式な婚約解消の手続きは宰相と公爵家を通せ。夜会の真ん中で発表して終わりにはできない」
「はい」
「ふたつ。リディアは三日以内に公爵家に戻れ。男爵家へ駆け込むな。駆け落ちごっこをされると王都の治安担当が泣く」
「……はい」
「みっつ。男爵」
「はい」
「王子の婚約者を奪った以上はせめて幸せにしろ。ここで不幸にしたら俺がただの捨てられ損になる」
リディアは意外そうに目を瞬かせた。オーウェン男爵はその場に膝をついたが、やり方は税務官に何度も頭を下げてきた男のように妙に慣れている。
「誓います」
「あと書類が厚すぎる。次から要約をつけろ」
「失礼いたしました。目次はあります」
「あるのか」
宰相が横から満足そうにうなずいた。
「殿下。非常によくできています。慰謝料算定の根拠も明確です」
「俺の婚約破棄を褒めるな」
そこでようやく楽団の誰かが誤って弦を鳴らした。ぴんと小さな音が響いて全員の視線がそちらへ集まり、奏者は青い顔で頭を下げる。
母上は扇を閉じると夜会の客たちに告げた。
「では今夜の夜会はここまでにしましょう。皆様は正式な発表をお待ちください」
まるで物語の続きを予告するように言わないでほしい。
その夜の俺は自室へ戻るなり王子としての威厳を保つために長椅子に倒れ込んだ。
「殿下。靴を脱いでください」
「今の俺は捨てられた王子なんだ。靴くらい履いたまま傷つかせろ」
「敷物が傷みます」
「侍従長。お前には人の心がないのか」
「ございますので敷物の心にも寄り添っております」
侍従長は容赦なく俺の靴を脱がせてしまった。王子の失恋は敷物の心に敗北したらしい。
机の上には先ほど宰相から渡された書類の写しが置かれている。表紙に記されていたのは「王太子殿下婚約解消に伴う諸手続き案」という容赦のない題名だった。
せめて婚約破棄と書けとも思ったが、実際に書かれればそれはそれで嫌になるだろう。俺は諦めて表紙をめくった。
慰謝料と宝飾品返還の欄に続いて、公爵家との調整案と社交界への発表文案が並んでいる。その後ろにあった「王子の名誉回復について」という項目で俺の手は止まった。
『王太子殿下には一切の非がないことを明文化する。なお殿下の威厳保持のため、婚約破棄の申し出があった場における発言録は要精査』
発言録という文字を見た俺は侍従長に顔を向けた。
「もしかして今日の俺の発言は記録されているのか」
「当然です」
「『俺の悲壮感は?』も?」
「当然です」
「燃やせ」
「公文書です」
俺は長椅子の上で顔を覆った。何もしていないのに婚約を破棄されたうえ、婚約者を奪った相手は男爵である。さらに情けない一言まで公文書に残ることになった。
翌朝になって王宮の廊下を歩くと女官たちが一斉に礼をした。いつもより深すぎて床に額がつきそうなほどである。
「殿下。お気を確かに」
「殿下。朝食は召し上がれますか」
「殿下。男爵芋のスープは下げておきました」
「そこまでしなくていい」
男爵と男爵芋は別物である。食堂へ入ると父上が読んでいた新聞を畳んだ。
「アルベルト。昨夜の件だが」
「はい」
「公爵家から正式な使者が来る。お前も同席しろ」
「分かりました」
「それとしばらく社交界では気の毒な王子として扱われる」
「もう始まっています」
俺が椅子に座ると皿には卵料理と焼いたパンだけが並んでいた。男爵芋のスープは本当に消えており、厨房まで話が回るのはいくら何でも早すぎる。
母上は手にしていた茶器を卓上に戻した。
「あなたが怒鳴らなかったのはよかったわ」
「怒鳴る前に書類が出ましたから」
「泣いてもよかったのよ」
「母上。王子が夜会で泣いたら国が揺れます」
「少しなら民は喜ぶわ。人間味があるもの」
「王子の涙を娯楽にしないでください」
父上は二人の会話を止めるように咳払いした。
「とはいえ婚約は白紙だ。次の婚約者候補を探すことになる」
俺はパンを持ったまま手を止めた。
「早くないですか」
「王太子だからな」
「昨日捨てられたばかりです」
「気の毒に見える期間は短い」
「ひどい」
食堂の扉が叩かれて侍従が入室し、父上に向かって一礼した。
「陛下。バルト男爵より殿下宛てに書状が届いております」
「男爵から?」
俺が受け取った封書の蝋印は地味だが整っていた。封を開くと中には一通の手紙と薄い冊子が入っている。
『昨夜は失礼いたしました。殿下の名誉を損なわぬため、社交界向け説明案を三種類作成いたしました。強硬版、穏当版、殿下人気回復版です』
殿下人気回復版という不穏な名前を見ながら俺は冊子を開いた。
『第一案。殿下は婚約者の意思を尊重し、王族として寛大な判断を下した』
この案ならまだ分かる。
『第二案。殿下は恋に破れながらも、民のため翌朝から政務に復帰した』
何かがおかしくなってきた。
『第三案。殿下は男爵に婚約者を奪われたが、涙を見せず、ただ一言「幸せにしろ」と告げた。これにより若年層女性の支持が見込まれる』
さすがに待ってほしい。俺はそれ以上読むのをやめて冊子を閉じた。
「父上」
「何だ」
「男爵を雇いませんか」
「お前の婚約者を奪った男だぞ」
「仕事ができすぎます」
父上も母上も口を閉ざして考え込んだ。侍従長だけが横から冷静に口を挟む。
「人材としては惜しいですね」
「だろう?」
「ただし殿下。雇った場合は毎日顔を合わせます」
「やめよう」
その条件を聞いた俺は迷わず即決した。
三日後に王家と公爵家の手続きを経て正式な婚約解消が発表された。リディアは公爵家に戻りオーウェン男爵は公爵家の門前で二時間待たされたらしい。兄上にまた殴られたかまでは知らないものの、宰相が嬉しそうに「追加資料が届きました」と言っていたので少なくとも生きてはいる。
俺はといえば社交界で妙に優しく扱われるようになった。
「殿下。おつらいでしょう」
「殿下。無理に笑わなくても」
「殿下。男爵芋はお嫌いになりましたか」
「だから男爵芋に罪はない」
婚約者はいなくなったが名誉だけは守られた。そして俺の机には山のような釣書が積まれ始めている。
俺が一枚目を手に取ると隣に立つ侍従長が淡々と読み上げた。
「伯爵令嬢エミリア様。趣味は乗馬と刺繍と領地経営。なおバルト男爵とは面識なし」
「最後の情報いるか?」
「現在の最重要確認事項です」
俺は釣書をいったん机に戻した。窓の外では庭師が花壇の土をならしており、昨日まで並べられていた白い薔薇は片づけられて代わりに赤い花の苗が植えられている。婚約を祝うために整えられた花壇を替えたのだろうが仕事が早い。王宮全体が俺の失恋より先へ進んでいた。
侍従長は次の釣書を差し出した。
「こちらの令嬢は男爵家との交流が一切ありません」
「条件がそこになってないか」
「殿下が二度目の男爵被害に遭わないためです」
「男爵被害って言うな。災害みたいに扱うな」
「では次の夜会では明るめの衣装にいたしましょう」
「傷心の王子感は?」
「先ほど捨てる流れになりました」
俺は釣書を受け取りながら深く息を吐いた。婚約破棄された王子の一日は忙しい。
せめて悲しむ時間くらい申請すれば通る制度にしてくれ。




