第9話 優しくされると、逃げ場がなくなる
翌朝、由香は目覚ましより少し早く目が覚めた。
頭は重いけれど、昨日ほどのざわつきはない。
代わりに、胸の奥に小さな石が残っている感じがした。
(……送らなかったな)
昨夜、下書きのまま閉じたメッセージ。
それを思い出しながら、由香は顔を洗った。
会社では、仕事に集中できた。
集中できるということは、考えないで済むということだ。
それが少し、ありがたい。
昼休み、スマホを見る。
通知はない。
(当たり前だけど)
それでも、どこかで「連絡が来ていたらどうしよう」と思っている自分がいる。
自分から何も送っていないのに。
仕事が終わり、帰宅途中の電車の中。
由香は、窓に映る自分の顔をぼんやり見ていた。
疲れている。
でも、以前の「何もしていない疲れ」とは違う。
(私、今……逃げてる?)
考えた瞬間、胸がきゅっと縮む。
逃げている、という言葉は強すぎる。
でも、「立ち止まっている」と言うには、意識しすぎている。
家に着き、簡単に夕食を済ませたあと、由香はソファに座った。
テレビはつけない。
静かな夜だ。
スマホを手に取り、連絡先を開く。
佐藤の名前。
由香は、しばらくその画面を見つめていた。
(優しかったな)
否定されなかった。
急かされなかった。
それが、なぜか今は少し怖い。
厳しく言われた方が、楽だったかもしれない。
「やめた方がいい」と言われたら、納得できたかもしれない。
でも、佐藤は違った。
「大丈夫」とも、「やりましょう」とも言わなかった。
ただ、話を聞いて、選択肢を置いただけ。
(逃げ道が、ない)
由香は気づいた。
優しさは、ときどき人を追い詰める。
自分で決めなければならなくなるからだ。
由香は、昨夜の下書きをもう一度開いた。
『少し、相談してもいいですか』
短い。
弱音とも、質問とも取れる。
由香は、その下に続けて打った。
『行ったからこそ、逆に不安になってしまって』
指が止まる。
(これ、重いかな)
相手は仕事だ。
お客ですらない。
由香は一度、全部消した。
画面が白くなる。
その白さを見て、ふと思った。
(私、いつもこうだ)
言う前に考えすぎて、
考えすぎた結果、何も言わない。
そうやって、
「誰にも否定されていないのに、前に進めない状態」を作ってきた。
由香は、もう一度打った。
『少し不安になってしまって。
入会のことではなく、今の気持ちについてです。
もしお時間があればで大丈夫です』
今度は、消さなかった。
送信。
スマホを置いた瞬間、心臓が早くなる。
後悔が、すぐに追いかけてくる。
(送らなきゃよかったかな)
でも、もう戻れない。
由香は深呼吸し、キッチンでお茶を淹れた。
お湯を注ぐ音が、やけに大きい。
数分後、スマホが震えた。
由香は、一瞬だけ目を閉じてから、画面を開いた。
『もちろん大丈夫ですよ。
今夜でなくても構いませんが、
よければ少しお話ししますか?』
短い文。
でも、拒絶はない。
由香は、ソファに座り直した。
『ありがとうございます。
今、大丈夫です』
数分後、オンライン通話の案内が届いた。
(……またか)
でも今度は、前回ほどの緊張はなかった。
画面に映った佐藤は、前回と同じだった。
落ち着いた表情。
変わらないトーン。
「こんばんは。急にすみません」
「いえ。どうされましたか?」
由香は、一瞬言葉に詰まった。
でも、今回は逃げなかった。
「……正直に言うと」
「行かなきゃよかった、って思ってます」
言ってしまった。
胸が、少し痛む。
佐藤は、すぐには答えなかった。
少しだけ間を置いてから、言った。
「そう思う方、結構多いですよ」
由香は、驚いて顔を上げた。
「え……?」
「現実を知ると、一度しんどくなるんです。
知らない方が楽だった、って」
由香は、息を吐いた。
(私だけじゃない)
その事実が、じんわり効いてくる。
「でも」
佐藤は続けた。
「それって、“結婚したい気持ちがある人”にしか起きない反応なんですよ」
由香の胸が、少しだけざわつく。
「本当に興味がなければ、
不安になる前に離れますから」
由香は、何も言えなかった。
結婚したい。
その言葉を、自分の口で言うのは、まだ怖い。
でも、否定することもできなかった。
「今、決めなくていいです」
「ただ、“怖くなった理由”だけ、一緒に整理しましょう」
その言葉は、慰めではなかった。
逃がしもしない。
でも、追い詰めもしない。
由香は、静かにうなずいた。
優しくされると、逃げ場がなくなる。
でも同時に、
逃げなくていい場所が、そこにある気もしていた。
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