第8話 知らなければ、楽だったのに
その夜、由香はなかなか眠れなかった。
真由の言葉が、頭の中で何度も再生される。
「今さら生活変えるの、大変じゃないですか?」
大変。
確かに大変だ。
三十八年分の生活に、誰かを入れるのは。
由香は、布団の中で寝返りを打った。
(私、何に引っかかってるんだろ)
真由の言葉そのものじゃない。
あれは、優しさだった。
引っかかっているのは――
自分の中で、同じことを何度も言ってきたからだ。
由香は、スマホを手に取った。
夜中のスマホは、思考を加速させる。
ふと、佐藤が言っていた言葉を思い出す。
「合う人にとっての近道」
(近道……か)
由香は、検索欄を開いた。
今度は、別の言葉を打つ。
「結婚相談所 年齢 厳しい」
予測変換が、残酷なくらい正確だ。
結果は、想像通りだった。
三十代後半。
条件次第。
厳しいが不可能ではない。
妥協が必要。
(……ほら)
由香は、ため息をついた。
やっぱり、知らなければよかった。
画面をスクロールするたび、
数字と評価が、心に突き刺さる。
市場価値。
需要。
条件。
人間を説明する言葉として、どうしても好きになれない。
(私、点数つけられるのか)
アプリのときも、そうだった。
年齢で弾かれ、
写真で判断され、
返信が来るか来ないかで、価値が測られる。
相談所は違うと思っていた。
でも、現実は変わらない。
由香は、スマホを伏せた。
(行かなきゃよかったのかな)
知らなければ、
一人でもいいと思えていた。
楽だった。
でも今は、
「知っている自分」と
「知らなかった頃の自分」の間で揺れている。
由香は、布団から出て、キッチンに行った。
水を飲む。
静かな部屋で、冷蔵庫の音だけがする。
(結婚相談所に行ったから、現実が見えた)
それは、良いことなのか。
それとも、余計なことだったのか。
由香は、テーブルに座り、膝を抱えた。
もし、今ここで入会したら。
プロフィールを書き、
写真を撮り、
条件を整理して、
「選ばれる側」に立つ。
想像するだけで、胸が苦しい。
(私、そこまでして結婚したいのかな)
答えは、まだ出ない。
ただ一つ分かるのは、
「知らなかった自分」には戻れないということ。
カウンセリングで、
「悩んでいる状態のまま来ていい」と言われた意味が、
今なら少し分かる。
悩みは、行く前に消えるんじゃない。
行ったからこそ、形になる。
由香は、スマホを再び手に取った。
佐藤の連絡先を開く。
(……今、連絡したら迷惑かな)
時計を見ると、二十三時過ぎ。
常識的に考えれば、やめた方がいい。
でも、由香の指は動いていた。
メッセージ入力欄に、短く打つ。
『少し、相談してもいいですか』
送信は、しなかった。
下書きのまま、画面を閉じる。
(やっぱり、まだ怖い)
由香は、電気を消し、布団に戻った。
知らなければ、楽だった。
でも、知らないままの人生を、
この先も選び続けられるかと言われたら――
それも、違う気がした。
由香は目を閉じた。
暗闇の中で、
自分が「逃げている」のか、「立ち止まっている」のか、
その違いを考え続けながら。
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