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結婚相談所に行く前の、38歳の私  作者: 早乙女リク


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第6話 やっぱり一人の方が楽かもしれない

 カウンセリングから三日が経った。

 由香の生活は、驚くほど何も変わっていなかった。


 朝起きて、仕事に行って、帰ってきて、ご飯を食べて、寝る。

 結婚相談所に行ったことは、特別なイベントだったはずなのに、日常は何事もなかったかのように続いている。


(……平和)


 金曜日の夜、由香はソファに座り、テレビを眺めていた。

 特に見たい番組はない。ただ、無音が嫌なだけ。


 洗濯は終わっている。

 部屋は散らかっていない。

 明日は休み。


 「完璧な一人時間」だった。


 由香は、ふと思った。


(このままでも、困らないんだよな)


 誰かに気を遣う必要もない。

 連絡を返すタイミングを考えなくていい。

 相手の機嫌を読む必要もない。


 冷蔵庫を開けると、昨日買ったプリンがある。

 誰にも遠慮せず、一つしかないそれを食べられる。


「……楽だな」


 声に出してみると、妙にしっくりきた。


 三十八歳。

 今さら誰かと生活を合わせるのは、正直しんどい気もする。

 休日の過ごし方、部屋の温度、洗濯の頻度。

 小さな違いに、イライラする自分が簡単に想像できた。


(無理に結婚しなくてもいいんじゃない?)


 それは、ずっと心の奥にあった考えだった。

 でも今夜は、「逃げ」ではなく「現実的な選択肢」に見えた。


 由香はスマホを手に取った。

 佐藤からのメールは、特に新しいものは来ていない。


(追いかけてこないんだな……)


 それが少し、寂しくて、少し安心だった。


 もし、今ここで「やっぱりやめます」と言ったら。

 誰かが困るだろうか。

 怒られるだろうか。


 きっと、何も起きない。


 由香は、クッションを抱えて背もたれにもたれた。


(私、結婚したいのかな)


 問いは、前よりも静かだった。

 焦りも、悲壮感もない。


 ただ、純粋に分からない。


 結婚したい理由を挙げようとすると、どれも少し弱い。

 老後が不安。

 一人が寂しい。

 周りがしている。


 どれも、「今すぐ」じゃなくても成立する理由だ。


 テレビでは、芸能人が結婚報告をしていた。

 スタジオが拍手に包まれる。


「おめでとうございます!」


 由香は音量を下げた。


(この人たちは、この人たちの人生だし)


 自分と比べるのは、もうやめよう。

 そう思えたこと自体が、少し成長だった。


 由香は、立ち上がってベランダに出た。

 夜風が涼しい。


 遠くで電車の音がする。

 どこかの部屋から、笑い声が聞こえる。


 その中に、自分の居場所がなくても、別に困らない。

 そう思える。


 でも――


 部屋に戻ったとき、由香は気づいた。

 テレビの音が、やけに大きく感じる。


 静かにすると、何も聞こえなくなる。

 その「何も」が、少しだけ、胸に残った。


(……楽、なんだけどな)


 楽。

 でも、それだけ。


 由香は、プリンの蓋を開けて、スプーンを入れた。

 甘い。

 美味しい。


 けれど、途中で手が止まった。


(これ、誰かと「美味しいね」って言う日が、もう来なくても……)


 考えた瞬間、胸の奥がわずかに痛んだ。


 由香は、スプーンを置いた。


「……楽と、満たされるは、違うのかも」


 答えは出ない。

 でも、その違いに気づいてしまった。


 結婚相談所に行ったからこそ、

 「一人でいること」を選ぶ意味も、ちゃんと考え始めている。


 それは、逃げじゃない。

 でも、まだ決断でもない。


 由香は、プリンを冷蔵庫に戻した。

 一人分、残っている。


 それを見て、少しだけ笑った。


「……また考えよう」


 今夜は、結論を出さない。

 楽なまま、寝る。


 でも由香は分かっていた。

 この「楽さ」は、ずっと続く安心ではない。


 だからこそ、

 また、あの場所を思い出してしまうのだ。

本話もお読みいただき、ありがとうございました!


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