第5話 まだ入会していないのに、少し楽になった
カウンセリングが終わってから、由香はしばらくソファに寝転んでいた。
体は疲れているはずなのに、頭だけが妙に冴えている。
(……入会、してないんだよね)
確認するように、心の中でつぶやく。
契約書も書いていない。お金も払っていない。
なのに、胸の奥にあった重たい塊が、少し小さくなっている。
「不思議……」
由香は起き上がり、キッチンでお湯を沸かした。
お気に入りのマグカップにハーブティーを注ぐ。
こういう何でもない行動が、今はやけに現実的に感じられる。
テーブルに座り、湯気を見つめながら、今日のカウンセリングを思い返す。
説教はなかった。
「遅い」とも言われなかった。
「もっと若ければ」なんて、一度も出てこなかった。
代わりに言われたのは、「怖かったんですね」。
(……あれ、ずるい)
由香は小さく笑った。
責められる準備はしていたのに、理解されると逆に弱くなる。
由香は、自分がどれだけ「ちゃんとしなきゃ」と思い込んでいたかに気づいた。
三十代後半。
婚活。
結婚相談所。
どれも、「覚悟ができた人だけが足を踏み入れる場所」だと思っていた。
でも実際は、
迷っている人。
不安な人。
怖いままの人。
そういう人も、想定内だった。
(私、勝手にハードルを上げてたんだな)
そのことに気づけただけで、少し肩の力が抜ける。
スマホが鳴った。
メッセージアプリ。相手は、美咲。
『この前言ってたアプリ、続いてる?』
由香は一瞬、画面を見つめた。
そして、正直に打つ。
『やめた』
すぐに返信が来る。
『え! じゃあ今どうしてるの?』
由香は、少し考えた。
「結婚相談所に行った」と言うには、まだ照れがある。
でも、嘘をつくのも違う。
『何もしてなかったけど、昨日ちょっと話聞いてもらった』
『誰に?』
『結婚相談所』
送信した瞬間、心臓が跳ねた。
でも、美咲の返事は意外とあっさりしていた。
『へえ。どうだった?』
由香は、少し驚いた。
否定も、同情もない。
『思ってたより普通だった』
『それ大事じゃん』
由香は、スマホを見ながら息を吐いた。
「普通」。
それは、由香にとって一番ありがたい言葉だった。
しばらくやり取りをして、会話は途切れた。
由香はスマホを伏せ、マグカップを両手で包む。
(私、誰かに認めてほしかったのかも)
結婚したい気持ちも本物だけど、
「悩んでいる自分」を否定されないことを、ずっと求めていた。
アプリでは、常に選ばれる側で、
選ばれなければ、存在が消える。
でも今日の一時間は、違った。
選ばれなくても、否定されなくても、そこにいてよかった。
由香は、もう一度スマホを手に取った。
佐藤からのフォローメールが届いている。
『本日はありがとうございました。
ご質問があれば、いつでもご連絡ください。
ご自身のペースで大丈夫です。』
短い文章。
でも、「急がなくていい」という空気が、ちゃんと伝わってくる。
(……入会、どうしよう)
考えないわけじゃない。
でも、今日中に答えを出さなくていいことが、なぜか救いだった。
由香は、カレンダーを見た。
来月で三十九。
数字は、まだそこにある。
消えたわけじゃない。
それでも、昨日よりは、怖くない。
「……明日考えよう」
由香はそう言って、電気を消した。
布団に入ると、自然に息が深くなる。
まだ、何も決まっていない。
でも、「どうしようもない感じ」は消えていた。
結婚相談所は、魔法の場所じゃない。
でも、少なくとも――
怖がって一人で抱え込む場所じゃなかった。
由香は、そう思いながら目を閉じた。
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