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結婚相談所に行く前の、38歳の私  作者: 早乙女リク


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第3話 結婚相談所という単語を検索する夜

 その夜、由香はいつもより遅く帰宅した。

 残業というほどでもないが、仕事帰りに少し遠回りをしてスーパーに寄り、値引きシールの貼られた惣菜を選んでいたら、すっかり時間がずれた。


 部屋に入ると、昼間の空気がそのまま残っている。

 誰もいない部屋の匂いは、外から帰ってきた瞬間に一番分かる。


「……ただいま」


 返事がないと分かっているのに、つい言ってしまう自分に、由香は小さく笑った。

 靴を脱ぎ、カーディガンをハンガーにかけ、惣菜をレンジに入れる。この一連の動作は、もう体に染みついている。


 テレビをつけると、バラエティ番組が騒がしかった。

 若い芸人が恋愛トークで盛り上がっている。


「三十超えたら結婚は妥協だよね〜」


 その一言に、由香は思わずリモコンを手に取った。

 消そうとして、やめた。


(別に、私に言ってるわけじゃない)


 そう思おうとしても、胸の奥がざらっとする。

 妥協。

 便利な言葉だ。使う側は軽いけど、受け取る側は重い。


 食事を終え、テーブルを片づけると、由香はソファに座った。

 今日一日、仕事の間は考えないようにしていたことが、ここで一気に戻ってくる。


 結婚相談所。


 昼間、スマホで見たページが、頭の中に再生される。

 「悩んでいる状態のまま来ていい」。

 あの一文だけが、やけに残っていた。


 由香はスマホを手に取った。

 昨日までは、検索するだけで心臓が早鐘を打っていたのに、今日は少し違う。


「……もう一回だけ」


 誰に言い訳しているのか分からないまま、検索欄を開く。

 今度は、昼とは違う検索ワードを入れた。


「結婚相談所 実際どう」


 すぐに、体験談や口コミが並んだ。

 良い話も、悪い話も、極端だ。


『すぐ成婚できました!』

『お金の無駄でした』

『担当が合わなかった』

『人生変わった』


「人生変わったって……大げさすぎない?」


 由香はつぶやいた。

 でも、心のどこかで「変わってほしい」と思っている自分がいる。


 ページをスクロールしながら、由香は気づいた。

 否定的な口コミを読んでいるときの方が、心が落ち着くのだ。


(ほら、やっぱり危ないじゃん)

(無理に行かなくていい理由がある)


 安心したいだけ。

 挑戦しないための材料集め。


 由香はスマホを置き、天井を見上げた。


「私、ずるいな……」


 本当に怖いのは、失敗することじゃない。

 ちゃんと向き合って、それでもダメだったときに、「やっぱり私には無理だった」と確定してしまうことだ。


 やらなければ、可能性は宙ぶらりんのまま残る。

 それは、希望でもあり、逃げ道でもある。


 由香は立ち上がり、クローゼットを開けた。

 中には、仕事用の服と、数着のきれいめなワンピース。


「……カウンセリングって、何着ていくんだろ」


 思わず出たその言葉に、由香は自分で驚いた。

 まだ予約もしていないのに、もう服の心配をしている。


(私、行く前提で考えてる)


 その事実に、胸が少し熱くなる。

 怖いのに。

 まだ決めていないのに。


 スマホを手に取り、昼に見たあの相談所のページをもう一度開いた。

 予約フォーム。

 名前、年齢、連絡先。

 そして「ご相談内容(任意)」という欄。


 由香はそこを見て、指が止まった。


 何を書くのが正解なんだろう。

 「結婚したいです」?

 「不安です」?

 「何から始めればいいか分かりません」?


 どれも嘘じゃない。

 でも、どれも自分をさらけ出しすぎる気がした。


 しばらく迷った末、由香は短く打った。


「婚活について悩んでいます」


 それだけ。

 削らず、盛らず、言い訳もしない一文。


 入力し終えて、由香は画面を見つめた。

 送信ボタンは、思ったより普通だった。赤くもなく、光ってもいない。ただそこにある。


 指を乗せる。

 離す。

 また乗せる。


「……ほんとに、話聞くだけだから」


 誰も責めていないのに、自分で自分に言い聞かせる。


 そして、由香は送信ボタンを押した。


 一瞬、画面が切り替わる。


『ご予約ありがとうございます。担当者よりご連絡いたします。』


 それだけ。

 拍子抜けするほど、あっさりしていた。


「……え、終わり?」


 由香は思わず声に出した。

 もっと何かあると思っていた。

 警告とか、覚悟を問う文章とか。


 でも、何もない。

 ただ、受付完了の文字だけ。


 由香はスマホを置き、深く息を吐いた。

 心臓は早いけれど、嫌な感じじゃない。


(私、今……結婚相談所に申し込んだんだ)


 その事実が、じわじわと現実味を帯びてくる。


 怖さは、消えていない。

 でも、それ以上に不思議な感覚があった。


 ――少しだけ、楽。


 何かを決めたというより、止まっていたものが動き出した感じ。

 結果は分からない。

 うまくいく保証もない。


 それでも、由香はソファにもたれ、天井を見上げた。


「……私、ちゃんと悩んでたんだな」


 悩んで、迷って、それでも一歩だけ動いた。

 それだけで、今日は十分だ。


 スマホが、テーブルの上で静かに光った。

 まだ返信は来ていない。

 それでも由香は、なぜか安心して電気を消した。


 暗闇の中で、目を閉じる。


 明日、どんな連絡が来るかは分からない。

 でももう、「何もしていない夜」ではなかった。


 由香は、少しだけ軽くなった気持ちで、眠りに落ちていった。

ここまでご覧いただきありがとうございます。


次の投稿からは、1日1回の更新になります。


ブックマークをして、楽しみにお待ちいただけると嬉しいです。

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