第2話 怖かったのは、男の人じゃなくて自分だった
翌朝、由香は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
夢は見ていない。正確には、見たはずなのに内容を覚えていない。こういう朝は決まって、頭のどこかが重たい。
「……やっぱり寝不足か」
洗面所の鏡に映る自分にそう言いながら、歯を磨く。
昨日アプリを消したことは、まだ現実感がなかった。長年使っていない筋肉が、今日になってじわっと痛み出すような、遅効性の違和感だけが残っている。
通勤電車はいつも通り混んでいた。
スマホを見ている人、寝ている人、ぼんやり宙を見つめている人。誰も他人に興味がない。
由香はその「誰にも見られていない感じ」に、少し救われる。
会社に着くと、いつもの一日が始まった。
メールを処理し、請求書をチェックし、電話を取る。
仕事は嫌いじゃない。むしろ得意な方だ。決められたことを、きちんとこなす。相手の立場を考えて動く。
それなのに、恋愛とか結婚になると、急に自分が不器用な別人になる気がする。
「由香さん、これお願いしてもいいですか?」
「あ、はい」
後輩に資料を渡されながら、由香はふと思った。
仕事では頼られるのに、プライベートでは「いい人がいないの?」と聞かれる側になるのは、なぜなんだろう。
昼休み、由香は一人でコンビニのサラダとおにぎりを食べた。
机の上にスマホを置く。
つい、親指がホーム画面をなぞる。
――ない。
当たり前だけど、ない。
アプリがあった場所は、ぽっかり空いている。
代わりにあるのは、天気とカレンダーと、使いもしないヘルスケアアプリ。
(私、今、婚活してないんだ)
その事実が、少しだけ怖くて、少しだけ楽だった。
由香はサラダを食べ終え、スマホを伏せた。
考えないようにしても、昨日の夜のことが頭に戻ってくる。
――怖かったのは、男の人じゃなくて、自分。
あの言葉は、的確すぎた。
由香は、アプリで出会った男性そのものより、「また判断を間違えるかもしれない自分」が怖かったのだ。
人を見る目がない。
そう思い始めたのは、いつからだろう。
二十代の頃は、勢いで恋愛していた。
好きになって、付き合って、合わなければ別れる。それでいいと思っていた。
でも三十代に入ってからは、別れるたびに「時間」が頭をよぎるようになった。
(次は、失敗できない)
その意識が、由香をどんどん臆病にした。
アプリで誰かと会う前、必ず頭の中でシミュレーションする。
もし既婚者だったら?
もし嘘をついていたら?
もし変な人だったら?
もし私が傷ついたら?
その「もし」が多すぎて、心が動く前に疲れてしまう。
それでも、「何もしない」よりはマシだと思って続けていた。
結果は、知っての通りだ。
仕事が終わり、駅までの道を歩きながら、由香はポケットの中のスマホを握った。
昨日、自分に言った言葉を思い出す。
(仕事帰りに……もう一回だけ、見てみよう)
見るだけ。
話を聞くだけ。
それだけなら、何かを失うわけじゃない。
由香は立ち止まり、スマホを取り出した。
人通りの多い歩道で、少しだけ周囲を気にしながら、検索欄を開く。
「結婚相談所」
今度は、途中で消さなかった。
検索ボタンを押すと、ずらりと結果が並ぶ。
爽やかな男女の写真。
「成婚率〇%」
「最短三ヶ月」
「無料カウンセリング実施中」
「……多いな」
正直な感想だった。
そして、どれも似ている。
由香は一つひとつのページを開いては閉じた。
料金表を見ると、反射的に眉が寄る。
カウンセラー紹介を見ると、「この人に人生のこと話すのか……」と身構える。
でも、不思議なことに、昨日より心拍数は上がっていなかった。
怖いのは怖い。
でも、アプリで知らない人と会う怖さとは、種類が違う。
(……少なくとも、独身かどうかは確認されてるんだよね)
そんな当たり前のことに、由香は苦笑した。
基準が下がっているのか、現実を見始めているのか、自分でも分からない。
ふと、あるページで指が止まった。
派手な実績アピールはない。
写真も控えめ。
「無理に入会を勧めることはありません」という一文が目に入る。
「……本当かな」
疑いながらも、由香は読み進めた。
そこに書いてあったのは、「悩んでいる状態のまま来ていい」という言葉だった。
由香は、胸の奥が少しだけ緩むのを感じた。
(悩んでる状態のまま、来ていいんだ)
これまで、何かを始めるときは「覚悟」が必要だと思っていた。
でも、ここでは「覚悟がない人」も想定されている。
由香は予約フォームを開いた。
名前、年齢、連絡先。
入力欄を見ただけで、指が止まる。
まだだ。
今日は、まだ。
由香は画面を閉じた。
逃げた、と言えば逃げたのかもしれない。
でも昨日より、確実に一歩先にいる。
駅のホームに立ち、電車を待ちながら、由香は思った。
怖さが消える日なんて、きっと来ない。
でも、怖いまま動くことは、できるのかもしれない。
電車が来る。
ドアが開く。
由香は、流れに乗って乗り込んだ。
まだ、何も始まっていない。
でも、「何もしていない」状態では、もうなかった。
本話もお読みいただき、ありがとうございました!
少しでも続きが気になる、と感じていただけましたら、
ブックマーク や 評価 をお願いします。
応援が励みになります!
これからもどうぞよろしくお願いします!




