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結婚相談所に行く前の、38歳の私  作者: 早乙女リク


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第1話 38歳、アプリを消して、何もしていない

結婚したいかどうかは、分からない。

でも、何もしないまま時間が過ぎていくのが、少しだけ怖い。


マッチングアプリは、もう疲れた。

かといって、結婚相談所に行く勇気もない。


これは、

結婚相談所に「入会した人」の話ではない。


行こうかどうか、

何度も検索して、何度も閉じて、

それでも答えが出なかった

38歳の、ただの私の話だ。


同じ場所で立ち止まっている誰かに、

「それでいいんだよ」と伝えるための物語。

 スマホの画面に、ピンク色のハートが揺れていた。

 揺れているというより、こっちを見てニヤニヤしているように見える。三浦由香、三十八歳。勤務先は都内のメーカー。肩書きは「一般事務」。人生の肩書きは――いまだ「独身」。


「……消すか」


 由香は布団の上で仰向けになり、親指を構えた。消すだけ。たったそれだけなのに、なぜか喉が乾く。

 アプリのアイコンを長押しすると、ちょっと偉そうなメニューが出てきた。


『アプリを削除』

『ホーム画面から取り除く』


 こういうとき、選択肢が二つあるのは良くない。人間は弱い。弱い人間ほど「一旦、ホーム画面から取り除く」を選びがちだ。見えなければ、やってないことにはならないから。


「……違う。私は今日、“終わらせる”。」


 由香は深呼吸し、「アプリを削除」を押した。


『このアプリを削除すると、すべてのデータが削除されます。』


 脳内で、どこかのナレーターが厳粛に読み上げる。すべてのデータって何。二年前の虚無なやり取りも? 「こんばんは、よろしくお願いします(笑顔)」の絵文字の洪水も? 会ったはずなのに名前が思い出せない男性たちも?


「削除。削除です。お願いします。」


 由香は祈るように押した。

 ハートが消えた。

 画面は何事もなかったかのように静かになった。


 ……これで、終わり。

 由香はスマホを枕元に置き、天井を見た。


 終わりのはずなのに、胸の奥に残っているのは爽快感ではなく、薄い膜みたいな不安だった。


 アプリを消す。

 つまり、婚活をやめる。

 いや、正確には「やめる」ではない。「何もしていない状態に戻る」だ。由香の得意技は、何もしていない状態を“忙しい”で包むこと。


 時計を見ると、二十三時四十分。明日は仕事。寝るべき。なのに、頭の中だけが深夜のフードコートみたいに騒がしい。


(……私、何をやってるんだろ)


 由香は起き上がり、冷蔵庫から麦茶を取り出した。コップに注ぐ音がやけに大きい。部屋が静かすぎるのだ。

 ワンルーム。ベッド。テーブル。観葉植物。自分のためだけに選んだ家具たち。快適。ひとり暮らしとしては満点。なのに、三十八歳の夜に「快適」は、時々「孤独」の別名になる。


 由香はテーブルに肘をつき、スマホを手に取った。反射で黒い画面に自分の顔が映る。

 疲れた顔。

 昔の自分より、目が小さい。というより、目を開ける力が減っている。


 思い出すのは、二年前のこと。

 アプリを始めたのは、三十六歳の春。友人の美咲が、ランチで軽く言ったのがきっかけだった。


「今どき、アプリは普通だよ。由香もやれば? 結婚するなら早い方がいいじゃん」


 美咲はすでに結婚していて、子どもが二人いる。爪はきれいにジェル。スマホケースには子どもの写真。話す内容は、保育園と習い事と住宅ローン。

 その口から「普通だよ」と言われると、由香の中の何かが焦げる。


(普通って、誰の普通)


 でも由香は、笑って頷いた。

 いつもそうだ。反論するのが面倒だし、相手の人生が順調なときに水を差すのも変な気がする。だから自分の不安は、いつも自分の中だけで増殖する。


 アプリの最初の頃は、ちょっと楽しかった。

 「いいね」が来ると、まだ私にも価値がある気がした。プロフィール写真を変えると反応が変わる。会話のテンプレがある。「休日は何をしてますか?」が日本の標準語みたいに飛び交う。


 ただ、楽しいのは二週間だった。


 まず一回目に、怖いと思ったのは――「早い」人。


 メッセージ二日目で、いきなり距離が縮む。


『由香ちゃんって呼んでいい?』

『今日会える? 今からでも。』

『とりあえず電話しよ。』


 「とりあえず」が多い男は信用ならない。

 由香は返信をやめた。すると、相手は怒った。


『既読無視って失礼じゃない?』

『そういうとこだよ、だから結婚できないんだよ。』


 その瞬間、由香はスマホを落としそうになった。

 知らない男に、知らない声で、人生を断罪される。

 画面の向こうは、顔も分からない。怒っているのか、遊んでいるのか、酔っているのか、そもそも本当に独身なのかも分からない。


 怖い、というより、足元がなくなる感じだった。

 自分が立っている場所が、突然スライムになるみたいに。


 二回目に怖かったのは、「違う」人。


 写真は爽やかで、仕事は安定していて、文章も丁寧。会ってみても、ちゃんと普通に会話ができた。

 でも、二杯目のハイボールのあたりで言われた。


「で、投資とかやってます? 俺、すごい人紹介できますよ」


 出た。

 由香は心の中で、ドラムロールを鳴らした。

 そして、笑顔で逃げた。逃げるために笑った。笑いながら心のドアに鍵をかけた。


 その帰り道、電車の窓に映る自分が、ひどく情けなく見えた。

 私、何してるんだろう。

 私、何を守ってるんだろう。

 守りたいのは、自分の体と心のはずなのに、守れば守るほど「時間」が減っていく。


 アプリをやめて二年。

 何もしていない二年。


 その間に、同僚の結婚報告は三件あった。

 祝儀を包み、二次会で笑い、帰りの電車で自分のスマホを見て、何も予定がないことを確認する。

 年末年始は実家に帰るたびに、母が言う。


「由香は、いい人いないの?」


 いい人、という言葉が一番困る。

 いい人って、何。

 いい人がいたら、私は今こんな夜を過ごしていない。


 由香はコップの麦茶を飲み干し、スマホをまた手に取った。

 空になったホーム画面は、妙にきれいで、妙に冷たい。


 ――結婚相談所。


 その単語が、頭の端で揺れた。

 由香はすぐに否定した。


(やだやだ。結婚相談所って……なんか、負けた感じがする)


 負け。

 誰に?

 何に?


 自分で自分に突っ込んで、由香は苦笑した。

 相談所が負けなら、アプリで上手くいかなかった私は何。

 そもそも勝ち負けって何。結婚って、トーナメント戦だったっけ。


 でも、心がざわつくのは事実だった。


 結婚相談所って、怖い。

 アプリの怖さとは種類が違う怖さ。


 「結婚できない人が行くところ」

 「最後の手段」

 「高い」

 「説教されそう」

 「知り合いに見られたら終わる」


 由香の頭の中には、偏見がぎっしり詰まっている。

 偏見は、怖さの別名だ。


 由香はスマホの検索欄に指を置いた。

 でも、打てない。

 打ったら、何かが始まってしまう気がする。


 検索欄の上に、天使と悪魔が出てくる。

 悪魔は言う。「やめとけ。まだ大丈夫。来年から本気出せ。」

 天使は言う。「大丈夫じゃないって分かってるでしょ。話を聞くだけでもいいじゃん。」

 この天使、意外と現実的で腹立つ。


「……話を聞くだけ、っていうのが一番怖いんだよな」


 由香は小声で言った。

 話を聞く。つまり、自分の現状を言語化する。自分がどれだけ不安で、どれだけ先延ばしにしてきたかを誰かに見せる。

 それは、鏡の前で体重計に乗るのと同じくらい勇気がいる。


 由香は検索欄に、ひらがなで打った。


「けっこん……そうだん……じょ」


 予測変換が勝手に補完する。


『結婚相談所 怖い』

『結婚相談所 恥ずかしい』

『結婚相談所 料金』

『結婚相談所 おすすめ』

『結婚相談所 やめとけ』


「やめとけ、って何」


 由香は思わず笑った。

 検索候補に「やめとけ」が出る世界、世知辛すぎる。


 しかし笑った次の瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。

 自分がまさにその「やめとけ」を探しにいこうとしているからだ。


 由香は指を止めたまま、しばらく画面を見つめた。

 そして、テーブルの上のカレンダーに視線を移した。

 来月で三十九になる。

 数字はただの数字のはずなのに、毎年、少しずつ刃物みたいになる。


 由香は深く息を吸って、吐いた。


「……怖いのは、男の人じゃなくて。たぶん、私の方だ」


 誰かに言われたわけじゃない。

 自分で言ったのに、胸に刺さった。


 怖いのは、騙されること。

 怖いのは、傷つくこと。

 怖いのは、また何も変わらないこと。

 怖いのは、頑張ってもダメだったときに、自分を受け止められないこと。


 由香は、検索欄の文字列を消さずに、スマホを伏せた。

 今夜はここまで。

 打っただけ。検索はしていない。

 でも、打った。

 それだけで、何かが少し動いた気がした。


 布団に戻る。

 部屋の電気を消す。

 暗闇の中で、由香は目を閉じた。


(明日、仕事帰りに……もう一回だけ、見てみよう)


 「見てみる」。

 それは由香が自分に許せる、いちばん小さな前進の言葉だった。


 スマホは、枕元で沈黙している。

 ハートはもういない。

 でも、由香の胸の中には、消しきれない「続き」が残っていた。

本話もお読みいただき、ありがとうございました!


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