港に走る一行
夜明け前、魔王都の港は魚と鉄の匂いで湿っていた。
黒江シンは活版箱を肩に、相棒のリナと古い石壁の前に立つ。元・週刊誌記者。今は魔王政庁の夜勤部署――黒版課の記者だ。リナは活版工にして校正係、紙を出す前の最後のブレーキでもある。
「証拠、揃ってる?」
「揃ってる。孤児院の帳簿、港の受領印、目撃の聞き書き。……誤字は命を食うから、短く正確にいこう」
下の広場では勇者レオンが人を集めていた。白報の幕、ハウリ商会の旗。孤児院への寄付を誇る声が、夜気に薄く浮かぶ。
今夜は刷らない。一行で足りる。
シンは空を仰ぎ、指先で見えない活字を並べる。肋骨の奥が火種みたいに熱くなる。
「――上へ」
黒い一行が夜空に走った。
『孤児の口を塞いだ者に、栄誉なし』
息をのむ気配が広がる。風もないのに、ハウリ商会の旗の紋が墨へ裏返る。
レオンは剣を掲げ、怒声を張った。
「誹謗だ! 俺は寄付を――」
シンは懐から黒封を取り出し、胸に軽く触れさせる。
「三問だけだ。夜明けまでに答えろ。
一、寄付袋は誰の手から誰の手へ。
二、印はどこで押した。
三、朝、その袋はどこにあった」
未回答のまま夜明けを跨げば、加護が錆びる。それが黒版課の公開質問状だ。
レオンが剣を振り上げた瞬間、シンは紙片を裂くみたいに指を振った。
「――黒帯」
黒い帯が剣を撫で、光だけが抜けた。抜き身なのに、音がしない。舞台のBGMも一拍で沈む。禁則処理――飾りだけを落とす。
「飾りは脱いだ。言葉でいこう」
空に字幕が三つ、淡く灯る。
〈去年の秋:「孤児を守る」〉
〈先月:「帳簿は後で整える」〉
〈昨夜:「夜だけ満額で見せればいい」〉
「鎖を下ろす」
字幕が鎖になって落ち、レオンの足首でカンと鳴る。逆引用鎖。逃げ道は、もう自分の言葉の中にしかない。
観衆の列から、濡れ髪の女房が一歩出る。
「昨夜、袋を門に置くのを見たよ。港の印。……朝には空っぽだった」
孤児院の年長の子が拳を握る。「帳簿、返して」
レオンは鎖を睨み、喉を動かす。怒鳴れば楽だ。だが剣は失音、旗は黒、空には一行。やるべきことは一つしかない。
「……答える。一、袋はハウリの屋敷から俺へ。俺から孤児院の門へ。門で拒まれて、宿に持ち帰った。
二、印は港。
三、朝は――俺の宿で空だった」
黒封の蝋がパキンと割れた。回答一つ、受理。
旗を持つ商会の男が視線を逸らす。白かった紋はもう戻らない。
シンは空を見上げたまま、短く告げた。
「処し方を出す。寄付の全額返還。帳簿の公開。孤児院の炊き出しに七日。――やれるな」
レオンは唇を噛み、うなずく。
「……やる。ハウリの名も出す。俺の名も出してくれ。逃げない」
その瞬間、胸の勲章が音もなく外れ、石に触れて小さく鳴った。誰も拍手しない。沈黙だけが判決だ。
石段を降りながら、リナがシンの手を見る。
「指、熱いね」
「焼けてはいない。誤字はない」
真を打つと指は熱を持つ。誤字を打てば焼ける。今夜は熱だけだ。
石段の陰で、孤児院の子が不安そうにこちらを見る。シンは膝を折り、目線を合わせる。
「今日の昼、紙面に空白の枠を残す。『ここに反論・訂正を掲載します』って枠だ。謝れたはずの場所でもある」
子は小さくうなずいた。
レオンは鎖に縛られたまま、深く息を吐く。
「……七日間、通う。俺の足で」
「それでいい。剣は仕舞え。音が戻るまで」
レオンは剣を納め、鎖はほどけた。彼は群衆の中で一度だけ頭を下げる。
空の一行は薄れ、朝の色が戻る。
歩き出すシンの横で、リナが小さく呟いた。
「あなた、今ひとつ消えたでしょ」
喉の奥に、小さな空白が残っている。さっき“黒帯”を振った代償だ。昔の自分の記事の一行が、どうしても思い出せない。
「――大丈夫だ」
「ほんとに?」
「必要なほうは残る」
「今夜号、刷る?」
「反論が来たら全文掲載。来なければ紙面に白紙の枠を一段」
「白紙?」
「やり直しの場所、って意味だ」
港の鐘が二つ、遅れて鳴る。活版箱が肩で小さく鳴った。
黒版課の夜は続く。一行あれば、十分だ。




