残る二つの沈黙
返答集会の夜が明けて、広場の掲示板に紙が並んだ。
二つだけ、空欄が残っている。入札委員の一名と、白報の古い台本担当。
名前は出していない。枠だけがぽっかり空いて、風に鳴る。
俺――黒江シンは、指先の熱をじっと待ってから手袋をはめた。
焼けてはいない。誤字は打っていない。けれど、喉の奥には小さな空白が残っている。昨夜、禁則処理を打った代償だ。
「まず白報の台本担当から行こう」
相棒のリナが頷く。「出せない理由がある顔だった。守る手順を見せよう」
「脅しにはしない。返答の入口を作る」
白報の倉庫
昼の喧噪が遠くで響く。倉庫の灯りは弱い。
背の曲がった男が机に向かっていた。白髪混じり、指はインクで黒い。
白報の古い台本担当。目だけが若い。
「三問の返事をもらいに来た」俺は低く言う。「台本の有無、決裁の流れ、配分への反映」
男は首を振った。「出せば、誰かが職を失う」
「あなた自身か?」
「若いのが先に切られる。私は古い。矢面に立てば済む。だが、それも違う」
机の上に、封のしていない封筒があった。
男はそれに指先を置いた。
「雛形がある。……泣きの間、光の強さ、切り替えの合図。何年もかけて作った。良かれと思って。寄付が伸びた。現場が回った夜もある。……でも、嘘を背負わせた夜もあった」
声が掠れた。
「未回答にしたのは卑怯だ。名指しで誰か一人を壊す未来が見えた。それだけは違うと思って、止まった」
胸の中で、俺の昔の夜が疼いた。
前の世界。俺も、誰かを見出しで壊した。善意を盾に。
喉の空白が、少し広がる気がした。
リナが口を開く。
「匿名の預けができる。条約(黒白協約)に匿名保護手順がある。原本は封印保管、責任の配分は行為の線引きでやる。名前で裁かない」
男は目を上げた。「本当に、守るのか」
「守る。代役の回の彼も、名は出していない」俺は言う。「行為と基準で切る。人ではない」
男は封筒を押しやる。
「雛形を預ける。決裁印の写しも。条件がある。若いのを守ってくれ。配分の透明で寄付を守ってくれ」
「やる」
俺は封筒を受け取り、机の横に白い小さな枠を置いた。
「返答・訂正の枠だ。あなたの言葉を、そのまま載せる。『良かれと思って作った』『嘘を背負わせた夜もあった』。全文で載せる。編集しない」
男は長く息を吐いた。
「救われるのは私じゃない。これからの夜だ」
「そうだ」俺は言う。「見せ方は紙の後にする」
倉庫を出る時、白報聖紙が壁に立てかけてあった。
縁が、うっすら燻っていた。
「違う方向に使った夜の跡だね」リナが小さく言った。
「紙を戻す。それでいい」
入札委員の家
坂を上がった先、小さな庭に洗い桶。
入札委員は、痩せた若い女性だった。片手に包帯。
戸口に立つと、彼女は小さく会釈した。
「未回答のままだ」俺は言う。「利害の申告、配点の根拠、委員会の手順。何が怖い」
彼女は目を伏せた。
「贈り物を受け取った。菓子だ。安いもの。断れるはずだったのに、断れなかった。配点は正しくつけたつもりだ。……でも、申告欄に手が止まった」
「なぜ」
「親の薬を、ハウリの倉庫から先に回してもらった。善意だと、思った。線を跨いだのに、目をそらした。未回答にすれば、誰も傷つかないと、思い込んだ。愚かだ」
リナが穏やかに言う。
「申告すれば、線は引き直せる。贈り物と配点を切り離す手順がある。自分の採点を棄権し、他の委員と外部の点検を入れる。三回分、委員から降りる。再教育の講座を受ける。——それで戻れる」
女は唇を噛んだ。
「戻っていいのか」
「戻ってほしい」俺は答える。「失格は終わりじゃない。やり直しは公開でやる。同じ線を、次の誰かが跨がないように」
彼女は棚から帳簿を取り出した。
「配点表と、受け取った菓子の記録をつけ直す。薬の便名も書く。恥だけど、紙にする」
俺は頷いた。
「ありがとう。紙があれば、善意は中身のほうへ戻れる」
庭の奥から、年配の女性が出てきた。
歩みはゆっくりだが、目は強い。
「この子が戻るなら、私の薬は列に戻すよ」
彼女は笑った。「順番でいい。順番が安心だから」
胸の奥の空白が、すっと細くなった気がした。
鐘楼前・夜
再び夜が来た。掲示板の二つの枠は、紙で埋まった。
名前は出ていない。行為と手順だけが載っている。
俺は黒封の薄い殻を指で押し、二つとも音もなく剥がす。
未回答は未回答じゃなくなった。
白報の司会が近づいてきた。
「……ありがとうございました」
「礼は紙に言え」俺は軽く笑った。「全文載せてある」
人垣の向こうで、勇者レオンが手を振った。
「明日、共同施工の初日だ。番号と間隔は全部掲示する」
エヴァンも続ける。
「配信の枠は後ろに回す。事故ゼロを先に」
カヤは短く言った。
「表示は最初に掲げる。本人限定は守る」
リナが俺を見る。
「一行、打つ?」
俺は少し考え、首を振った。
「今夜は打たない。紙が間に合った。沈黙は理由だった。懲らすためじゃない」
新人トマが土嚢の上に腰を下ろし、空を見た。
「俺、泣けって言われると固まるけど、番号を読むのは好きだ。順番が決まってると、安心するんだ」
ユイが笑う。
「わかる。順番って強い」
俺は自分の指を見た。熱だけが残っていて、痛みはない。
喉の空白は、夕立の後みたいに小さくなっている。
やり直しが紙で動く夜は、体のどこかが軽い。
掲示板の前で、リナが最後の誤字を止めた。
「この一文字、寿命に直結するからね」
「任せる」俺は笑う。「校正に救われる命、あるよな」
「毎夜ね」
鐘の音がひとつ落ちて、風が紙をめくった。
短い一文が目に入る。
『名前ではなく、行為で決める』
俺が書いたのか、リナが差したのか、もう思い出せない。
それでいい。必要なほうは残る。




